既に去りし世界
ヒトは、往々にして惑う。
理解し難い世界というものにあまりに無力である事を、忘れてしまうからかもしれない。
ヒトという孤立したネットワークに対して、この世界という巨大なデータバンクは、どこまで。
どこまで、有用な存在で在れるのだろうか。
ここに在る意味を、世界は必要としてなどいない。
それを求めるのはヒトという暇な存在だけで、それは考えたところで意味を持つかどうかさえあやふやなものだ。だからそれは個人の満足以外の場所で意味など持たない。
無意味、という言葉ほど残酷なものはないと犬飼は考える。
こうして在ることが無意味だと決め付けられたら、限りある時間を使用してやってきた事全てが意味のない事になってしまう。そうしたら、己がここに在る意味すら消えてしまうのかも知れない。それは少しどころでなく怖いことだ。
足取りは、重い。普段はロッカーに置きっぱなしの教科書類が詰め込まれた鞄は更に重くて、少しづつでも持ち帰ればよかったと今更考えても遅い。
部活が休止となるテスト前。非常に手持ち無沙汰な時間。
犬飼にとって重要なのは部活…野球だ。それ以外に犬飼にとって重要なものは高校生活の中に何一つなく、後はただ過ぎ去るのを待つだけの怠惰なものに過ぎない。
ただ野球をする為に勉強をする。ただ、白球をその手にする為にだけ。
億劫なだけのもの。そう既に定義された時間。そのために己の存在価値としたものを犠牲にしなければならないという事実はたまらなく退屈で、不愉快なものでもある。
…尤も。
ただそれだけではない事は漠然と犬飼も理解している。乾き始めた風の匂いと、夕暮れ時の金色の光。アスファルトに伸びる影は薄く長く、じりじりと地へと沈む太陽の最後の足掻きのようにさえ思えた。
こんな夕暮れだ。
こんな昼と夜が曖昧になる時間に、時折あいつはとても綺麗な眼差しで世界を見ている。
あらゆるものを拒絶した、それでいながら全てを許容した矛盾と二律相反の、それ故にこの世ならぬほどに、綺麗な眼差しだ。
犬飼冥は、その眼差しを知っている。そうして世界を見るものが、世界に対して何らかのアンチテーゼを持つことに疲れたものだという事を。いよいよ長く薄くなる影を背後に貼り付けたまま、重い鞄を担ぎ直して犬飼は続く道のその先を見据えた。
野球をする、という理由が、ようやくのことで犬飼を世界に留めている。その唯一の楔すら失ってしまったら、きっとあの昼と夜の境目の曖昧な眼差しを彼と同じように世界へと向けることになるのだろう。
唯一絶対。そう決めたものがあることは幸せだ。
かつて持たなかった者が言うのだ、間違いはない。
ほんの少しの異端すら許さない世界はひどく狭い。ヒトを単一の物差しで測ろうとする社会は
とても息苦しい。ようやく折り合いを付けて他人より少しだけ屈み、少しだけ下を見ることで犬飼冥はようやく世界を生きている。
けれど、きっと。
恐らくはあいつはそれが許せないのだ。胸を張り背筋を伸ばし、決して揺るがない眼差しでもって世界を睥睨し、例え手足を折られようと息を止められようと、そうして生きることが出来ないのなら意味のないことだと知っているのだ。
不器用なことだ、と思う。それは酷く傷を負う生き方だからだ。
ようやくのことで息の継ぎ方を覚えた犬飼にしてみれば、それは酷く正視に絶えず、またとても羨ましく思える生き方だったが。
足元の小石を蹴る。アスファルトを軽い音を立てて転げてゆくそれは、やがて道端に転がりついたまま動かなくなった。夕日を反射する断面は粗く、けれども美しく、確かに太陽光に染まっている。
遠くに聞こえる鴉の鳴き声と時報のサイレン。日々繰り返されるそれは、単調でありながらひとつとして同じものなどないと気付いたのは何時頃だろうか。
今の、犬飼を一個人として支えているのは、間違いなく辰羅川だ。
肉親などと同等に近しい程に、側近くにありながら、他人でしかない存在。
そういった存在があるのだ、と知らしめる役割を果たした辰羅川という人間のお陰で、犬飼はようやく世界での息の継ぎ方を覚えたのだから。辰羅川が掛ける声。それに己が返す言葉。そうしてヒトは生きられるのだと教えたのは確かに彼なのだ。
けれど、多分、それ以上にはなりえないのだろうな、と漠然とした理解もあった。
あまりにこの身に、この犬飼冥という人格に深く組み込まれた彼という存在は、彼という一個だけで存在しておりそこに名前を付けるのは難しい。敢えて言うなら友情に近しい、けれど肉親に対するような情や全くの他人に対するような警戒をも内包する。だから犬飼は、彼を表現する言葉を捜すことを既に諦めた。それは、辰羅川という存在自体を理解することを諦めたことにも相当するのだが。
己を変えるのは多分、彼では在り得ない。
変えると、したら。
そこで浮かんだ一人の名前と顔とその眼差しに、犬飼はふと唇を歪める。
ああ、そうだとも。とっくに気付いている。
その眼差しを綺麗だと思った瞬間から、まるで焦がれるようにあいつのことを考えている自分がいる。
だから野球をしていないと駄目なのだ。余計なことばかりを考える。必要ないと切り捨てたものばかりを探そうとしてしまう。
綺麗だと思ったのがその眼差しだけではないのだと、そんな事まで。
「とりあえず…」
乾いた唇を親指で拭う。かさついたそれと無骨な指先。どちらも己の持ち物で、それとは違うあいつのものを期待している心の片隅。
感情に名前を付けるのは苦手だった。
ならば結果を見てから、それが何に見えるのか考えてみれば良いと思う。
「俺を変えるのなら、オマエだな」
変えられたのなら、変えてやればいい。その不変の世界を視る斜めの瞳に、この混沌と曖昧は許されるのだと教えてやればいい。
二人して真っ直ぐに世界を見て背筋を伸ばして歩くのも、悪くはないと教えてやればいい。
息を吸い込む。息苦しさはない。あとは言葉にするだけだ。
「待ってやがれ、猿」
吊り上げた唇が笑みを刻むのを、犬飼はどこか楽しい気持ちでするに任せていた。
猿野サイドに対する犬飼サイドなお話。
この話の犬飼さんは基本的に『強気』。だって強気な犬飼ってリクだったからな…(笑)
でも猿のがずっと強気で女王様だったというオチが泣かせるトカ泣かせないトカ。
そんでここからディジィノイズに続くわけでして…
2002.10.06. Erika Kuga