pre : closed sky



「…なあ、黒羽」
「何よ、工藤」
 さらり、となんでもないように返答を寄越す相手に、工藤は思わず言葉を飲み込む。何、と言われても…
「その手。なんのつもりだよソレ」
「ありゃバレてたか」
 バレるも何も。
 唇に触れるだけだった指先は、そのまま頬を辿り今は耳の後ろから首筋を触れるか触れないかぎりぎりのラインで触れている。そこにある意図は明確で、それでなくてもセクシャルな黒羽の綺麗な指先であるというだけで工藤の限定一名のみに発症する不整脈は今日も絶好調に激しかった。
「ちぇ、このまま雪崩れ込もうかと思ったのに」
 ねえ、と盛大にその手の意図を盛り込んだ流し目でウィンクする黒衣の魔法使いに、赤を着る軍師はそのコートの色にも負けないほど頬から首筋まで真っ赤に染め上げる。
「雪崩っ…!?じょ、冗談じゃねえ、こんな昼間っから!!」
 確かに、自分たちはそういう関係だけれど。
 触れ合いたいという欲求を受け流せるほど老成してはいないし、触れただけで満足するほど子供でもない。
関係がそういった方向へと移行するのはごく自然な流れで、そこに嫌悪も違和感も躊躇もなかった。同性、という事で覚えるはずの禁忌でさえ、誰にも繋がらない自分たちにはどうだって良い事だった。
 単体で完結している存在に、生命の倫理は酷く無駄で無意味で塵ほどの価値も持たない。伸ばした手の先の温もりを、無味乾燥した社会通念的倫理観によって打ち捨てられるほど、二人はモラリストでもなかったし。
 何よりも、相手の深くまで繋がって、心身ともに何かを共有する唯一の行為は、相応に互いの独占欲を満たしてくれた。
 だが、だからといって行為に直結する行動と心理に対して、羞恥心が消えてなくなるわけではもちろんなかったが。
「こ、このエロ魔法使い!ところ構わずサカりやがって!」
「そりゃシンイチクンが誘うからでしょーが」
 ぺろり、と耳朶を舐める濡れた感触に背筋を這い上がる不快でない感覚。素直に言うならば、『とても気持ちイイ』感覚だろう。ぞわり、と身体中を這い回り始めた覚えのある熱に、工藤は反射的にぎゅっと目を閉じ、目の前の黒羽の腕をぎゅっと掴んだ。
 いけない。これはいけない。
 本気(かどうかは分からないが退く気は皆無)な黒羽に迫られて、工藤が拒みきれた試しは一度足りとも、無い。
触れることと触れられること、愛されることに対して元より否やがない上にモラルも低いのだから、それもまた当然の帰結なのだが。
 どうしよう、どうすれば、と静かに混乱する希代の天才軍師は、あわあわと閉じた瞼の奥でちかちかとひらめき始めたものに汗ばんだ手をぎゅっと握り締める。
 流され始めた己を自覚しつつ、状況をとても冷静には感じ取れない。思わず外界へと意識を飛ばしかけた瞬間。
「…何やってるんです、二人とも」
 呆れたような声音に、びくん、と工藤の肩が跳ねる。ちっ、と舌打ちする黒羽。対照的な二人の反応に、きちんとノックをしたにも関わらず無視をされ、仕方なく無断で入室したところでとんでもない状況に遭遇、嫌々ながら声をかけた白馬は深い溜息を落とした。
「なんだよ、いーとこなんだから邪魔すんなよな白馬」
「これがプライベートならいくらでもそうしますけどね」
 小脇に携えていた緊急らしい案件書類を黒羽の机の上にどすりと下ろし、白馬は肩を竦めた。
仕事中でしょう、と嗜める声に、ようやく我に返ったらしい工藤の顔が首筋まで真っ赤に染まる。それでもぎゅう、と黒羽の胸元に顔を埋めて必死に体裁を取り繕う(とはいえ、見事に失敗していると黒羽と白馬の意見は一致していた)仕草は問答無用で可愛らしく、抱きつかれた魔法使いの唇を吊り上げ、乱入してしまった法政官の溜息を誘った。
 これがかの『緋色の賢者』の真実とは、他国は欠片も知るまい。小国・東雲の生命線と相俟って、隠匿しなければならない絶対ラインだと遠い目の向こうで白馬は思った。
 あんまり考えたい条項ではなかったが。
「…工藤君、もう僕は退散するけれど、ちゃんと執務室に戻った方がいいと思うよ?」
 君の机にも、近日中に要決済の書類が山積みで溢れてるだろうからね?
 爆弾発言をひとつ残して、ぱたりと軋みひとつ無い上質な樫の扉が閉まる音が響く。
 なんとなくそれを見守っていた二人だったが、ふと状況に気付いたらしい工藤の真っ赤な顔が、見る間に真っ青に染まる。
「や、やべえ…!!」
 何が、と傍らの黒羽が問う間もなく、べりっと剥がすようにして抱きついていた胸元から離れ、あわあわといつの間にかかなり思い切りくつろげられていた襟元を元に戻した。
まったくこのセクハラ魔法使い、油断も隙もあったものではない。
「しょ、書類っ…ええと、予算案が明後日で、人事が今日の夕方、ああっ定期報告が午後の会議…っ」
「あらら」
 殆ど泣きそうになりながら、恋人との昼休みが予想以上に早く過ぎ去っていた事にようやく気付いた軍師である。手元の懐中時計の針は、とっくに午後の執務を再開していなくてはならない時刻を示している。
ぱたぱたと手早く荷物を整え、出来るだけ早く自室へ戻るべく慌てている様子を『可愛いなあ…』と腐れた感想で眺めていた魔法使いは、しばしの思案の末ゆるりと伸ばした腕で綺麗な形の頭を抱き込み、触れるだけのキスを額に落とす。
「気をつけて」
「あ、う、えと…うん」
 気をつけても何も、工藤の執務室は階段を上がった黒羽の研究室の直ぐ上であることだとか、そんな短距離&短時間で俺が何をやらかすと思ってやがるんだコイツ、とか。
 本来ならば口の悪い工藤が投げつけるだろう悪口雑言も、この相手限定でなりを潜める。
 尤も、この迂闊さんのやることなので、全く信用がならないと思われているとは露ほども知らないわけだが。
 何せこの工藤新一、黒羽の前で失態を繰り広げること両手の指に余る。黒羽の大事な魔術具を壊した事や薬品の瓶を割ったこと、研究の邪魔をされたこと…エトセトラエトセトラ。しかもその全てに悪意がない『うっかりさん』である事実がまた、完璧めいた巷で噂されるところの『東雲の天才軍師』とのギャップが激しい。
 そんなところにヤラレたのかな、という気持ちが、黒羽の中にはないでもなかったし、この魔法使いはそれはそれで楽しめる稀有な才能の持ち主であった。
 尤も、工藤自身は毛の先ほどもその事実に気付いておらず、ひたすらに己がやらかしてしまう失態とそのお仕置きに怯える毎日であったりもするわけだったが。
 顔どころか首まで真っ赤に染めたまま、唇を落とされた額を押さえ、よろよろと黒羽の研究室を後にする工藤の背を見送って、黒羽は軽く背筋を伸ばす。
 さあて、俺も仕事にとりかからにゃ。
 こきり、とひとつ首を傾げたところで、上階から聞こえる何がしかの破壊音が響く。

 …またやったのか。

 なんとなくしょっぱい気分になりながら、思わず天井を見上げる。無論のことそれで透視ができるわけでもないのだが、気分的な反射までいちいち制御するつもりはない。
「…いやもう、注意した次の瞬間には、って辺りがすっげえ工藤らしいというかなんというか…」
 まあ、そーゆーところも可愛いわけだが。
 ふ、と唇を少し綻ばせ、黒羽はゆるりとたっぷりとした布地の術衣の裾を払って執務机へと向き直る。工藤ほどではないが、在る地位に相応してそれなりの雑務は存在し、第一位の宮廷魔術士として他の数多の術者を取りまとめる立場にある黒羽のそれはかなりのものだ。
 しかも、魔術に関わる人間の特徴として己の研究以外は見向きもしたくない、という連中が揃っている所為で、本来それほどでもないはずの仕事も倍から数倍まで膨れ上がる。
 溜息ひとつを落として、黒羽はペンを手に取り積み重なった書類を捲る。流麗な字で書記官が記したそれにざっと目を通し、少し癖のある、けれども読みやすい字で己のサインを書き加えて朱印を押し、終了。
 そんな単純作業を惰性で繰り返しつつ、『後で何やらかしたのかきっちり聞いておかないとな…』と上階で盛大な破壊音を響かせた己の恋人に思いを馳せるのだった。



2005.12.01.

H O M E *