言葉にならない感情が、迷走に迷走を重ねた挙句、とうとう戻るべき道さえ失い出口を求めて彷徨っている。
辰羅川は眼鏡を押し上げながら、目の前の友人の壊れ様にそんな感想を抱いた。
「犬飼君、かなーり、鬱陶しいんですが」
「…はぁ」
かける言葉に返るのは、先ほどから溜息ばかり。
ぼんやりと見据えた窓の外は梅雨時には珍しく気持ちの良い晴天だけれども、そんなものさえ見えてはいないだろう。
物思いに耽り溜息を落とす180センチの男子高生など今も辺りで様子を遠巻きに伺いながらきゃあきゃあと騒ぐ女の子たちならいざ知らず、同性の友人としては鬱陶しいことこの上ない。
無論一撃必殺で昇天させてやって己の心の平穏を確保しても良いのだが、逆上した乙女達が血の雨を降らせかねない。
他人ならいざ知らず己にそのような火の粉が降りかかるのを容認する辰羅川ではない。
結局散漫に声をかけながらいつ壊れ状態から復帰するのか見極める以外にないわけで。
女の子たちはアンニュイな犬飼君もステキ、などと言っているがアレはもはやステキだと思っているからどのような状態も許容できるだけであって説得力は薄い。
というか、そろそろ元に戻ってくれないと自分がストレスでどうにかなる。
こうなったら早く授業が終ってくれるのを祈るのみだ。どうせ原因も解決法も本人以外は皆わかっているのだから。
弁当箱の蓋を閉めながら、辰羅川は未だぼんやりとしている犬飼に溜息を落としながら、その原因について考えていた。
事の始まりは、一週間前。
実力テストの終了後に、とてもそうは見えないが同級生で同じ野球部員の兎丸比乃が親の仕事の関係で手に入れたというカラオケの半額券を手に、誘いをかけてきたのだ。
「ねぇねぇ辰羅川君に犬の兄ちゃん、カラオケ行かない?」
唐突な問いかけに、辰羅川は思わず硬直して首を傾げ、犬飼は眉間に皺を寄せた。
折りしも時は実力テスト終了後。
やけにハイテンションになった生徒たちも徐々に姿を消しつつあり、自主練習にグラウンドの使用許可が下りなかった自分たちもそろそろ帰ろうとしたその時の出来事だった。
ぴらぴらと10名様まで半額、と記された割引券を手に、二人の困惑などどこ吹く風、邪気のない笑顔でにっこりと笑って兎丸は言葉を続ける。
「部活もないしさー、こういうのって、人数いたほうが楽しいじゃない?
司馬君歌上手いけど英語ばっかで僕よくわかんないんだもん」
「…っ」
その言葉に、司馬は辰羅川にもわかるほどうろたえた様子で視線を迷わせていたが兎丸はまったく気に留めた様子も無く笑っている。
ある意味この二人も大物かも知れない。辰羅川はそう思った。
「それでは、メンバーはこの4人ですか?」
「んーん、あと今職員室行ってる子津君も一緒v」
ホントは猿の兄ちゃんも一緒の方がよかったのになー、と呟き、こくこくと司馬が頷く。
確かに、彼の存在はあるだけで空気を変える。
ここにいる皆が、猿野天国という人間を憎からず思っていた。
「猿…いねぇのか?」
ぼそり、と低い声で呟く犬飼の普通なら脅されているのかと思うほど感情のない、実際は単なる無愛想なだけの言葉にも兎丸は臆することなく返答を返す。
「兄ちゃんのクラスにも寄ったんだけどー、なんか何時の間にかいなくなってたって」
どうやったらあんな目立つ兄ちゃん見落とせるんだろーね?と笑ってはいたが、多分兎丸もそしてこの場にいる面々も、なんとなくそれには気付いていた。
バカをやって、人の注目を集めて笑いを取って。
けれどそれが彼の本質ではないのではなかろうかと、おぼろげながらも野球部の面々は気付いている。
何が彼の本当なのかは推察のしようもないけれど、それを明らかにするほど猿野は自分たちに心を許してなんかいない。
「あ、でもね?まだそんなに前じゃないっていうから、今から追っかければ間に合うかもね?」
「…(こくこく)」
無邪気に笑う兎丸は、子津君戻ってきたら後から来て、と告げると軽やかに踵を返し、彼を一人で行かせるという事実に惧れを覚えたと思しき司馬が慌ててその後を追う。
店の場所はわかっているし、兎丸に追いつくのは確かに至難の業だ。
けれどその場所に居合わせた瞬間、そこで了承した事実を激しく後悔することになる。
猿野に抱きついた兎丸と、おろおろと慌てる司馬。明らかに困り果てていると思しき猿野。
『なんて羨ましい…!』
その時の3人の心は間違いなく一つだった。
ぷつん、とどこかが切れた犬飼が兎丸を引き剥がし、ぶすくれた兎丸がぎゃんぎゃんと叫んで、それを無視した犬飼が何時も通りの憎まれ口を叩く。
ここまでは何時も通りだった。違ったのは、この後の猿野の一言。
「は?…あ、え、…あ、ありがと…」
何時に無く素直な礼の言葉だった。しかも、少し困惑したその表情は何時に無く無防備で犬飼はあっという間に真っ赤になる。
危険だ。
これは非常に危険だ。
付き合いも長い友人である。行動パターンも既に熟知している。理性が切れた時の犬飼が文字通り野犬と化すことを、辰羅川は誰より良く知っていた。
傍らの子津を振り返れば、彼もこちらを真剣な目で見て頷く。
とにかくあの狂犬を猿野君から引き剥がさなくては。
辰羅川は一見丁寧に、その実かなりの強引さを以って犬飼を無理矢理に遠ざけ、久方ぶりに見せる調教モードで迫る。
その間に子津は猿野に駆け寄り、どこにも異常がないかどうかざっと見ながら殊更心配そうに声をかけた。
「だ、大丈夫っすか、猿野君!」
暗に兎丸や犬飼に何もされていないか、という問いかけだったのだが、猿野は兎丸に飛びつかれて転びでもしなかったか、という意味に取ったらしく見当違いの答えを返す。
しかし、そこまで天然状態を持続するということはすなわち何もなかったということなのだろう。
よかった、と目に見えて胸を撫で下ろしたみなの気持ちは一つだった。
また、何も変わらない日常の一コマとして片付けられるだろう、と。ところが、話はそう簡単に行かなかった。
あのカラオケ以来、猿野の周りに張り詰めていた透明の他者を拒む壁がほんの少しではあるが、薄くなった。あの時交わした会話から、憎からず思っている相手が警戒心を僅かとはいえ緩めてくれたのは確かに嬉しい。
特にまあ元の扱いがかなりぞんざいだった事は否めないが、犬飼に対してのそれが著しく変容した。
口喧嘩の合間に見せる表情も一段と豊かで、どこかしら歩み寄ろう、という意志が見て取れた。
それまで皮肉やからかいを含んでしか向けられる事の無かった笑顔を、何のためらいもなく露わにする猿野、というのは、このヘタレ犬には刺激が強すぎたようで。
今まで通り喧嘩をしながらも何か違う感情を持て余している、らしい。
今日の犬飼の昼食は、バゲット一本とホットココア。
何故一本まるまるなのか、とかこの夏も近い時期にホットかい、とかいう突っ込み以前に、普通そんなものは昼食にしない。
食パン一斤でも十分変なのに、これ以上人の道を踏み外してどうする気なのだろう。
もう10分近くも同じ場所を見据えて溜息を繰り返す犬飼に辰羅川は諦めを多分に含んだ吐息を漏らした。
多少荒療治になるかも知れないが、心の平穏の為には多少の犠牲はやむを得まい。
「あ、猿野君」
「!?」
がばり、と犬飼が振り向く。無論そんな方向に猿野などいない。
というか、只でさえ教室が離れている上に時間割もかなり異なる猿野が貴重な昼休みを割いてここまで来るのは教科書を借りる時くらいのものだ。
「実に分かりやすいですねえ、犬飼君」
「…うるさい」
決まりが悪いのかそっぽを向いたその様子に、辰羅川は今までとは別口の溜息を落とす。
重症だとは思っていたが、これでは末期だ。
しかもヘタレ故に、己の気持ちに気付いてないときたものだ。
『猿野君の為に身を引いても良いのですが…何せこのヘタレが相手ですからねえ…』
前途多難が服を着て歩いているようなものだ。
もどかしいことこの上無いが、猿野がそれを望むなら致し方あるまい。
もう少しばかり、このヘタレの背中を押してやるとしよう。
『ま、くっ付いた後に波風立ててやるのも楽しそうですし』
眼鏡を押し上げる仕草に皮肉っぽい笑みを隠して、辰羅川は椅子から立ち上がった。
多少のお膳立ては、出世払いでつけておこうか。
既に頭の中に叩き込まれた猿野の出没スポットを照らし出しながら、教室を後にする。
笑っていてくれればいい。
その過去に、明るく振舞う裏側の闇を知る術もないのだけれど。
苦しみも痛みも思い出す必要などない。
君が笑えば、皆が笑うから、それだけで。
引き換えの約束など、きっといらない。
…うあー…やっぱりイマイチ面白くねえ…(汗)
どうなんですかね!?誤魔化しモードMAXって感じなんですが実際!
まあ、せっかく書いたものをお蔵入りさせるのも勿体無いので出しますけど
ひたすらヘタレた犬とちょっと黒い辰と無邪気攻な兎に純粋無垢な馬と心配性の子。
そんで天然+ちみっと悲観的猿。うーわー夢見すぎだー
みんな猿が好きなんですが、猿は犬がやや気になるみたいです。
ああ、そのうち先輩とかも書いてみたい…しかし書き分けできるのか、自分。
2002.07.02. Erika Kuga