なんでもない日。




 取り立ててどうということもない、なんでもない日。
 昨日の続きで明日の前。ただそれだけの日常のひとつ。
 本日はそんななんでもない日。ごくふつうの日。

「…ねみー」

 ふわあ、とひとつ欠伸をして、黒羽快斗は寝癖だらけの髪の毛を掻き回す。
 なんでもない日だけれど、カーテンの隙間から覗く空ばかりは、綺麗に晴れ渡っていた。 


 黒羽快斗の朝は、基本的にぐだぐだだ。
 欠席は滅多にしないが遅刻を苦にもしない本人の性格と、良くも悪くも放任主義の母親によって規則正しい生活とは程遠い。
 一応セットした目覚まし時計(ニワトリ型)がコケッコー!とけたたましく鳴き出すのを、寝ぼけた腕で止めて二度寝に入ることもざらだったが、今日は珍しくすさまじく眠いながらも目が覚めた。
 ふわあ、と欠伸をもうひとつ落として、背筋を伸ばし大きく息を吸い込めばすばらしい回転数を誇る頭脳は瞬く間に通常運転を開始する。
 昨夜は快斗のもうひとつの姿、秘されるべきオシゴトの夜だった。
 確保不能の大怪盗であり、後にも先にも正体不明の月下の奇術師の正体は昨夜も無論のまま。かといって目的の宝石が見つかったわけでもないのでトータル的には快斗の疲労分はマイナスだろうか。
「…いや、そーでもねーか」
 ふうむ、とベッドの上で胡坐をかいて首を傾げつつ、反芻するのは昨夜の出来事。

 何時も通りの犯行、何時も通りの逃走劇。
 けれどそれが全て何時もどおりといかなかったのは、かの東都が誇る名探偵が珍しくも怪盗の現場においでになった所為でもある。
 その真実を見抜く眼差しで、KIDの行動の先の先まで読んでくる探偵との対峙は、常ならぬ充実感とスリルを怪盗に与える唯一の瞬間だ。
 舞台となった某大企業重役宅の一室、そのベランダから今まさに空に飛び立たんとする怪盗。それを阻むかのようにドアを開け放ったのは、視線だけで射殺せそうな眼差しを向けてきた探偵。
 恐ろしいほどの踏み込みの速さで怪盗の懐へと飛び込み、その黄金の右足を勢いに任せてぶち込んでくる。慌てて右腕でブロックこそしたものの、肘から先が痺れるような重さはマトモに食らっていたら、と思うと恐ろしい。
 全力疾走と渾身の一撃にに弾む吐息。紅潮した頬。ぎりぎりと此方を睨み付ける怒りに満ちた表情。
 これがまた、すべてが文句無く格好良くて美人だった。

「っとに、アイツも折角美人さんなのに凶暴だよなー。ちょっとケツ触ったくれーで手加減なしで追っかけまわしてくるんだもんなー」
 わきわきと感触を反芻するように動かした右手に残るのは、昨夜ブツを盗み出すどさくさ紛れに撫でるどころか揉んでやった探偵の尻の感触。女の子の柔らかさとは違う引き締まった固さは触っても面白くもなんともなかった上に右腕に盛大な痣をこしらえていたが、その後の探偵の反応は十二分に差し引きの決算をプラスにしてくれた。
 本来なら、ケツを触るだけじゃなく柔らかそうなほっぺたにちゅーのひとつもしてやりたいところだったが、さすがにそれをやったら肋骨の一本や二本は覚悟が必要だろう。それはきちんと対策を講じた上で、次のお楽しみにしておくとして。
 にひひ、と悪い笑みを浮かべ、快斗は自室のカーテンを開け放つ。

 青い青い、雲ひとつない空。今日もいい天気。
 開け放った窓から入り込む空気は朝の清清しさと共にぬるみ始めた春の気配を素直に伝えてくれている。
「おー…こりゃ、絶好の昼寝日和ってヤツだな」
 本日の午後は昼寝決定ー、と一人呟きながら、手早く制服に着替え始める。学校まで全力疾走せずとも遅刻しないどころか、十二分に朝食を味わって幼馴染と喧嘩漫才をしながら登校するにも余裕な時間である。

 なんでもない日、ふつうの日。昨日の続きで明日の前。
 けれどなんだか良い日かも知れないと思いながら、快斗はどこか軽やかに階段を駆け下りた。


 何時もどおりにKIDの活躍が一面で掲載された新聞を小脇に抱えながら、何時もどおりに幼馴染のもうひとりの自分についての悪口雑言を聞き流す。
 何時もどおりにクラスメイトの探偵のどこか見当違いな邪推を聞き流し、何時もどおりにクラスメイトの魔女の遠まわしな皮肉を鼻で笑う。
 何時もどおりに昼休みは教室からエスケープして、購買で買い込んだやきそばパンとコーヒー牛乳をお供に屋上で見上げた空は、朝のそれと同じ色で広がっていた。

 何時もどおり、何も変わらない。
 何一つ変わらぬ日常に宿る痛みも安息も、今日もそのままにそこにある。
 快斗が愛して、そして同じくらい疎んでやまない、退屈で愛すべき日常風景。

 実の無い学校生活を過ごして、放課後は友人と出かけるのだという幼馴染と別れてひとり通学路を歩く。
 ふと、その先が何処にも繋がらない奈落であるかのような錯覚に襲われ、思わず快斗は足を止めた。おそるおそる見つめたスニーカーの下は、変わらぬアスファルトの舗装道路のままで、やはり何ひとつ変わる事はないのに。 

 ぱちり、と瞬きをする。喉に張り付いて出てこない言葉が、呼吸さえも阻害する。
 何故だか無性に怖くなって、快斗は自宅に向かう足を早める。段々と、ついには駆け足、否、全力疾走に近い速度に。

 なんでもない日。ふつうの日。特にどうという事も無い、単なる週の中日。
 けれど。だからこそ。

「…何、してんだ、オマエ」
「オメーこそ何だよそのザマ」

 息苦しくなるほど必死で走っていた時に、気付きかけた何かが音も立てずに霧散する。自宅の玄関前に憮然と立ち尽くす探偵の青いブレザーと、挙動不審な己を不審がる眼差し。
 工藤新一が昨夜逢ったそのままの姿で、快斗の家の塀に凭れて此方を見ている。
 先ほどまでの理由の無い恐怖が、引き潮のように足元から遠ざかる。からからに喉は渇いていたけれど、それでも心臓を追い立てる焦燥は快斗の内側から煙のように消え失せた。
「工藤、だ…」
「ああ?何当然な事言ってやがんだよ」
 ぽかん、と己を見つめる快斗に焦れたのか、工藤新一はどこか苛立たしげに快斗の額を指先で弾いた。
「すっげえ汗。そんな必死で走って、なんかあったか?」
「いや…」
 ことり、と新一が首を傾げる。答えようのない質問に、快斗は言葉を濁すことしか出来ない。荒い呼吸を必死で宥め、先ほどまで快斗を苛んでいたわけのわからない恐怖感の残滓を振り払う。
 立ち話もなんだろうと、自宅へと誘うと存外普通に新一は上がってくる。確かにこの家に彼が上がるのは初めてではないが、その度にお邪魔します、と律儀に告げる辺りがやけに微笑ましい。

 この探偵、工藤新一とは気付いたら友人になっていた。親友と言ってもいい。
 何気なく街角で出会って、その日のうちにケータイのナンバーとメルアドを交換し、次に会う約束をしていた。冷静に考えてみれば色々な過程をすっ飛ばしている気がするが、多分二人ともそういうのが面倒だったのだろう。
 互いの家を訪ね合うのも頻繁で、この間はどうしてもとあるRPGのアクション系サブゲームがクリアできないと、ソフト片手に新一が駆け込んできた時だったか。
 結局、そのサブゲームから連鎖するメインイベントひとつクリアする間に深夜になっていて、この部屋で雑魚寝して夜通しくだらない雑談に興じていた。
 そんな事を思い返しながら、快斗は自室のベッドに腰掛けて、幾度か来た事はあるだろうに毎回どこか物珍しそうにきょろきょろと部屋を見回す新一の様子を呆れたように眺めてみる。
 そして、少しは冷静になってもどうしてもわからない疑問点を、快斗は本人に素直に聞いてみることにした。
「工藤さぁ、何しに来たんだよ?」
「何しにって…」
 工藤新一にしては珍しい事に、どうにもハッキリしない物言い。  何を企んでやがる、といった胡乱な表情でどこか挙動不審な新一を見つめると、明らかに普通でない慌てた様子で下げていた紙袋を快斗に向けて突き出した。 「や、やる!」  不審さを隠しもしない眼差しで問い質し、快斗はその中身をとりあえず漁ってみることにする。指先に僅かにまとわりつくひんやりとした空気と、かすかな甘い匂い。
「…ケーキ?」
 白い紙袋の中身は、白い箱。
 今日中にお召し上がり下さい、だの要冷蔵、だのと書かれたシールが貼り付けられたその中身は、フレッシュなクリームが美味しそうなショートケーキからフルーツ盛り沢山のロールケーキ、焼き色が綺麗なカスタードプリン、さくさくとしたパイ生地が重なったミルフィーユ、つややかな黄金色の栗が乗ったモンブラン。
 世間には甘いものなど受け付けなさそうに思われている新一だが、遠慮がない付き合いである快斗は、意外と『美味しいケーキは好き』である事は知っている。けれど、そんな快斗でも理解できないほど半端でない量が入ったケーキ箱に、思わずこきりと首を傾げた。
「…工藤、いつもこんなに食わねーじゃん」
「ばっ…!だ、誰が俺が食うために買ったっつったよ!?」
 オメーは大量に食うだろうから買ったんだろーっ!!

「…は?」

 晴天の霹靂。思いも拠らない出来事。
 ぷい、と横を向いた新一の頬が、少し赤い。

「大体オメーが悪いんだ、昨日あんなコトしやがって…つい本気で一発入れちまったじゃねーか。 そしたら案外きっちり入っちまうし、スゲー音はするし、一晩寝ても授業中に内職で本読んでても、余計に気になっちまうんだよ! …じょ、冗談だろうとは思ったけど、あんなコトすんじゃねーよ!」
「はあ…」
 どうにも繋がらない思考に、快斗は傾げていた首を更に直角に近い角度に倒す。どこか落ち着かないのは相手も同じであるらしく、忙しなく右手が開いたり閉じたりを繰り返している。

 昨夜の記憶は鮮やかだ。文句無く格好良くて、激烈迫力美人だった名探偵。
 あの紅潮した頬の色は、ひょっとしたら怒りだけが原因ではなかったという事だろうか。
 そうすると、ひょっとしてコレは快斗へのお見舞いだったのだろうか。ケツ揉まれたくせに危機感がないというか、なんと言うか…

「んで、オメーの事考えてたらついこんなに買っちまったんだよ」
 責任持って消費しやがれ、と捨て台詞のように呟いて、どこか慌てた風に立ち上がる新一の手首を掴む。意図した行動ではない、無意識だ。

 ぼんやりと蘇る昨夜の記憶。同じようでいて違う体温。
 じたばたともがくようにして快斗の腕を振り払おうとする新一の腕を柔らかく捕らえて、その肩に顎を乗せて深く深く吐息を吐き出す。

 確かに先ほどまであったはずの恐怖はもう何処にも見つけられない。
 足元にあった奈落は、遠のいて見ることも確かめることも出来ないし、必要ない。

 いつもどおりの日常。なんでもない日、ふつうの日。
 けれど。

「…どーしよ工藤、俺、今日ものすごくシアワセかも知れねーんだけど…」
「は?け、ケーキがそんなに嬉しいのか?」
 上擦った声で告げられた予測は思い切りよく間違っていたけれど…それもまあ、名探偵だ、仕方ないだろう。

 特にどうということも無かった、空が綺麗なただの一日は、君の存在ただひとつで特別な日になりました。
 嬉しいならさっさと食えよ、とぶっきらぼうに告げる新一の耳が真っ赤に染まっている事に笑みを深めながら、快斗は思いの丈を込めてその背を抱き締めたのだった。


2008.06.14.


H O M E *