まだ、君に足りない
「可哀想な奴だよな、オマエ」
何時もどおりの真夜中の逃走中の中継地点。
何時もどおりにショーをこなして、何時もどおりに警察をしっちゃかめっちゃかに掻き回して、観衆の皆様を楽しませた月下の怪盗紳士『怪盗KID』は、けれど何時もとは異なる異分子の存在に思わず息を呑んだ。
鮮やかな蒼の慧眼は夜の闇にけぶる事無く、真っ直ぐに射抜くように此方を見据えてくる。何ひとつ偽りを許さない、否、偽る意味を許さないその眼差しの前に何もかも投げ捨てたくなる衝動に駆られた事は一度や二度ではない。
小さな子供の姿で、更にガラス越しに隠されていた『名探偵』の双眸は、この夜の闇にしか生きられない存在には痛いほどに眩しすぎるものだったからだ。
元の姿を取り戻し、沈黙の数ヶ月間をものともせずにこの探偵は『名探偵』であり続ける。揶揄するように彼の周りを探ろうとするゴシップ誌や無責任な噂話を嘲笑うように、どこまでも『名探偵』としてその実力が錆び付いていない事を内外に知らしめている。
弱気を覚えた自分を叱咤するように、爪先まで意識を張り巡らせて彼の前へと降り立つ。些かも動揺せずに此方を睥睨する眼差しは澄んで、けれども彼の意図を読み取らせるような迂闊な真似などするはずもない。だからこそ、意図的に優雅な所作を心掛けた怪盗の努力を笑い飛ばすように、冒頭の言葉を口にする。
「…異な事を、おっしゃられる」
「そうか?」
的を射た意見じゃないのか、と言外に告げてくる探偵の悪戯っ子のような微笑に、思わず背筋を滑り降りた冷や汗を自覚する。可哀想、というのが何を指すのかは不明だが、それでもこの夜の仕事を躊躇う己を見透かしたように、探偵の言葉はどこまでも突き刺さる。
「私は、私の望みによって此処に在るのです。私が巷で騒がれるような正義の味方でないのは、貴方が一番良くご存知の筈だ」
「…まあ、そうだな。オマエが俺を知るように、俺もオマエを知っているんなら」
「他者の認識など妄想に過ぎませんよ。比較対象によって容易に色を変えるそれは、決して普遍の現実にはなり得ない」
だからこそ、真実はそれを求める人間によって異なるものとなる。怪盗の求めるそれと、恐らくは最も近いものを持つのはこの探偵をおいて他にはいないだろうが、それでも永遠に重なり合う事はない。
だからこそ、この探偵は探偵にしか知りえない何がしかによって怪盗を『可哀想』だと告げるのだ。
互いに触れ得ないものを持ちながら、それでも尚独り立ち尽くす対角線上の二人。けれど。
「自己と他者に共通するものがないと、そんなに不安か?
独りで居る事が寒いとか痛いとか寂しいとか、そうやって考える事は罪悪じゃねーんだよ」
ポケットに突っ込まれたままだった、名探偵の手が怪盗へと伸ばされる。その唐突な仕草に思わず思考を止めたKIDに向けて、更に畳み掛けるように探偵、工藤新一は言葉を続ける。
「オマエは独りだ。そりゃあもう覆しようのない事実だ。オマエが望もうと望むまいと、そんな事は今更どうしようもない現実だ。
俺がそうであるようにな」
「…貴方は、私とは違うでしょう」
光の只中にある存在。誰も彼もに愛され、その周りに人を集めずには居られない名探偵。
そんな彼と比較するには、さしもの怪盗でも分が悪い。『黒羽快斗』の日常を以ってしても、彼の光には届かないだろう己はとうの昔に自覚済みだった。なのに。
「大勢の中に居る独りの冷たさは、俺よりオマエの方が知ってるだろ?
…俺は、こんなになるまで気付けなかったんだ。お前は知っていて感覚を忘れたんだろうけどな」
「…誰の事を言っておられるのです?」
「この場に俺とオマエ以外に誰が居るんだよ?」
くすり、と笑った工藤の唇が赤い。
どくん、と心臓の辺りで強く脈打った鼓動の意味は、ひょっとしたら気付いてはいけないものかも知れないのに。
「…選べよ。たった一つ得られる孤独と、痛みの中の埋没と。
オマエが望むなら、俺はどちらも与えてやれる」
伸ばした手の平が、呼ぶようにKIDの視界にちらついて離れない。白い手袋に包まれたそれを、半分以上無意識でその手へと伸ばしていたのは、必然か気まぐれか、それとも。
触れた体温の確かさに、覚えた安堵は間違いない。
重ねた手のひらは手袋越しでも確かなもので、握り返した探偵の花が綻ぶような微笑にどきりと更に鼓動が早くなる。
「やっと、手に入れた」
満足そうに笑う探偵の微笑みがあんまり綺麗だったから、怪盗は手を振りほどくことさえ出来ずに立ち尽くす。
捕まったとも、捕まえたとも思わない。これは、多分。
「…これで、ようやく」
ひとりじゃない、と呟いて、探偵は怪盗の首筋にしがみ付くように抱きついた。途端に覚える体温の確かさと鼻腔をくすぐる夜の香りと僅かな彼の体臭に、甘やかな痛みにも似た感覚を覚えてKIDはぎゅっと目を閉じる。
この感情は罪悪だ。
この手を取る事も、贖いようのない罪になる。
温もりを一度感じてしまったら手放せない、それは多分この相手が唯一世界を共有するに足る存在だからこそ。
「…真に可哀想なのは…名探偵、」
貴方の方なのでは、ないですか?
言葉にならない声を呑み込んで、KIDはおずおずとその手を探偵の背へと回す。
震える背の細さを確かめるように、程近くで聞こえる鼓動と呼吸を確かめるように。
二人、身じろぎもせずに佇む頭上には、変わらぬ月だけが輝いていた。
2005.06.10.
H O M E *