痛みの記憶


「痛み、というのは傷に対する反射であり、自己保全の為の警告でもある」
 ふわり、と雨上がりのぬるい風に揺れる癖の強い髪を、ぼんやりと見ていた。
 指一本すら動かせないほどきつく痛む心臓の上、シャツが千切れるほど強く掴んだ指は白く、血の気を失った頬は更に白というより青い。
 繰り返されるせわしない呼吸と、唇の震えが痛々しい。
 苦しい呼吸に涙が滲んだ蒼の双眸を向けた先には、覚えのある白を纏った男の姿。
 ふ、と唇に優しげな、故に突き放すような酷薄ささえも含んだ微笑を乗せて、男は白い手袋に包まれた指先でじっとりと汗が滲む新一の額をゆるりと撫でた。
「苦しみに磨耗する精神は、崩壊に対する代償行為だ。壊れていく身体に対する警告を、魂に浸透させない為の」
 些かべたついた髪の毛を掬い取り、それをゆるりと取りこぼす。気を抜くと暗くなりそうになる意識を必死で留めて、新一は胸の上で握り締めた手とは逆のそれを男へと伸ばした。
 くすり、と小さく笑う声が聞こえる。震える指先を優しく手にとって、白装束の男は手に取った指先に厳かに口付ける。
「死を、恐怖と共に実感する瞬間が、どれだけあると思う?
それを自覚するオマエと俺は、不幸だと思うか?」
 冷えた指先に感じる唇の温もりと、やわらかさに眩暈がする。
 痙攣を起こしかけた喉元を、さらりと撫でる手袋越しの指先が心地よい。うっすらと残る体温と、吐息の感触に新一はぎゅっと目を閉じた。
 唇に触れるほど近くで、笑みを収めた透明な表情の男が囁く。
「…つらいか?」
「ち…が、…!」
 低く告げられた言葉に、必死で自由にならない身体を起こそうともがく。全身を覆う痛みも苦しみも、全て跳ね除けてでもこの問いだけは否定しなくてはならない。
 認めて、しまったら。
「痛、くても…俺、は、オマエは…!」
 ずるりと滑った手のひらが、男のその上から離れてゆく。痛む身体はちっとも自由にならずに、ベッドの上から転がり落ちそうになった新一を、危なげない様子で怪盗の腕が支えた。
 外気の冷たさと、一人夜を渡る強さを兼ね備えた腕に抱きとめられ、自由にならない己に歯噛みする。

 これは、自業自得。
 痛みも苦しみも何もかも、自分が望んだ結末だった。
 目の前の男が、それ以上に痛みを堪えるような顔をする必要なんて、何処にもないのに。
「…いいよ、名探偵」

 もう、いいよ?

 首筋に埋められる男の顔に、敏感な部分を滑る吐息に、痛む心臓にそれとは別の甘さが零れ落ちる。
 赦してもらうのは自分であって、この男ではないはずなのに何処までも優しいんだな、と苦笑を零す。
 ずきずきと絶え間なく襲う痛みの波形は、何処まで『工藤新一』を維持できるだろう。
 ぼんやりと強い腕に包まれたまま押し黙る新一の背をゆるりと撫でて、男は小さく呟いた。

「それでも…オマエは痛みを選ぶんだな」

 新月の闇の中、繋ぐ言葉は幻。
 この痛みの先にあるものを、二人共に決めかねている。ずっと。





2005.07.26.

H O M E *