chase! [ summer vacation ]


 しゃわしゃわと泣き喚く蝉の声に眉根を寄せて、工藤新一は目の前に鎮座する不愉快極まりない現状の最たる原因を睨み付けた。
 工藤邸はクーラー全開、外の蒸し暑い不快条件をすべてリセットした心地よい温度と湿度を保っている。テーブルの上に置かれた氷入りのアイスコーヒーのグラスが汗をかいて、つるりと水滴がグラスの縁を滑ってテーブルの上に小さな水溜りを作っていった。
 唸るような声を上げる工藤の目の前に鎮座するのは、一枚のメモ。大急ぎで書いて引き千切ったらしい切り口の粗いそれが、ペンを重石にしてひらひらと空調の風に揺れている。
 やや右上がりの癖のある、本来は綺麗なはずの彼の文字。それが、判読が難しいほどではないが、少々崩れていた。
 けれども、本当に工藤新一を不愉快にさせているのは、そのメモそのものというよりも、其処に書かれている短い文字列。
 むう、と唇を尖らせ、ひったくるようにそのメモを手に取る。
「『白馬が話があるそうなので、ちょっと外に出かけてきます。明日の朝には帰ります。快斗』…」
 ちょっとってどのくらいだよ、俺にも言えないような事かよ、そんなに慌てて出かけなくちゃならない用事って何だよ…エトセトラエトセトラ。ともかく工藤新一は、何も言わずに姿を消した元宿敵現恋人の不在にむっつりと黙りこくったままくしゃりとメモを握りつぶした。

 この日、新一は随分とお寝坊さんだった。

 昨夜事件に駆り出され、ベッドに入ったのが日付変更線をとっくに超えたむしろ朝方に近かっただとか。
 ただでさえ夏休みということで、なんとか必死で補習を免れた新一に朝早く起きる必要は皆無であったこととか。
 そもそも快斗がそこにいる、という安心感で何の躊躇いもなく熟睡してしまっただとか…まあ、今となっては事後の言い訳に過ぎない。
 なにはともあれ既に日も高く落ちるだけになった時刻にのっそり置きだした工藤の寝ぼけた頭は、居るはずだった恋人の不在と、それを埋めるには些か足りないメモ書き一枚きりがひらひらとしたリビングに一気に叩き起こされた。

 ついでに、激しく不機嫌にもなった。

 工藤新一は、自分でも自覚があるが気が短い。オマケに何時までも根に持つタイプだ。
 なんで俺が起きた時にアイツが居ねぇんだ、そもそも俺を置いてあんなコスプレ勘違い探偵如きに呼ばれたからって出かけるとは何事だ!?それに明日の朝ってなんだ、そんな用事ささと片付けて直ぐ帰ってくりゃあいいじゃねえか…!
 どすどすと怒りと良く分からない不愉快な気分に任せて乱暴に足音を立ててリビングを後にし、キッチンの大きな冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し一気に嚥下する。冷えた液体の喉越しは寝起きの身体には甘露だったが、それでもどこかむかむかする気分は抑えきれないまま。
 完全にふてくされた工藤新一は、先ほど起きだしたばかりのベッドへと舞い戻ったのだった。



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 たらり、と額を流れ落ちる汗を拭いつつ、黒羽快斗はどこか遠い目をして辺りを見回した。
 煩いくらいに鳴き喚く蝉の声と、空調もない公立高校の教室のよく見慣れた薄汚れた壁。シャーペン片手に唸るクラスメートたちと、既に半死体と化した白馬の背中。
『…なんで俺こんなトコでこんなコトしてんだろ…』
 本来ならば、今頃起きだした新一に遅い昼食を供し、夕飯の買い物に出かける算段でも立てている頃だ。
 高校三年生の夏休み、受験生でもあるが、新一も快斗も元より学生レベルでは計れない頭の中身をしているなんとも嫌な高校生である。出された課題は夏休みが始まったと同時に二人でちゃちゃっと片付け、時間のかかる研究系レポートを除いてほぼ終了。そのレポートも実際に実験を行って締めるのみ。
 そんな余裕綽々の快斗に、白馬から力のない口調で電話がかかってきたのは『さー今日も二人でとことん遊ぶぞーっ!』と思っていた矢先の事だった。
 珍しいほど覇気の無い様子に、己のライバル(…と呼ぶと新一が何故か憤慨するので出来るだけ黙っている)である探偵だが、それでもクラスメートで友人であることは間違いないからして、快斗は流石に不安になった。
 かなり陶酔交じりに快斗のもう一つの姿を追う白馬だが、周りが思っているほど快斗はこの友人を嫌ってはいない。いい加減やたらめったら無駄に追いかけるのはやめればいーのに、とは思うが、それでも友人として、いかにも坊ちゃんらしい人の良さと誠実な性格は好意に値する。
 ただ、それは友人としての領域を越すものではなく、特別な好意、というわけではない。クラスメートが困っていれば助けてやろうと思うのは当然、という程度でしかない。
 そして白馬から理由を聞き出して、苦笑いを零さずを得ず…そして今現在、こうして教師にも半分見放された補習組を目の前にしてチョークを黒板に叩きつけているわけだ。
「ほらてめーら、きっちり見て覚えろよ!俺は同じ事を二度は説明しねーぞ」
「ひでーよ黒羽横暴っ!!んな簡単に覚えられるならいまさらくそあちー中、こんなトコでべんきょーしてっかよっ…て、消すな消すな!!まだ板書してねえよ!」
 鬼、悪魔―っ!と叫びながらノートを抱えるようにしてシャーペンを動かすクラスメートたちを一瞥し、けれども快斗は無表情にうりゃ、と躊躇いなく黒板消しを滑らせる。
 あああ!?と悲鳴のように響く声を黙殺すると、すっとその黒板消しで片隅で燃え尽きている白馬を指した。
「てめーらにクソ真面目に付き合ってたらそうなるってわかってて、誰がんな戯言聞くかボケっ!そこで半分死んでる白馬に申し訳ねえとか考えねーのかよ」
 一々正論である。思わず黙りこくったクラスメートの顔を一瞥して、快斗は更にかつかつと殴り書くようにして分子構造式を書き綴る。うぎゃーとかわーとか聞こえた気がするが、とりあえず無視。どうせなら冷房の効いたパソコン室とか図書館とかなら良かったのにな、と思ったが、そういう部屋は既に進学補講組が占拠しており、使用の許可が下りなかった。
『まあ…使えてもコイツ等だと速攻寝そうな気もするし…』
 これはこれでよかったのかも、と思いながら、快斗は淀みない仕草でざかざかと文字と記号を書き綴ってゆく。無論教科書も参考書も見ない。IQ400を誇る快斗の天才的頭脳には、彼にとって必要なものを余すところなく詰め込んで、きっちりと脳内の記憶棚に整理整頓されている。
 暑苦しい教室内に阿鼻叫喚の悲鳴が轟く中、早く新一んトコ帰りたいなー、と肝心の講師役はぼんやりと別の事に思いを馳せているのだった。



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 がばりとベッドから跳ね起きて、確認した時間は午後9時前。
 無論、まだ半居候の恋人は帰っていない。
 しかし工藤新一は、なんというか…気が短かった。オマケに諦めも悪かった。更に言うならねちっこく根に持つタイプだったりもした。
『…よく考えたら、俺がココで大人しく待ってるだけ、っつー必要はあるのか…?』
 いや、ない。
名探偵は結論も即決だ。
そこまで一足飛びに結論を出した新一は、そこで漸く己の職業を思い出す。
本職・学生。副業・探偵。
 そう、探偵なのだ。オマケに色々華麗な二つ名を頂いた、それなりに有名な。
『草の根分けても探してやる…なんで勘違いコスプレ探偵なんぞに呼ばれてホイホイ行っちまったのか、更にどーして俺を置いてったのか、キリキリ吐かせてやる!』
 怒りに任せて寝巻きを脱ぎ捨て、ちゃちゃっとシャツに袖を通す。細身のジーンズを履いて、ポケットに財布をねじ込む。同様にシャツの胸ポケットに携帯を落とすと、ずかずかと玄関へと足を向けた。

 待ってろ黒羽快斗、こうなったら探偵の意地にかけて探して、下手な言い訳聞いてやろうじゃねえか!

 盛り上がった新一のアドレナリン絶好調の脳の中には、既に『明日の朝には帰る』という快斗のメモの事など微塵もない。
 彼にとって重要なのは、この場合『快斗が俺より白馬を取った』という一点のみであり(これについても多少視野狭窄な結論と言わざるをえないだろうが)飛び火した怒りは簡単に逆恨みへとすり替わる。
 かつて白馬に(白馬当人には全く他意はなかったのだが)『君は彼の事など何も知らない』と言われてから、工藤新一は白馬が大嫌いだった。更に快斗の友人と言う事でそれ相応には親しいらしく、確かに新一が知らない快斗の事を知っていたりしたので輪をかけて嫌いになった。
 …工藤新一。好きな人には凄まじく許容範囲が狭い男である。
 不幸なのは理不尽な逆恨みを買ってしまった白馬か、そんな人間に好かれてしまった快斗なのか。
何はともあれ、名探偵・工藤新一はどこか間違った情熱をもう上がらせ、己の前から姿を消した恋人を探すべく夜の街へと繰り出すのだった。



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「見つけた、快斗っ!!」
「はれ?新一?」
 まぐ、と深夜営業のコーヒーショップでチキンベーグルサンドを齧りかけていた快斗は、目の前に突如現れた恋人の姿にきょとん、と目を見開いた。
 はあはあと息を切らせた新一にとりあえず、と飲みかけのアイスカフェモカを差し出してみる。こくこくと三分の一ほどを飲み下した後、「甘ッ!!?」と叫んでテーブルに叩きつける。それでなくとも快斗が飲むものだからして、たとえアイスコーヒーでもガムシロップとミルクが大量に入っているだろうと言う事は、見事に頭からすっ飛んでいる辺りがらしいというかなんというか。
「えと、どうしたの?今夜はもう遅いから明日の朝出なおそうかと思ってたんだけど…」
 結局、連中のトコロテン状ののーみそにはみ出る寸前まで中身を詰め込み、その後死体になった白馬を家まで送り届け、気付いたら既に人様の家にお邪魔する時間ではなくなっていた。
 残念ではあったが今日のところは自宅に戻って明日の朝出なおそう、と遅い夕食を取っていたところだったわけだが。
「だってオマエが居なくなるから!」
 がうっ、と吼えるように叫ぶ新一に、快斗はわからない、というように首を傾げる。そう、この怪盗もステキにズレていた。
だってわかりやすいところにメモは書き置いた、アレにこの名探偵が気付かぬはずもない。はて何がマズかったのか、と思ったところで新一がおもむろに快斗の腕をむんずと掴み、ずかずかと歩き出した。
無理矢理引っ張られた形になった快斗は、椅子から引き摺り下ろされ慌ててたたらを踏む。持ち前の運動神経で姿勢は維持したものの、何に対してこれほど怒っているのかがわからないのが快斗には不安で仕方なかった。
 慌ててテーブルの上の食べかけのベーグルサンドとカフェモカを片付けて、通りがかりのダストボックスの上にゴミとトレイを置いてみる。
 ごめんなさい店員さん、と心の中で詫びると、快斗はおそるおそる、ずかずかと歩き続ける新一に問い掛ける。
「新一、その、怒ってる?」
「怒ってない」
 嘘だというのが簡単に知れる不機嫌な声色で、けれども即座に断言された快斗は二の句に困って首を傾げる。大好きで大好きな名探偵にこんな顔をさせてこんな声を出されるのはとっても不本意だったので、ぐっと心を決めて更に問い掛ける。
「俺がいなくて…嫌だった?」
 だから、探しに来てくれた?
 どきどきしながら問い掛けた言葉に、返るのはただ沈黙だけ。けれど、後ろから僅かに見える耳朶の赤みだとか強くなった腕を握る手の力だとか、そんなものに快斗は思わず唇を綻ばせる。
 この恋人は、素直じゃなくて怒りっぽくて我が儘で、だけど快斗にとっては最高に可愛いヒト。
 腕を掴んだ手をそっと外させ、指を絡めるようにしてぎゅっと快斗も新一の手を握る。最初は動揺していた新一の手もまた、快斗の手をぎゅっと握りしめてきて。
「…もう、勝手にいなくなるな」
「りょーかい」
 ぶっきらぼうに告げられた新一の言葉に、そんな場合ではないというのに嬉しそうに相好を崩す快斗のシアワセそうな笑顔を見る事無く、新一はとりあえず無駄に過ごした時間を取り返すべく、己の家へと恋人を引き摺って歩くのだった。



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 そして、数日後。
「でもさ、結局」
 がらん、とした工藤邸のリビングで、快斗は思わず苦笑を零す。飲みかけのアイスコーヒーと、読みかけの推理小説が放り投げられた室内、そのテーブルの上には…無論メモなどない。
 けれどその事実に焦らずとも、こんなに慌てて屋敷の主が出かける用事はただひとつきり。
「新一の方が、俺放って出かけることが多いんだって…わかってんのかな?」
 どうやら警察の方々からのお呼び出しに嬉々として恋人のことなど忘れて出かけていったらしい新一に、快斗としては苦笑を零すしかない。
 夕飯の買い物に出かけて、戻ってきてみれば玄関には鍵もかけずに恋人だけが姿を消している、こんな状況に文句一つ言わない自分も悪いといえば悪いのだろうけれど。
「早く帰ってこないと…また、いなくなっちゃうよ?」
 くすくす笑って散らかったテーブルの上を片付けると、片隅に置かれたままだったメモ用紙を手に取り、ブルーブラックのペンで簡単な暗号を書き綴る。他の人間はともかく、『名探偵・工藤新一』ならば5分で解けるような内容の暗号には。

『新一が構ってくれないから帰ります。快斗』

 ふむ、とその内容を確かめ、満足したようにひとつ頷いてそれをどこからともなく取り出した封筒に放り込む。
「さあて名探偵…どうでます?」
 くすくすと楽しそうに笑いを零したまま、封筒をテーブルの上に置いて、快斗はぱたぱたと玄関へと足を向けた。
 帰宅してこのメモを見つけ、必死な形相で自分を追いかけてくる可愛い可愛い恋人の顔を想像して唇を綻ばせ、快斗は己のスニーカーに足を突っ込んだ。

 さあ、名探偵?追いかけっこを再開しようか?
 貴方はこの怪盗めを、見つけられる?

 くすくす笑う快斗の姿が消えた工藤邸のリビングでは、真っ白い封筒だけがこの家の主の帰りを待ちわびていた。





2005.08.21.

H O M E *


こっそりオマケで残暑見舞いイラストも有りますv
残暑見舞いポストカードイラスト