unknown





 誰でもないもの。
 そうやって自分を定義してしまえば、いっそ楽になれるかも知れないと思う。
 逃げと嘲笑う者達もいるだろう。
 笑いたい奴は勝手に笑えば良い。
 そうしなければ精神も心も何もかもをズタズタに引き裂かれる存在のことなど理解できないのなら、理解など必要としてはいない。
 けれど、だけれども。
 それでもきっとここにいるのは、「誰でもないもの」ではない自分自身を、肯定する者を信じたいからなのかも、知れない。



「…司馬ぁ」
 背後に居る彼を、振り返るでなく椅子の背もたれに体重をかけて見遣れば上下さかさまの青い髪の少年が目に映る。
 放課後の、静かに過ぎる教室の中では普段は気にならない彼のMDの音も微かに漏れて、リズミカルな調子を空気に響かせていた。
 冬の、早すぎる日暮れの闇が混じった茜色が、床に机に壁に、ありとあらゆるものに窓ガラスの粗末なフィルタを通して色を乗せてゆく。その反射光を受けて琥珀に輝く瞳が真っ直ぐに己を見据えてくるのを、司馬はサングラス越しに逆に見つめ返す。
 言葉、というものが、二人にとって意味がある事は少なかった。
 二人きりの空間においては、むしろ皆無と言っていいと思う。
 猿野は、ただ名前を呼ぶ。司馬はそれに視線を返す。
 わずかに唇に乗せる微笑みや、寄せる眉や、触れる指先の温もり、真っ直ぐに相手に向ける視線。
 それらすべて言葉よりも雄弁に気持ちを語り、感情の発露の先となる。
 だからこうして過ごす事は互いにとって苦痛とは程遠く、むしろ苦しいばかりの日常という世界の中で心地よい大気を感じられる数少ない場所となっていた。
 グラウンドには、昨夜の雪。
 やや溶けかけたそれが沈み行く夕日を反射して、二人の横顔を照らし出す。ぱたん、と手にしていたハードカバーの本に栞を挟んで閉じ、猿野は小さく笑ってそれを出しっぱなしの鞄に放り込む。
「帰るか?」
 こくり、と頷く司馬の唇に僅かに浮かんだ微笑に、晴れやかな笑顔で返し、猿野は傍らに放り出してあった鞄とマフラーを手に取った。
 12月に入って厳しくなった朝晩の冷え込みは、コートひとつで耐え切るにはいささか厳しい。チャコールグレイのダッフルコートの首元に淡いベージュとブラウンの毛糸がまだらになった不可思議な色合いのマフラーを巻き付け、鞄を肩から斜めに引っ掛ける。窓の鍵を確認し終わる頃には、シルバーグレイのロングコートを着た司馬がこちらも鞄を手に教室の入り口で猿野を手招きしていた。
 二人、一言も口を利くことなく昇降口を出、校門を通り過ぎる。
 その頃にはとっくに日も傾いていて、そろそろ赤の強いオレンジというよりは闇の色が勝った空になっている。西の空は紫のグラデーションを描いて、中空にはぽっかりと浮かぶ淡い白い月。
 影は酷く薄く長く伸びて、ちらほらと点き始めた街灯が僅かな光をアスファルトに落とす。
 冬の日暮れはとても早くて、あっという間に街は闇へと落ちてゆく。その様はまるで早送りのビデオテープのようで、猿野は小さく溜息を落とした。
「…寒い、のとかさ」
 ぽつり、と呟いた言葉を、 けれど司馬が聞き逃すことがないことを、知っている。
 言葉を、躊躇うほどに透明な眼差しで世界を見ている存在だけれども、それゆえに此方のほんの少しの傷も痛みも見落としはしないだろう事も。
 世界は、酷く生き難い。
 本当のことを躊躇い無く口にすることも、嘘を重ねて生きるのも酷く苦しい。
 そして、苦しいことを知るが故に、二人は同じものを見て同じ道を辿る共同体と言えた。
「そういうの…たぶん嫌いじゃない」
 ぼうっと空を、暗くなってゆくばかりの空を見上げ、ざくりと道端に残っていた雪を踏む。
 傍ら、よりも半歩後ろを歩く司馬のわずかばかり高い目線に何が見えているのか、少し興味が湧いたが直ぐに立ち消えた。意味はない。多分そんなものに意味など求めてはいけない。
 この関係が、心地よいままであるためには、互いに興味など持つべきでない。
「暖かいのも寒いのも、相対的な価値観でしかないのなら。
たぶんそれを嫌う理由が俺にないんだ」
 わかるか?、と問うた猿野の眼差しを、サングラス越しに見据えた司馬がこくりとひとつ頷いた。
 理由がない、ということ。
 それはヒトの感情の発露として、多分正しくない。
 多分。おそらく。推察するに。
 すべて、すべて想像の範囲内でしかありはしない。 どこまでもそれは正確なものではありはせず、形も正解もなにもないまま、心というあやふやな選定を受けるのみで。
 それこそが、二人にとっては常に苦痛でしかないのに。
 今尚、現実はここに横たわったままだ。
「…なァ、司馬」
 宵闇を映し込んだ昏いグレイッシュブラウンの瞳が、静かに世界を睥睨する。
 はぁ、と吐いた息は白く、空気は澄んで星が綺麗に空に張り付いていた。
 ゆったりと両の腕を広げ、猿野は掛値為しに純粋で綺麗な微笑みを浮かべ、司馬を振り返る。
「それでも、それでも俺は『ここ』が心地よいと思うよ。
俺は、あいつらが好きだよ。
…でもな、おまえの側に安堵するのも、事実なんだ」
 生温い関係にしかならないと、出会う時からわかっていた。
 あんまり欠けてしまったから、補い合ってしまったらもうふたりではいられないくらい。
 それくらいに、足りない二人だったから、尚更に。
「…諦めなくても、いいよな、司馬?
俺もおまえも、まだ諦めたりしなくても、いいよな?」
 泣き出しそうなその頬を、司馬のほんの少し荒れた指先が拭う。それが吹き付ける木枯らし故のものなのか、溢れてしまった感情によるものなのかはこの際どうでもいいことだ。
 司馬は、ほんの少し躊躇うように唇を開閉して、やがて意を決したようにぽそりと言葉を零した。
「猿野が泣くのは…嫌だ」
「…司馬?」
 結局自分たちは人間だから、言葉を使わないと伝わらないものがあることくらいはわかっている。けれど、それでも言葉を使うことで壊れてしまうものが自分は怖いと司馬は思う。猿野は、言葉に真実を乗せることを怖いと思うと言った。
 言葉、という。日常使う事があたりまえのものに壊れるものがあることを、知ってしまった故のそれは弊害とも言えるのかも知れなかった。
 けれどそれでも、惜しむことではないから。
「僕は…猿野が泣くのは嫌、だから。猿野が笑うなら、いい」
「司馬…」
 冷えた頬に触れる指先は温かくて、それはそのまま司馬の側のような感触を覚える。
 いつかきっと、二人は互いを必要としなくなるだろう。
 そうして潔癖すぎる少年期を乗り切るために互いを必要としている事実を、今だけは猿野は過ちだとは感じなかった。
 からからと道路の上を転がる空き缶の乾いた甲高い音を聞きながら、その温もりを忘れまいと猿野はそっと目を閉じた。


 誰でもないもの。
 そうやって自分を定義してしまえば、いっそ楽になれるかも知れないと思う。

 けれど、ここに居るのはやはり自分でしかないから。
 存在を消し去ることはできっこないのだから。
 せめて、ここに居る事を、諦めたりだけはしたくは、なかったんだ。



…どういう話…?
ええと、司馬君と猿野の話です。「×」じゃありません「+」です。
この二人は、玖珂さん的にには決してカップリングになってくれない二人組です。
文中にも書いた通り、「足りてない人間がふたり」だからかも。
ああ、しかし長かった…書いても書いてもおわらんかと思った…
2002.12.18. Erika Kuga