13.反射光
ひとつたりとも失えない、と思ったのはこれが最初だった。
目の前で、泣く。
己の好きな人が、泣いている。
この人がこんな泣き方を出来る人だとは思っていなかったから、無言の仮面の下で酷く慌てながら、その嗚咽とぱたりぱたりと頬を伝い顎を伝って落ちる涙の雫を見つめていた。
冷静に考えれば手を伸ばして拭うことも、背を撫でて慰めることだって簡単だったのに、慣れた手法のひとつすら思いつけず、ただただ呆然と見つめることしか出来なかった。
途切れ途切れの罵声も、乱暴に拭った所為で赤く染まった目尻も、酷く心に突き刺さる気がして、思わず胸元をぎゅっと握り締める。
痛い、苦しい。
胸が詰まるようなこの感覚を、文字に言葉にするならそうするしかないけれど、そんな記号では表しきれない感情が喉に胸に頭に、張り付いて離れない。
泣き声。
彼とは縁がないと信じていたそれ。
静かに、涙を零すことはあるだろうと思っていた。
逆に、叫ぶように悔しさに泣くこともあるだろうとは。
けれど、こんな泣き方は想像外だった。悲痛なほどの悲しみを滲ませて、ただただ静かに壊れてゆくような泣き方は。
たったひとつを間違えただけで壊れるほどこの人は強くて脆いのだと、ようやく気付いた己に舌打ちをしたくなる。
「…めいたんてい、」
「ば、っか、やろーっ…!!」
とめどなく流れる涙。嗚咽に掠れた声と、くしゃくしゃの顔。
それでも彼が綺麗だと思えたのは、とっくに自分が間違っているから?
ぎゅっと瞑った瞼の奥で、ひらめいた心の衝動のままに、怪盗はそっと手を伸ばした。
白い手袋の、青いシャツの奥に到底隠しきれない傷を抱えて、血の匂いすらそのままに、躊躇いがちに手を伸ばして。
触れた頬の濡れた感触と、ようやく此方を見上げた濡れた蒼の双眸。
月明かりを反射して輝くそれが綺麗だと、思ってしまった瞬間からたぶん囚われた。
負った傷に彼が泣くのなら、存在の消失に慟哭するのなら、とっくに軽んじていた己の全てが、かけがえのない最重要項目へと押し上げられる。
何時死んでもいい、何時忘却されてもいい、たった一つの目的さえ叶うのならば、それも悪くないと思っていた己が書き換えられる困惑と歓喜に、掴んだシャツの下の心臓がどくりと鼓動を早める。
また一筋、探偵の頬を流れ落ちる涙を、そっと言葉の代わりに唇で拭い去った。
2006.01.31.
H O M E *