せなかのねこ。つづき
「…うわー」
思わず遠い目をしながら、黒羽快斗はその光景に乾いた声を漏らした。
『ねこ』。
とりあえず『ねこ』まみれ。
世間的には十二分に豪邸と呼ばれるところの工藤邸のだだっ広いリビングを埋め尽くさんばかりにソファだの窓際だの棚上だのを占拠する『ねこ』の大群。
それらは全て、快斗の最愛の名探偵が被っている『ねこ』たちである。大概慣れたとはいえ、それでもやはり異様な光景に違いない。
多頭飼いのお宅に初めてお邪魔した瞬間の衝撃の数倍、と言えばわかりやすいだろうか。いやいや俺は何に言い訳しているんだろう…?
いつも元気に愛情過多に、快斗の足元にじゃれついて隙あらばよじ登ろうとする『ねこ』たちのスキンシップは基本的に激しい。多分、快斗の大好きで大好きな名探偵・工藤新一の潜在的な愛情表現なのだろうとあたりを付けているが、嬉しいやら悔しいやら複雑なところだ。
『ねこ』は、飼っている本人の性質や感情の影響を受けやすいが、基本的に行動理念はただの猫と大差ない。食う、寝る、遊ぶのうち、実体ではないので「食う」がないだけで(本能としては存在しないだけで、娯楽として「食べる」ことはある)ひたすら気侭に行動するイキモノである。
快斗が名探偵の『ねこ』を判別できるのは、ひとえに「こんな無条件で擦り寄ってくるのは新一の『ねこ』以外であるわけがない」という思い込みによるものである。
見かけだけで普通の猫と人が被っている『ねこ』を判別するのはほぼ不可能、フィーリングと誰かの背中に消えるのを見ないことには見分けはつかない。
冷静に考えれば、おかしなものである。
しかし、大抵の人間は「そういうことになっている」ものに疑問を抱かない。もう少しこの奇妙な共生物体についての考察が必要なのではなかろうか、と快斗は思う。
「…ねえ、現実逃避もそのくらいにしとかないと煮えるわよ、黒羽君」
「あ、哀ちゃん」
冷たい眼差しに視線を上げれば、態度も冷ややかにこちらを見下ろす探偵宅の隣人である少女科学者が快斗を見下ろしていた。相変わらずの小学生の外見に似合わぬクールな言動にさっくりと心臓に刺されるナイフを感じつつ、快斗は投げつけられた台詞に寝転がったまま首を捻った。
「煮えるって、なにが?」
「『ねこ』は体温高いでしょ。その体温で囲まれると段々煮えるのよ。これを称して『ねこ』鍋と…」
「…嘘でしょ?」
「ええ」
「…。」
しれっと告げる哀の台詞に思わずくらりと意識を遠のかせそうになった快斗だったが、これ以上この少女に言葉を続けられると精神的疲労がかさむと危機感を抱いた。
「だ、大体現実逃避ってなんでそんな事言うのさ!?」
「貴方、この状況でそんな態度を取っている時点で現実逃避以外の選択肢を持っていたらこれからの付き合いを考えさせて頂くことになるのだけれど?」
「うっ…」
さもありなん。
現在の快斗の体勢、無数の『ねこ』に圧し掛かられて圧死寸前。
しかもその合間にも擦り寄り圧し掛かり肉球でぺちぺちする『ねこ』は増える一方だったりもする。
「で?何か反論はあるかしら、怪盗さん」
「ご、ございません…」
のそのそと『ねこ』を潰さないように慎重に起き上がりつつ、快斗はがっくりと肩を落とした。その気遣いが我侭放題嫉妬炸裂名探偵と、その『ねこ』たちを増長させている事実にいい加減気付けば良いのに、と哀は思ったが、この男は残念ながらそんないい年した男の我侭も独占欲も『可愛いなあv』の一言で許せるんだったと思い出す。
思わず舌打ちをしそうになって、慌てて表情を取り繕ったのがバレていなければいいと思いつつ、哀は殊更冷ややかに怪盗KIDであるところの黒羽快斗をきろりと眺めた。
「あれほど工藤君の家で寝るのはおよしなさいって言ったでしょうに」
「いや昨夜仕事でちょっと疲れてて…」
「いつか本当に煮えるわよ」
「自分のヤツで慣れてるから平気だと思ったんだよ〜」
快斗が背中で飼い慣らしている『ねこ』も、工藤新一に負けず劣らず多い。
多いが、快斗の『ねこ』はもはや半分人格と融合している部分もあるので、新一を前にしてもそうそう全てが「どちゃっ」と落ちるような事態には陥らないのである。
学校の連中は『KID用ねこ』の存在などただの快斗の家の飼い猫だと思っているだろうし、KIDの現場に『快斗用ねこ』は決して足を踏み入れない。時々自分でも自分の『ねこ』かどうかわからなくなるそいつらの見分け方はごくごく簡単、嬉しそうに「うにゃ〜v」と鳴きながら新一に擦り寄っていけばそいつは間違いなく快斗の『ねこ』だ。
とはいえ、流石に工藤新一の『ねこ』の愛情表現は激しい。快斗の前だと全ての『ねこ』が剥がれ落ちるが故に、その数も相俟って余計にヒドイ有様である。
おかげで快斗は最愛の恋人と素直にらぶらぶすることもままならない。
その恋人はといえば己の猫に嫉妬さえするという、疑いようのないほどの愛情を快斗に向けているというのに、このジレンマは何事だろうか。
「…黒羽君、貴方、ほんっっっとうに苦労するわね…」
しみじみと呟かれた哀の言葉が、ほんの少し優しい気がするのは何故だろうか。
黒羽快斗。この春から大学生+マジシャン+現役怪盗紳士。
そんな奇妙奇天烈な経歴を持つ青年は、相変わらず傍若無人ににゃごにゃごと擦り寄る恋人の『ねこ』を軽くいなしながら、数年前の衝撃的な恋人との出会いを脳裏に描いたのだった。
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工藤新一。東都が、否日本が誇る迷宮無しの名探偵。
日本警察の救世主とも噂される彼は、かつてマスコミの寵児だった。故にその存在を否応無く知っていた快斗だったが、彼の手腕に関しては相当に侮っていたことも確かだった。マスコミというのは、誇張と虚構を真実に見せかけることにかけては随一の手腕を持つものだからだ。
だからこそ、あの時計台の対決は相当に肝を冷やした。組織のスナイパーに狙われるよりも確実に、己の生命線の一端を見失う経験をするとは思わなかった。今でもヘリの爆音を聞くと、快斗が認める唯一の名探偵の鋭い刃のような一手一手を思い出さずにはいられない。
そんな彼との直接の対面は、杯土シティホテルの屋上。
自分は怪盗の装束で、彼は…なんとちびっこの姿になっていた。
ちんまいお子様が、こんな場所に保護者も無く居るはずが無い。すなわち、コレはただのお子様ではないだろう。そこまでは快斗も考えたが、まさかその正体が行方不明中の工藤新一その人だとは思いもしなかった。
後日彼の素性を調べて、あまりのありえなさに自分で自分の見たものを疑ったが、結局諸々の証拠から認めざるを得なかった。そもそもクラスメイトに魔女が居り、自分が不老不死を与える宝石を捜している時点でどんな虚構も真実の前で色褪せるわけだし。
それから幾度も敵対したり時には協力しあったり、それこそ平成のルパンとホームズのように『好敵手』の名前が相応しい年月を経て。
快斗は、やがてこの小さな探偵とのやり取りが楽しいとさえ思えるようになっていた。それは後々聞いたところによると、探偵にとっても同様であったらしいが。
予想外だったのは、存外にこの東都の名探偵の復活が早かった事だった。
快斗の『怪盗KID』という存在の終了期限はパンドラが見つかるまで、若しくはボレー彗星が過ぎ去るまで。あと数年もない期限の内に、よもや巨大な裏組織を根っこまで残さず壊滅させ、尚且つ元の姿を取り戻すとは非常識が服を着て歩いているという自覚がある快斗にも予想できなかった。
過ぎ去った過去の所業を思い起こすと、今でもたらり、と背筋を冷や汗が伝ったりする。本当にアレの敵にならずに済んで良かった、そうしみじみと思う。
なにはともあれ、復活した名探偵は意気揚々と怪盗の現場にやってきた。警察にも他の探偵にも一切の助力を請わず助力をせず、ただ一人の能力と知略を以って確保不能の大怪盗を捕縛せんが為に。
ビルの屋上で、月光を浴びて不敵に笑う名探偵は、文句なしに無茶苦茶格好良かった。ポーカーフェイスを身上とする怪盗が、未だ現場であるにもかかわらず思わず息を詰めるほどに。
『…これはこれは…おめでとうございます、名探偵』
『ムカつくヤローだな相変わらず。何もかも知っててよく言うぜ』
『だからこそお祝い申し上げておりますが?』
にい、と唇を吊り上げて、不敵に笑う。
ああこれが「工藤新一」か、と、快斗は背筋を駆け上がるぞくぞくとした高揚感に眩暈さえ覚えた。ちりちりと焼け付くような緊張感は、互いの間に平等に横たわるものだった。
探偵がざり、と足を摺らせた瞬間に、KIDは懐のトランプ銃を構える。張り詰めた空気の中、動いたのはほぼ同時。
結局、この日の対決は怪盗の腕に盛大な青痣、探偵の頬に数箇所の切り傷という、双方痛み分けの結果に終わった。互いに次こそは!と決意を固めながら、幼馴染に負傷を誤魔化すのは大変だった記憶がある。
その後、何度も現場で遭遇するようになり、「好敵手」は「喧嘩友達」に、そして「悪友」、「親友」、終いには何を血迷ったのか「恋人」に関係がクラスチェンジしていた。最初に『工藤新一』を滅茶苦茶格好良いと思ってしまったのが間違いの始まりだろうか、付き合いの間にぽろぽろと『ねこ』を剥がしてゆく様子を見てしまったのが不味かったのか。
段々と素を露にしてゆく新一は、快斗の予想を大幅に裏切って結構迂闊で我侭で嫉妬深くて、その気になればしれっと嘘もつくが肝心の所でお人よし。常に大量の『ねこ』を被ったその本質こそが、可愛くて可愛くて仕方がない。
何はともあれ、今現在「工藤新一」の恋人は「黒羽快斗」である。そこだけは誰にも譲れない。
譲れない、のだけれど。
「ここまで数が多いとは思ってなかったというか、めーたんてーの『ねこ』だから過激っつーか」
リビングを埋め尽くす『ねこ』。工藤新一が投げ捨てた外面の象徴。
この『ねこ』が見えるということは、彼は現在素に限りなく近い状態ということだ。それは喜ばしい限りなのだが、『ねこ』を近辺から排除しない事には可愛い可愛い恋人とキスのひとつもできやしない。
呆れながら自宅に戻った哀の捨て台詞を思い出し、快斗はがっくりと肩を落とした。
何せ、肝心要のその恋人は、快斗にひっつく己の『ねこ』にさえ嫉妬している。
嫉妬して対抗心を燃やし快斗にひっついてくる新一は可愛いが、そのたびに彼の『ねこ』にひっかかれよじ登られぺちぺちされ猫キックを食らうのは少々頂けない。
頂けないが、快斗は彼も彼の『ねこ』たちも可愛くて仕方ないので結局強硬手段には出られないでいる。
「まーさか、あのくらいで拗ねるとは…」
現在の工藤新一の所在地、自宅の自室。
昨夜の疲れも祟ってか、昼寝中で己に構ってくれない恋人+それに張り付く(というか乗っかる)己の『ねこ』に思い切り不貞腐れて『KID用ねこ』たちと共に篭城中。
「俺の『ねこ』連れてってくれたのはまあいーんだけど、俺が好きなのは新一だけだって言ってるのになー…」
リビングを埋め尽くす『ねこ』に無体なことが出来ないのは、コレが彼の『ねこ』だからだ。自分の『ねこ』だって、こんな丁寧に扱うもんか。
今頃神妙な顔をした『KID用ねこ』たちに滔々と快斗への文句と言う名ののろけを喋り倒しているのだろう新一を思い、快斗は困ったようにくすりと笑う。
ああもう仕方ないね、だって君だもの。
無敵の『ねこ』被りだって半端じゃない我侭だって、見当違いな嫉妬だって、君だから可愛くて仕方ないんだから。
「ま。とりあえず、ご機嫌斜めのめーたんてーの為に、お茶の準備から始めますかー」
とびきり美味しいコーヒーと、今日のおやつは何にしようか?
「おまえらは…鳥ささみ、食うか?」
「にゃv」
身のこなしも軽く起き上がった快斗の足元に、わらわらと寄って来る『ねこ』たちに問いかけると、綺麗に揃った声で一声鳴いた。
今日も工藤邸は、素敵に『ねこ』まみれ。
拗ねた名探偵の部屋のドアを怪盗がノックするまで、あと少しの出来事。
2006.04.11.
H O M E *