未だ見ぬ世界





 世界は、得てして冷ややかだ。
 ヒトの意思を無視して偶然と必然を繰り返しながら、時間を刻むものだ。
 世界というデータベースの中、この、今生きて喋って泣いて笑う存在はどこまで。
 どこまで、容量を持つものだろうか?



 ここにいる意味を、常に考えながらヒトは生きてなんかいられやしない。
 何故ならヒトは曖昧な矛盾を抱えて生きるモノだからだ。ヒトであることから乖離することが不可能なのだから、物理世界に位置している以上精神に縋って生きるヒトは不条理な存在であり続けるのだろう。
 左手がばらばらと特に理由もなく開いていた国語辞典を弄ぶ。右手にはシャープペンシル。こないだ買い換えたばかりの替え芯は同じHBなのに前のよりも少し固くて、書き辛く感じる。同一メーカーのものではないから、このメーカーの規格は前のものよりも少し固いのかもしれない。どっちにしろ書きづらいことには変わりはないが。
 人気の薄い図書館に、西日がゆっくりと差して来る。
 木製の古い棚の上に茜色混じりの金の光が刷くように広がった。じりじりと焼け付くような熱。けれどこれから薄くなるばかりの、断末魔の悲鳴にも似た熱。
 今はまだ赤が薄い西の空をカーテンのふわふわとした白混じりに見つめながら、猿野は広げたレポート用紙をぐしゃりと丸めた。
 テスト期間中には部活がない。それは当然至極の出来事ではあったが、ようやく部活がある生活に慣れた身としては少々違和感を覚える。
 古いインクと紙の匂いが染み付いたこの場所は、十二支高校の中ではかなりのお気に入りだ。
 テスト前と新刊入荷日から数日以外は、ここが混みあうようなことはない。3年生が受験シーズンに突入すれば話はまた別かも知れないが、いま現在は閑散としたものだ。
 先ほどから遅々として進まないテスト勉強。進める気がないのだから当たり前かも知れない。
 面倒なことは、嫌いだ。嫌いだが、やらねばもっと面倒なことになるのもまた理解していた。こんなもの他者にとやかく言われぬ程度にそつなくこなせば良いのだ。それによって己の今の位置付けが変わるわけでも、己を取り囲む世界の方が変わってくれるわけでもない。
 単なる成績、という一定の指針を満たす為の監査に過ぎない。それ以上でもそれ以下でもないから、そこに自分を構成する素子が一欠けらも介在する余地はありはしない。
 意味がないのではない、意味を求める必要がないのだ。
 けれども大概の人間はそれを理解しない。
 他者より優れた頭脳を欲し、他者より優れた体躯を欲し、他者より優れた地位を求めて、他者より優位となる名誉を渇望する。
 その我欲はきっと、罪悪ではないのだろう。その抗いはヒトとして正しい存在の在り方であるはず、だから。
 オカシイのは他人ではない、俺だ。
 うっすらと猿野は嘲笑う。
 僅かに持ち上げた唇が鋭角を刻み、普段の猿野からは見えない、斜視の中の影を描き出しているように。
 ばらばらとめくっていた辞書の最後のページが指から離れて、ぱたりと閉じる。古びた濃い藍色の背表紙が、この黄昏色の空間の中で奇妙に鮮やかだった。
 英単語の欠片と古文の一節が脳裏を過ぎった。他者には考えつかないくらい理路整然と脳内に詰められた情報は、一定のキィ・ワードさえ与えればすらすらと記憶から紐解かれる。猿野にとってのテスト勉強とは、この脳内収納をどれだけ無駄なく詰め込み付箋を付けられるか、ただそれだけのものでしかない。
 必要な情報は既に固定図形としてそこにある。後は整形してパズルの如く空いた個所に嵌め込む、無機的で楽しくない作業でしかなく。
 故に全くやる気は起こらない。ばらばらとページを無意味に捲る手にもページを見遣る瞳にも意志のようなものは欠片も存在しているようには見えないだろう。実際ないのだから。
 家に、帰る気にはなれなかった。あそこはただ居ることを許されている場所でしかない。居場所としては悪くもないが良くもない、ただ寝るだけの場所でしかない。
 それはこれまでずっと続いてきたことだったし、これからも変わることはないだろう事実だ。
 そう、変わったとすれば己の周囲の世界だろう。これまでとはまったく異なる世界は、意外に猿野に優しかった。
 想うだけで心が暖かくなること。
 眠る寸前のような高揚感を脳裏のどこかに感じながら、猿野はひとりの少女を思い出す。
 優しい凪。平等な凪。自分が持ち得ない全てを持ち、強く優しい笑顔を向ける鳥居凪。
 猿野天国が最も大切に想う、女性の名。
 けれどそれは…愛、とは。違うのではないかと思う。
 そこに求めているのは精神的な充足でも共通する意識の確認でも、ましてや同一化願望などでもない。
 違うから、だ。
 全く違ったものだからこそ、まるで焦がれるように目が離せない。
 いずれ分相応なことを思い知るにしても、現在進行形で猿野天国は鳥居凪に恋をしている。
 一方通行の恋。一方通行であることを望む恋。
 叶うことを…拒否した、恋。
 多分に凪がこちらに好意を寄せる、などという万が一にもないことが起こったとしても、己は手ひどく凪を振るだろう。まるで見てきたように鮮やかにその光景は脳裏に浮かぶ。
 必要ない。己などに染まってしまった彼女に興味はもう、湧かない。焦がれるような想いは抱かない。
 勝手なことを言っているという自覚はある。けれども、それは変えようのない猿野という人間の真実でしかないのだ。
 鳥居凪という少女に恋をしている。
 彼女の望みを叶えてあげたいと願うし、彼女の笑顔が見たいと願う。けれど彼女に猿野が望むものは実のところ何もありはしない。彼女は彼女としてそこに在ればいいと思う。彼女という存在の意味は、猿野にとって重大で確固たるものだが、無味無臭だ。
 きっと猿野が猿野である以上、誰にも己の主導権を渡す事はないだろう。己の世界の主権は、己だけが持てばいい。
 それ以上でも、それ以下でもありはしないというのに。
「…何でテメエは踏み込んで来やがるんだ」
 語尾に付属したのは純粋とは程遠い複雑な怒りで、声は低く地を這うが如く夕暮れの静かな図書室に響いた。
 握り締めたままのシャープペンシルが軋んで少し嫌な音を立てるのを、他人事のように聞きながら猿野は彼を思い出す。嫌いな奴。怒りと不快の感情と等符号で結ばれる存在。何もかもが違うのならいっそ清清しかろうに、唐突に相似を突きつける男。
 視線を向けたままの窓辺で、蜜柑のような色合いに染まったカーテンが揺れる。じりじりと熱に焼かれる木製の本棚の上の影は次第に濃く伸びて、時計の針はかちかちと進む。
 やがて訪れる夜。絶対的な闇。
 抗おうと拒否しようと、不変の情景は繰り返す。猿野の世界が猿野の主点で構成されるように、それは世界の絶対法則。
 それでも、アイツは受け入れているようなふりをしてそれが覆される瞬間を虎視眈々と狙っているのだろう。
 …例えば、この胸の痛むほどの怒りのように?
 違うところなど、いくらでも見つかるだろう。
 そしてそれと同じくらい同じところも見つけられるのだろう。
 この事実こそが、猿野天国の不愉快でありアイツへの拒否感情だ。
 がり、と爪を噛む。僅かに舌の上に滲む血の味は酷く不味くて、思わず眉根を寄せて唇を拭った。要因は野球の練習だけでなくぼろぼろになった爪をぼんやりと見据えて、爪先にじわりとにじむ血の赤を見る。
 大した傷じゃない。痛みもさほどない。自傷行為にしてはお粗末に過ぎるこれは、単なる偶然。
 何も、何も自分に干渉するものでは、ない。
 こんなことでは何も揺るぎはしない。沢松とその他大勢と気に入った一部の人間と自分。ただそれだけで構成された猿野の世界は微塵も揺るがない。
 下校を促すチャイムの空疎な音と、沈む寸前の不気味なくらいに赫い夕日を虚ろな眼差しで見つめながら、猿野は握ったままだったシャープペンシルがからからとテーブルに転がる音を聞いていた。
 



恐らくスタイリッシュ猿野カップリング未満。
なんだかとても殺伐モードですが…極端に走るとこうなります。
これは猿サイドですがコレに対しての犬サイドもあります。長くなりそーなので一緒にはしなかったけど。
だから多分次はコレの犬サイドになるかなー、表の更新は…
2002.08.23. Erika Kuga