見えない月



 月の無い夜、じっとりと纏わりつくような湿気が煩わしい大気の夜だった。

 駆ける。追い立てられるように、或いは猟犬のように。
 跳ぶ。あらゆるものを避けるように、或いは粉砕するかの如く。

 ぼんやりと霧にけぶる街の光を切り裂いて、響く破裂音に眉を顰める。額を伝う汗とも露とも分からない滴を袖口で乱暴に拭い、一旦は緩めた走る速度を再びトップスピードへともっていった。
 鮮やかなものなど何も無く、確かめることさえ出来ない鈍色の宝珠が冷たく胸の中で眠るだけ。
 追い縋る、或いはこちらこそが追い詰めたいと願う敵は手段を選んでくれるような相手ではない。繁華街に近い地点から既に人通りが少なくなったオフィス街の外れへと向けた足は確かだったようで、焦れた相手はこの国ではあまりにリスクの高い銃火器さえも使うことを躊躇わないことは明らかだった。

 吐き出す吐息は緊張に熱い。
 重ささえ感じるほどの空気は呼吸すら妨げるが如くに不愉快で、拭った先からまた垂れる滴が厄介だった。
 足音さえ消した夜の中では遠くから聞こえる自動車の排気音と賑やかな繁華街のBGM、そして己の呼吸だけが響く。時折交る追跡者の罵声やサイレンサーの存在すら忘れた発砲音はむしろ嘲笑を誘う。

 言葉に意味が無いことなど、とうに知っている。
 夜に偽りを纏う己だけでなく、世界の大半が嘘と幻で構成されていることを知っている。

 ただ、それでもただ。
 其処にも確かに真実はあるのだと。
 悲しいばかりの現実の中にも、救いの一欠けらは存在するのだと、そんな夢物語を本気で信じている男を知っている。
 己が紡ぐものが嘘でしかないのに、それをやさしいと告げる男を、知っている。

 だから。

「てめーらなんかに……負けてやるわけにはいかねーんだよっ……!」

 白いローファーがコンクリートを蹴りつける。
 構えたトランプ銃と、モノクルの奥の眼が捉えたものは襲撃者の右手。
 禍々しい狂気を孕んだ鋼を削ぎ落とすべく、明確な意図を以て鋭く穿った硬化コーティング加工が為されたスペードの6がコンクリートに突き刺さる。
 鋼が転がる音と、聞くに堪えない野太い悲鳴。
 怨念さえ籠るかのようなそれに退きたくなる本心をポーカーフェイスで覆い隠し、月の光さえ届かない夜の底でシルクハットを被り直した。

「永遠などという醜いものを、私は永久に認めない。……それが利己的なものであるならば、尚更に」
 取り繕うまでもなく低く冷たい響きを湛えた己の声を自覚しながら、白を纏い偽りの夢を紡ぐ魔法使いはかつりとわずかな音を響かせて一歩を踏み出した。
 永遠の為に失われる命があってはならない。それは、父親から継いだものでもあり父親自身の喪失をも含むことを、果たして何人が知るのだろう。
 知る事の意味と真実の重さを知る者が、永遠など求めはしないだろうに。
 射殺すような物騒な視線を向ける追跡者は、けれどもその視線の外では転がった鋼に手を伸ばす瞬間を虎視眈々と狙っているのだろう。

 ただ、その状況を打開したのは予想外な場所からの一手だった。

 響き渡る、聞き覚えのあるサイレン。
 パトカーのそれだ、と認識するのと、音がする方向へと意識をやった一瞬。
 けれどもその一瞬を組織の殺し屋なのだろう追跡者が見逃す筈もなく、再び危害を加える意図を抱えて転がった銃へと手が延ばされる。

 しまった、と一瞬だけ瞳を揺らした月下の奇術師と。
 してやったり、と唇を歪めた追跡者。

 あと数ミリ、というところまで届いた指先は、けれども無慈悲なまでに鋼を強く蹴りつけた足の存在によって無意味なものとなり果てたけれど。

「……そうそう好き勝手やらせちまったら、こっちの立場がねーだろうがよ」
「めい、たんてい……」

 呆然と告げた声に、涼やかな目元が不敵な笑みを刻む。
 視線と指先だけで『行け』と告げる様さえも様になるその姿に、最大限の敬意を込めて怪盗は静かに腰を折った。
 近づくサイレンと、ビルに映り始めたパトライト。
 手早く抵抗を封じてゆく手際に見惚れる余裕すら無く、怪盗はその場を後にするしかないようだ。
「――感謝を、名探偵」
「オメーには山ほど借りを作ったまんまだしな。ひとつ返したと思ってくれりゃ構わねえよ」
 互いに振り返る事もなく紡がれた言葉は嘘だらけ。
 真実の欠片はその中に埋もれて見える事も無く、このすべてが朧にけぶった夜のようにあやふやで確かなものなど何一つ無い。

 けれど。

「それでも俺は……オメーが居ることに感謝するよ」
 遅れて到着した警察に拘束した犯人を引き渡し、事情聴取の為に警察へと向かう車のドアに手をかけて、工藤新一は小さく呟いた。

 嘘を嘘だと知るということ。
 どこまでも確かな真実など、人の心の中で最も移ろいやすいものなのだと、諦めと共に信じていられる要因である共犯者の背中を思う。
 未だ告げられないその名前を唇には乗せずに囁いて、その誕生を言祝ぐ言葉を飲み込んだ。

 いつか。
 いつか、この関係が共依存であり共犯であり、また敵対で無くなる日が来るのなら、その名と祝いを彼に堂々と告げるだろう。
 それは歓びであり、渇望であり、また恐怖でもある。
 矛盾する何もかもに付ける名前はひとつしかなく、それを否定しきることを、今の工藤は出来ないでいる。

 見上げた空に、月は無い。
 奈落の底のような湿った夜の中、確かに存在した男が一つ年を重ねた事。

 それでも確かに、新一は幸福を感じたのだった。



2008.06.21.

はっぴーばーすでー快斗!

H O M E *