会いたいと願うのは我が儘?
 触れたいと願うのは分相応?

 それでも、俺は君に会いたいと、触れたいと願わずにはいられない。


hope [ 七夕記念小噺 ]


 じっとりと、肌に纏わり付くような湿気過多の初夏の空気の中、工藤新一ははふりと息を吐き出した。
 冷房が効いている室内は恋しいし、家に置いてきた新刊は更に恋しい。
 けれども、この日ばかりはそうも言っていられないから、額に滲む汗を拭いながら温い風の吹き抜ける高層ビルの屋上で、新一はじっとその時を待つ。
 夕暮れ時に駆け抜けていった雨雲は今は欠片も無く、空は蒼く黒く星が見えるほどに晴れ渡っている。所々に雨の匂いと気配を残しながらも、やってくる盛夏の足音を予感させる大気の感触。
 やや湿ったコンクリートを踏み締めて、手を掛けたフェンスは少し冷たい。手のひらからじんわりと滲む冷気を堪能しながら、あの汐留の対峙の瞬間のように、高揚する自身を感じて唇をぺろりと舐めた。
 日付変更線まであと少し。
 深夜の邂逅を咎める輩は既に無く、街中を走り回っていたパトカーのけたたましいサイレンの音とエンジン音も消えて久しい。
 通常の静けさを取り戻したビル群の一角。けれども、新一は相手が此処に現れる事を疑ってすらいなかった。

 それは、もう決定事項。
 たとえ示し合わせなくとも、言葉にせずとも、必ず相手は此処に来る。

「そうだろ…怪盗KID」

 フェンスに両手を置き、そっと目を閉じて呟いた名前。
 その名前に呼応するように、ばさりと布が翻る音を立てて舞い降りる白。
 唇が僅かな笑みを刻むのを、止められない。

「…流石は名探偵」
 ご存知でしたか、とシルクハットとモノクルに隠された顔のうち、それでも容易に見て取れる口元が優雅に薄く微笑む。
 白い手袋に覆われた指先が翻り、さらさらと涼しげな音を立てる小さな笹の枝が彼の手に乗っていた。
「今回の予告状もお楽しみ頂けましたか?」
「おう、程ほどにな」
 しゃらり、と小さな葉と葉が擦れ合う音をさせる笹の枝を差し出され、新一は躊躇い無くそれを手に取る。怪盗が使用するカードと同じ意匠の短冊が揺れるそれを手に取り、にやりと挑戦的な笑みは絶やさず。
「…俺は来た。オマエも来た。
さあ、俺とオマエの願い事はなんだ?」
 笹の節が連なる枝に、細い紙紐で吊るされた短冊を手に取り、ゆっくりとその唇に食む。
 キッドの視線がカードと己の唇に集中するのが心底愉快で、声を上げて笑いたいのを堪えて一歩、新一は相手に向けて踏み出した。
 願い事は、たったひとつ。
 叶えられないわけがないと、この場に二人が立つ現実に新一は確信する。

 会いたいと願う事。
 触れたいと願う事。

 そして、近付きたいと願う意味も理由もなにもかもすべて、

「俺の願いはオマエが叶える。オマエの願いは俺が叶えてやる」

 二人、互いにしか叶えられない願いを抱えるから、こんな真夜中にこんな場所で、決して居心地が良いわけでもないのに楽しくて仕方ない。
 唇に食んだ短冊を手に取り、笹の枝を放り投げて手を伸ばす。
 希うように伸ばされたそれは、裏切られる事なく白い手袋に包まれた手に包み込まれる。じんわりと伝わる自分以外の体温に、新一はいっそ晴れやかに笑う。
「俺は会いたいと願った、触れたいと願ったんだ。
オマエは?オマエは、何を願う?」
「…同じ、だよ。名探偵」
 触れ合った手を指のひとつひとつまで絡めて、シルクハットとモノクルの意味がなくなるほど近くで怪盗は笑う。
「アンタと同じだ、名探偵。俺はアンタに会いたくて、触れたかった」
「じゃあ…」
 指が、腕が辿られ、ふわりと香る夜の匂い。
 余すところ無く絡め取られて、抱き込まれて。伝わる体温と微かな体臭すら愛おしいのは、胸の中に眠る願いと、それを願ってしまう感情故。

 7月7日。
 神話の男女の逢瀬と、地上人の願いを司る日。

 叶えられた願いと、叶えた願いの二つに満足しながら、新一はうっとりと瞳を閉じた。

 過ぎ行く時間が、今日という日を押し流しても。
 この体温を離せない自分を、相手を確信しながら。



2005.07.07.

H O M E *