shift [ 2005年バレンタインデー記念小噺 ]


「…出来た」
 ぽつり、と呟きが零れた部屋は、やけに薄暗い。
 テーブルに転がった、やけに薄汚れたビーカーやシリンダー。部屋の中に立ち込めた濃密な芳香は、苦手な人間ならばそれだけで卒倒しそうなほどだ。
 微かな炎の気配と、立ち上る白い靄じみたものが更に部屋の中の見通しを悪くしている。
 その中にただ一人立ち尽くす青年は、薄っすらと赤い唇に笑みを刷いて目の前の物品をそっと手に取った。
 周りに立ち込めるそれよりも、ずっと深い芳香を漂わせる綺麗なピンク色の包装紙と鮮やかな緋色のリボンで包まれた小さな小箱。
 うっとりとした眼差しでそれを見つめると、くつくつと肩を震わせ押し殺した笑いを薄暗い部屋へと沈ませる。
「ふ、ふふふ…完璧…!」
 きらり、と僅かな炎の明かりを乱反射する眼鏡のレンズ。
 袖口他色々なところを茶けた物体で汚した白衣の裾を翻し、何処か調子っ外れの鼻歌を歌いながら踊り出さんばかりに浮かれた己に。果たして彼は気付いているのかいないのか。

 どちらにせよ、こんな場面でがちゃりとドアを開けてしまった自分はどうすれば良いのだろうかと。
 苦悩する小学生科学者、灰原哀は思わず皺の寄った眉間に片手を当てた。
「…工藤、君?」
「は?へ、あ…灰原」
 ぱちり、と何故か点けられていなかったキッチンの照明をオンにすれば、露になるその惨状。
 この、何時もならば事後の面倒さと自身の手間を秤にかけて嫌々ながらも片づけを怠らない工藤新一とも思えぬ散らかしっぷりにくらくらとしながらも、たとえマッドサイエンティストの端くれである哀でもこの日この物品の作成には使用しないだろうと思える実験器具の数々に思わず視線を逸らす。
 更に、この噎せ返るような甘い香り。
「結構いい出来だろ?」
「…そう、かもね…」
 確かに、彼の手によってたった今出来上がったと思しきプレゼント仕様の包みは、可愛らしく市販品の如き出来栄えを誇ってはいる。
 ただ、この場合間違っているのは。
「ただ…ただね、工藤君。
少なくともバレンタインのチョコレートというのはそういう風に作るものじゃないと思うのよ…」
「そおかあ?」
 マズイのかな、と白衣の裾を摘みあげてみながら、やけに可愛らしい仕草で首を傾げる姿は、きっと件の通い家政夫辺りが見たら問答無用でぎゅーっと抱きしめたくなるような愛らしさだったが、哀にはこめかみ辺りに走る頭痛を更に酷くする効果しか齎さなかった。
「味は保障できるんだけどなー」
 問題はそこじゃない。
 思わず入れそうになった突っ込みを必死で飲み込み、哀は彼の元同級生、彼女の現同級生であり親友である歩美ちゃんと共に作成した義理チョコを押し付けるようにして渡す。主目的をようやく果たし、気力を吸い取られたような感覚を覚えながらよろりとこの場を去る哀は、恐らくこの後工藤邸を訪れるだろう、この何処までもズレた探偵の恋人たる人の良い怪盗の顔を思い出し、必死で心の中で詫びの言葉を繰り返した。
 かの探偵の無軌道さは、例え彼が『味には自信がある』と言っても全く信用ならない。『味は』と断りを入れる事を鑑みて、恐らくは二重三重の罠が待ち構えていると言っても過言ではあるまい。
 そんな魔境・工藤邸とラスボス・工藤新一に無手で挑む勇者・黒羽快斗に心の中で盛大なエールを送りつつ。
 哀は脱兎の如く工藤邸の門を潜り抜け、安住の地たる自身の研究室に駆け込み、慎重な手付きで鍵をかけた。
「…黒羽君…、健闘を、祈るわ…!」
 …え?祈るだけですか哀ちゃん?!



 にこにこにこ。
「ええと…」
 非常に珍しい、工藤新一の全開の笑顔を目の当たりにして、しかしながら黒羽快斗が最初に覚えたのは歓喜よりも幸福よりも背筋が凍るような悪寒だった。
 嗚呼、何故最愛の恋人の満面の笑顔に最初に覚える感情がそれなのか。
 嘆くように僅かに視線を下に向け、零れ落ちかけた溜息を必死で飲み込んだ。
 目の前には、綺麗にラッピングされた小箱。
 一緒に出されたマグの中身は、ホットココア。
 にこにことそれはもう上機嫌に笑う新一の姿に、これは覚悟を決める必要があるか、と奥歯を噛み締めた。
 快斗は甘いものが好きだ。
 更に言うならチョコレートはかなりの好物だ。
 それを最愛の人から貰えるのなら、何を杞憂に思う事があろうか。
 …と、屈託無く言えたらどんなにいいか。
「かいとー、それ、俺ちゃんと手作りしたんだーv」
 なんでそんなに甘い声で、というほどの猫撫で声で擦り寄る名探偵、という時点で、絶対にこの恋人は何かを企んでいる。断言してもいい。
 だが、だからと言って快斗に出来る事は大して多くないわけで。
「うん…ありがと。頂くよ…」
 かさり、とリボンを解いてラッピングを剥がして。
 白いボックスの中に鎮座していたのは、数粒のトリュフチョコレート。見た目は非常に美味しそう、ではある。
 ではある、のだが…
 どきどきどき、わくわくわく。
 顔中に何がしかを期待しています、という文字を貼り付けた新一に、思わずその手が鈍ってもそれは快斗の責任ではない…と思いたい。
 ぐっと腹を据えて、摘み上げたトリュフを口に放り込む。
 口の中に広がる、ココアパウダーの僅かに苦味があるほのかな甘さ。
 覚悟を決めて歯を立てると、上品なミルクチョコレートの甘みが舌の上にとろりと広がって、中に何か仕込まれているのではという快斗の出来れば実現して欲しくない不穏な予測を裏切り、十二分に美味なチョコレート菓子の味だけがそこにはあった。
 むぐ、と何度か咀嚼を繰り返し、こくりと飲み込む段になっても身体に異変がない事に安堵しながら、此方の返答を待っているかのようにうずうずしながら快斗の顔を覗き込む新一のきらきらした蒼い瞳を見つめ返す。
「…美味しい、よ…?」
 ちゃんと、と呆然とした表情で告げる快斗に、にこぱっ、と満面の笑顔で返す新一。絶対何か仕込んでるもんだと思っていたのに、普通に美味しいチョコに快斗はぱしぱしと目を瞬く。
 ふふん、と満足そうに唇を吊り上げる新一の自信満々な表情に『あ、かわいー…v』と思ってしまうのはもはや恋する男の盲目さなのか。
「ん、ちゃんと残りも食えよー」
 自分で摘んだ残りのチョコを快斗の口中に押し込んで。
 そっと微笑みを残した唇を快斗のそれにそっと重ねた。


 ちなみに。

「ちょ、ちょっと新一っ!!なんなのコレどーゆーことっ!?」
「あ、良かった成功〜v」
 ばたばたと昨夜、バレンタインの何処か甘ったるい雰囲気のままお泊りをしていた恋人が、慌てふためいた様子でキッチンに駆け込んでくるのをにこぱーっ、と昨夜を彷彿とさせる満面の笑顔で迎える名探偵・工藤新一。
 その笑顔には一点の曇りもなく、この現状が彼が意図した通りのものであることを物語っている。
「遅効性を狙ったけど、正確な時間差はわかんなくてなー…そっかこのくらいかー」
 微量づつ混入して味覚を誤魔化し、体内に蓄積する事で効果を発揮する、無味無臭の薬品なのだという。
 笑う、のは可愛くていいのだけれど。
「落ち着いて言わないでしょそういう場合じゃないでしょコレーっ!」
「んvだいじょーぶ可愛いから」
 ぺふ、と嬉しそうに快斗のふわふわの猫毛、その旋毛の辺りに手を置いて…ん?
 置いて、という事は?
「…なんでこんなに俺ちぢんでんのーっ!!」
「よしよし大成功。んん、さすが俺♪」
 それは、件のAPTXの有害成分を除いた試作品なのだと、それは可愛らしくにぱっと笑う。
 折角かわいーから灰原呼んで来よー、とぱたぱたとリビングを後にする新一の後姿にがっくりと肩を落とし、快斗は一言呟いた。
「…APTXって、なんで新一そんなモンの組成情報手に入れてんの…?」
 哀ちゃん、このヒトどんどん危険人物になってます。
 いつか俺たちだけでは留まらないんじゃないでしょーか。
 あからさまな同情の眼差しが容易に想像できるようで、快斗はがっくりと肩を落とした。

 故に、今年の少女科学者から月下の怪盗へのバレンタインデープレゼントは、名探偵の気合の入りすぎた悪戯チョコレートの解毒剤だったことを追記しておく。




2005.02.14.

H O M E *