closs road




 噛み合わない歯車みたいないくつかを踏み拉き、黒羽快斗は細めた眼差しで空を睥睨する。
 ひとつたりとも形にならない現実と、少しずつ零れ落ちてゆく焦燥と。削り取られるものが何だったのか、既に剥がれ落ちてしまった今では思い出すことさえできないのに。
 それでも、『彼』はあんなにも眩しい。
 淀んだ都会の曇天は、今にも雨粒を落としそうなほどに重苦しく頭上を覆う。けれども行き交う人々はそんな事にさえ頓着せず、ただ足早に通り過ぎるばかりで。日常と言うにはあまりに殺伐としたそれは、足場にするには脆すぎる。
 けれど、『彼』は其処に立っている。立つ足すら紛い物に過ぎないのに、そんなことよりも己の目指すべき未来を見ている。では己は、と思ったとき、その目的の希薄さに愕然とさえするのだ。
 父親の復讐?
 否、それはあくまで対外的な理由に過ぎない。黒羽快斗の憤りと悲哀は、他者に原因を求めるようなものではない。
 父親の悲願の成就?
それもまた側面でしかない。その願いは快斗が推測したものであり、真実であるとは言い難い。可能性は最も高い推測だが、証明する手段は相手が彼岸の住人である以上何処にも有りはしないのだから。
 …では、目的とは何かと言われたなら。
「…なんなんだろうな、俺は」
 白い衣を纏い夜を駆ける、始めてしまった時には何も思わなかったものが今となってはすこぶる重い。ポーカーフェイスの下で覚えた痛みは、もう磨耗して痛みであることさえわからなくなってしまった。
 己はいったい何であるのか。
 あるいは、その答えを探すためなのかもしれなかった。

 ぽつり、と快斗の頬に雨粒がひとつ落ちて、流れた。
 ぽつりぽつりとアスファルトを濡らす雫は、やがて連続して落ちるそれ…雨へと変化して街に低いざわめきを生み出した。足早に屋根のある場所へと走る人々の声、ひとつふたつと咲く傘の花。けれど。

「…わからないんだ、もう」

 ひとり、快斗ただひとりだけが。
 次第に深くなる雨の匂いの中、何処にも行けずに立ち尽くしていた。



 最初は冷たいと思った雨も、打たれ続ければそれさえ麻痺してゆく。まるで痛みのようだと頭の片隅で思いながら、快斗は灰色の街をただ茫洋と眺め続ける。
 何処にも行けない。何処にも行きたくない。
 願いなどもう遠い昔に投げ捨てた。
 泣いても叫んでも叶わない事があるのだと、快斗はもう本能で知っている。
 それでも願わずにいられない浅ましさに、唾棄した過去はまだ遠くないのに。
「…願っちまうんだよ、わかっていても願わずにはいられないんだ」
 それが自己満足でしかないとしても、否、だからこそ。
 蒼い双眸を輝かせ、静かに鋭い刃のように切り込んでくる慧眼の名探偵。
 その鋭利な刃にも似た知性に似合わない子供の身体に押し込められ、それでも尚足掻くことをやめない人。
 おそらくは10人いれば10人が無理だと、諦めるべきだと思うような場面でも必死で足掻き続け、そして切り抜けた実績を持つ人だ。
 だからこそ、快斗は『彼』が眩しい。
 羨みなど出来るはずも無く、ただただ眩しく。しっかりと大地を踏み締めて立つ足をこそ憧憬の眼差しで見つめるのだ。
 こんなに、それこそ鏡に映したようにそっくりだというのに、それでも『彼』と自分は違い過ぎる。
 己さえ見失いかけた愚かな怪盗を、いつまであの探偵は好敵手だと認めてくれるだろう?
 くっ、と喉をこみ上げる自虐的な笑いを押さえる事が出来ない。灰色の街の片隅で、傘もささずにずぶ濡れになって笑う男など奇妙で気味が悪いにも程があるだろうが、快斗はそれを押さえることがどうしてもできなかった。
 此処で吐き出してしまわなければ、偽りだらけの日常に戻ることがどうしても出来なくなってしまいそうで。
 そう、それは確かに恐怖であったから。

「…なにしてんだ、オメーはよ」

 唐突に、雨の音にかき消される事もなく鼓膜に響いた音に目を見張る。
 ほぼ反射的に視線を向けた、通常よりもやや低い位置に。

「こんな街中で素っ頓狂な笑い声上げて何してんのかと思えば…
そんなに泣きたきゃ、ひとりっきりの場所でやれよ、バ怪盗」
 鮮やかな黄色の、所謂スクール傘と称される持ち柄も黄色いプラスチックの子供向けの傘を右手で支え、黒縁眼鏡の小さな子供が呆れたような眼差しで此方を見つめていた。左手はポケットに突っ込まれたまま、足元の水溜りをぱしゃりとひとつ踏み締める。
「変なヤツだとは思ってたけどな、まさかここまでとは」
「…めい、たんてい…」
 小学校低学年と思しき、小さな少年。けれどその中身は快斗が…怪盗KIDが認める唯一無二の名探偵。
 ぱしゃぱしゃと水溜りを踏み拉きながら此方へと近寄ってくる彼から逃げることも受け入れる事も出来ず、ただただ立ち尽くす快斗の手を、彼の小さな手がそっと引いて。
「おら、もうちっと屈めよ。傘に入らねーだろうが」
 もうぐっしょりと濡れそぼった相手に向ける言葉ではないだろう、と快斗の何処かが苦笑する。けれども、それは決して表面には出る事無く。

 小さな手に導かれるように、屈んで。
 小さな傘の庇護下にあって、はじめて快斗は気付く。

 ほろり。

「…あれ」
「あれ、じゃねーって。
……ほら、」

 小さな名探偵の小さな手が、快斗の頬をするりと撫でた。柔らかくて暖かいそれに覚えた安堵と、ほんの少しの炎の意味は、今はわかりはしないけれど。
 ぼろぼろと零れる涙。止まらないそれに心底驚いている間にも、ひとつまたひとつと頬を伝って水溜りに落ちて溶けて。
「…泣けよ。ちゃんと最後に、拭ってやるから」
 柔らかな声に促されるように、快斗はそっと瞼を閉じる。ぼろりとまたひとつ零れた涙は、けれど。
 暖かくさえ、あって。

 願っても良いでしょうか。
 祈っても許されるでしょうか。
 この涙を拭うと言ってくれた彼に。
 この眩しすぎる存在に近付いても良いでしょうか。

 小さな黄色い傘の下、ずぶ濡れの怪盗と小さな探偵の『交錯点』は。
 確かにかちりと、音を立て始めたのかも知れなかった。





2007.12.12.

H O M E *