love
誰かを愛する、という情動は、ひょっとしたらひどく身勝手で独りよがりなものなのかもしれない。
『愛している』『好きです』『私を裏切らないで』『貴方が大切』『私を欲しがって』。
どれもこれもが身勝手な言葉。けれど誰一人としてその身勝手さに気付かないから、あたかも綺麗な言葉のように錯覚さえする。
人を好きになる事は、素晴らしいことだって。
「…嘘ばっか」
小さく息を吐く。自分を嗤ってやるつもりで歪めた口元が、泣きそうに見えるだろう事に気付いて眉間に皺を寄せる。嘘も紛い物も何もかも併せ持って、まるで真実のように虚構の上で振舞う自分は今更そんな事では傷付かない。傷付くはずもない。なのに。
「嘘だよ、出鱈目なんだ。好きだって言葉は自分にだけ向けられてるモンなんだよ。誰かを大事に思うのと同じくらい、自分が大切なんだよ」
だって、それが人間だ。
人を想う事は確かに出来る。けれども同じくらい自分にも感情を向けずには居られない。
他人に向けている筈だったそれが、結局己を向いているかも知れないと考えたとき、足元にぽっかりと口を開ける奈落の存在に気付かないから、気付きたくないから見えないだけだ。
未だに、痺れが残る手のひらを見る。
ずっしりとした鋼の重さと、身体に沁み込むような冷たさ。もっと重いものや冷たいものを扱う事はマジシャンだから無論ある、けれどもそんなものとは比較にならない存在の重み。
よくあんなものを玩具のように振り回せるものだと、下卑た笑いを浮かべ己の命を幾度も狙った殺し屋たちの、その雇い主の顔を思い浮かべる。
偶然に遭遇した事件、ちょっとした事で関わりあってしまった犯罪の一部を知った為に、不条理にも命を狙われさえした。無論、何時までも関わりあうのもゴメンだったから、慎重に調査を進めて己が遭遇した事件と、己が起こした事件、その因果関係を洗った。
結果は、取るに足りない、底の浅い幼稚な犯罪だった。ゲームと考えている当事者たちと、実際に被害を受けた側との温度差に怒りさえ覚え、その怒りは快斗の大切な人を巻き込むに至って頂点に達した。
「…名探偵は、何時でもじっとしてないんだから」
くすり、と笑みを零す。随分と力の無いものだったけれど、自嘲するにも失敗したさっきよりはまだマシだ。繰り返し繰り返し心の中で暖めた、たったひとつ大切なもの。
必死で追いかけて手助けして助け切れなくて怪我をさせて、それでもようやく最後の最後に間に合った。あの瞬間の安心だけは、無償ではなくても『愛』だったと思う。それが快斗のよりどころだ。愛というのはとても便利な言葉で、簡単に汚れも綺麗になりもするけれど、それでも快斗にとって純粋だったと断言できる。
愛しているとは口にしない。
好きだ、なんて言える筈もない。だってこれは『自己満足の恋』だ。
この恋が成就することを快斗は望まない。ギリギリのやり取りだけを繰り返し、相手の中に己を刻み込む事が出来さえすればそれでいい。好敵手、その位置だけをくれれば満足だ。どれだけ自分が心配して取り乱して必死になって彼を思ったかなんて、欠片たりとも知らせてはいけない。
知ったら、彼は絆される。口では何と言おうととても優しい彼の事だから、そうなったら『快斗の気持ち』を『己の感情』にプラスしてしまう。それは、快斗の望まない未来だ。
結局、あの事件の犯人たちは誰一人として他人を愛してなんかいなかった。
他人と言う鏡を通して見る自分を愛していただけだ。それは己だけを愛している事より、数段醜くてさもしい。まるで誰かを愛しているふりをして、自分だけを愛して大切にしている。
そして、快斗はそれを望まない。己にも、そしてあの蒼い目の名探偵にも。
手の中に残る痺れ。誰かを害することを目的とした銃器を扱うのは、実はあれが初めてだった。ずっしりとした重みのそれを形だけは優雅に、容易く、一片の躊躇いもなく窓ガラスに打ち込む。砕けたガラスの立てる甲高い音はいつまでも鼓膜に響いて、快斗は僅かに唇を噛み締める。
ちり、と痛みを覚える。それは心臓の痛みより鋭くて鈍い、物理的な損傷を伝える合図。
目の前で放置されたコーラの安っぽい紙コップの中で、随分と溶けた氷が最後の足掻きのようにからん、と音を立てるのをぼんやりと聞きながら快斗は目を閉じる。
ポーカーフェイスなんてとっくに忘れていた。身体を支配していたのは怒りだけで、それ以外には何もなかった。その怒りは俗に言う道義的観念による義憤とか、自身を害そうとした行為に対してのものだけではなかった。それだけだったなら良かった、けれどKID…否、快斗の中で一番強かったのは。
「…辛気くせーツラ、してら」
「っ…!?」
やや高く甘い、けれども不釣合いに落ち着いた声。
聞き覚えはある。あり過ぎる。幻聴にさえ聞いた、声だ。
思わずきつく閉じていた瞼を押し上げる。ありふれたファーストフードの店内。ざわついたそこに埋没するように在った学生服姿の快斗を見上げるのは、焦がれたあの蒼い眼差し。
「珍しいトコで珍しいヤツに出くわすモンだな、しかも更に珍しいツラ」
「…めい、」
探偵、と言いかけた快斗の気勢を制するように、幼子の姿の彼はにっこりとあどけなく笑う。思わず口を噤んだその先で、いかにも子供らしい甘えた声音でコナンだよ、快斗兄ちゃん、と有無を言わさぬ様子で告げ、快斗の承諾も得ずに向かいの席にすとん、と腰を下ろした。
その、全く疑いようの無いほどに子供である姿の中で、ただひとつ瞳だけはそれを裏切る。確かに彼は工藤新一であり名探偵であるのだと証明する蒼の双眸の強さに、思わず快斗はこくりと息を飲み込んだ。
「…なんで、江古田に」
「ああ?俺には礼も言わせねー気かよ、テメー」
ぎり、と凶悪に無粋な黒縁眼鏡の奥の目が吊り上がる。本来可愛い、と称されはしても怖い、とは思わないだろう小学一年生の外見。けれども快斗はいつだってこの小さな名探偵が恐ろしい。
「俺が気付いてないと思ってたならふざけんな、だし、礼を言う甲斐性もないと思ってたんならやっぱりふざけんな、だ」
「…そういう問題じゃないんじゃねーの?」
なんとか搾り出した己の声が、必要以上に上擦って乾いている事に気付かぬ筈もない。やばい、と思ったのと、小さな手のひらが快斗の頬に伸ばされるのとはほぼ同時だった。
やわらかい。そして、あたたかい。
生きている人間の匂いがする。
「…オメー、本当にバカだな」
酷いや、名探偵に言われる筋合いはないよ?
そう叩くつもりの軽口は、けれども喉の奥でひっかかって出てこない。どうして、と思うより先に、小さなやわらかい指先が快斗の頬をするりと撫でてそのまま頭へと伸ばされる。
テーブルによじのぼるようにして、向かいの席の男子高校生の頭を撫でる小学生。結構倒錯的な図柄だなあと冷静な一部分が告げるのも、今の快斗にとってはどこか遠い出来事だった。
「オメーの怒りは間違ってねーよ。
まあ、正直らしくねーとは思ったけど、それでも間違っているわけじゃない」
KIDとしては致命的な誤差。
けれども『ヒト』としては正しい行為。
誰よりもその快斗の揺らぎを明確に理解して、だからこそ小学生の姿の名探偵は慰めるように鼓舞するように、快斗の癖のある髪を掻き回すように頭を撫でる。
それもまた、探偵としては誤った行為。
けれどやっぱり『ヒト』としては間違ってはいないだろうと、快斗はどこか泣きたい気分になる。
「も…どうしてアンタはそう俺にひでー事ばっかすんのかね…?」
ちょっと泣きたくなってきたよお兄さんは。
「テメーがあり得ねーくらい辛気くせーツラ晒してやがるからだろ」
小学生かそこらのガキに慰められるような醜態晒してたヤツの自業自得だろ?
痺れが残る、重みを忘れていない手で快斗の頭を撫でていた手を取る。
小さな手。やわらかな手。けれど…血と傷を知っている手だ。細くて小さくて頼りない、けれども最後の最後では快斗が誰よりも信頼する手だ。
思わず握った相手ではなく己が震えてしまった事に躊躇うも、挑むような眼差しを向けてその小さな手は逆に快斗の手をぎゅっと握った。そこには躊躇いも恐れもない、ただ在るものを許容する仕草だった。
決して告げない『愛』の言葉は、音にしてしまうことでそこに損得を見出してしまわないか不安だからだ。人を害する事を前提として作られた道具を扱った手で触れる事を躊躇うのは、彼の許容範囲をはかりかねているからだ。
だって、この人は。この相手は快斗にとってたったひとつの。
「…心配すんな、『俺の魔術師』」
びくり、と肩が震えたのがわかった。まったくもって情けない事ながら、自覚していながら止めることさえ出来なかった。おそるおそる視線を上げたその先で、無粋な眼鏡を外した裸眼で江戸川コナン…否、工藤新一は雨上がりの晴天にも似た晴れやかさで笑う。
「オメーは何も変わっちゃいない。オメーの中でも、俺の中でも」
とん、とコナンのもう片方の手が彼の心臓を指し示す。その意図する意味の深さにどくりと音を立てた鼓動を、快斗は一生忘れないだろう。
「オメーの想いは、俺を害さない」
大切なものはひとつだけ。大切なひとも一人だけ。
愛しています、愛して下さい。
それだけの言葉を言えずに封じ込めた不器用な魔法使いの魔法を抉じ開けるべく、単身挑んだ蒼い目の勇者に敬意を表して。
快斗は泣き笑いのような表情を浮かべながら、未だ握り締めたままの小さな手のひらをそっと己の額に当てる。
閉じ込めていた言葉の欠片を、心の奥から探し出す為に。
2006.06.11.