いつもいつでも癒すのはアナタ。
だから、数多の分かれ道を迷うことなく、僕はいつでもここに在れるのです。
目の前にあるものが信じられなくて、思わず子津は目を瞬いた。
僅かに茶がかった癖のある固めの髪。好き放題に跳ねたそれと白いYシャツ。
触れた体温は子供みたいに高くて、少し日向の匂いがする。
予想外に静かな寝息に途端に心臓は跳ね上がり、思わず叫びそうになって慌てて口元を押さえた。
「さ…猿野、君…?」
無論返事の返るはずのない問いかけは、むしろ己に対する言い聞かせに近い。
慌てて、それでも猿野を起こさないように慎重に身体を起こしてみて、どうやら己が寝ていたのが保健室のベッドらしいことを悟る。
猿野はその傍ら、パイプ椅子に腰掛けたままベッドに倒れこむようにして眠っていた
こめかみ辺りがずきずきと痛むことに気付いて、子津はようやく寝ていた理由を思い出した。
「そう…だった…、確か、紅白試合でホームに突っ込んで…」
実戦形式の紅白試合、追加点が欲しい場面でのこと。無茶だという認識はなかった、いけると思ったからこその行動だった。
かなりな勢いでホームに滑り込み、ホームベースに触れたところまでは、覚えているのだけれど。
どうやらキャッチャーと激しく激突して気を失ったらしい。あとの記憶は完全に飛んでいる。
「…試合、どうなったんだろう…?」
ぼんやりと視線を向けた外は既に夕暮れを通り越して宵闇に近い。
無論のこと部活は終っているのだろうし、そうでなくては猿野がここで寝ているわけがないのだが。
「…子津チュー?」
「へ…あ、猿野君!?」
何時の間にやら目を覚ましていた猿野が、目を擦りながら身を起こしている最中だった。
ふわあ、と小さく伸びをして、相変わらずのどこか悪戯っぽい笑顔で満面の笑みをこちらに向けてくる。
「おお、目ェ覚めたな、よかったよかった。
子津チュー辰っつんと激突して保健室送りになったのな。覚えてるか?」
こきこきと肩を回し、ベッドの下に放り込んでいた鞄を引きずり出し肩にかけながらの問いかけに、子津は慌てて答える。
「ぶ…ぶつかったとこまでなら、なんとなく」
「おお、んじゃ大丈夫かな?どっか痛いとことか変なとことかないか?」
「ちょっと…頭痛がするくらいで、特にはないっすけど…」
言われてみれば多少腕とか足とかに擦過傷があったが、この程度は日常茶飯事なので特に問題ではないだろう。
「じゃあ、帰るか」
猿野が投げて寄越した自分の鞄に目を見開いて、子津は猿野の笑顔を凝視した。
わざわざ持ってきてくれたということと、今まで待っていてくれたのだということに言葉が詰まる。
何か言おうと開いた口は結局何も言葉を紡ぐことなく、収まりの悪そうに閉じられる。
その笑顔に偽りも何もなかったから、詫びる、ということすらできなくなる。
「よかったよなあ、キャッチャー辰っつんで。アレが三象先輩だったらこの程度じゃすまねえぞ、きっと」
けらけらと笑いながら預かったらしい保健室の鍵をちゃらちゃらと鳴らして猿野は勢いよく引き戸を開ける。
少し軋んだ教室のそれより幾分静かにがらりと開いた扉の向こうは、窓から差し込む夕日も幾分落ち着いて静かな闇を広げていた。
「ほれ、早く出ろよ子津チュー、閉じ込められてえんなら話は別だけどよ」
「で、出るっす!出ます今すぐにっ」
ばたばたと鞄を手に保健室を出ると、生徒昇降口までの廊下を二人で歩く。
相変わらず猿野の話はマシンガントークで、合間に頷いたり驚いたり怒ったりと子津も忙しい。
忙しいから、何も考えなくてもいい。
それはとてもとても楽なことで、彼の隣を居心地良く感じるのはその所為かも知れない。
いつも、いつでも一生懸命で。
たくさんのことをその手にできなくても、わずかながら彼が手にしたものが輝いて見えるのも。
「…少し…羨ましいかも、知れないっすね…」
呟いた言葉は、けれど猿野には聞こえなかったようで怪訝な顔で聞き返されなんでもないと首を振る。
こんな、感情など猿野は知らなくてもいいのだ。
彼はただ前だけ見て進んでくれればそれでいいんだ。時折、振り返ってくれる。ただそれだけで。
「子津?ホント今日はオカシイぞ?どした?」
「なんでも…なんでもないっすよ、本当に。
強いて言うなら、ホラ、猿野君が残っててくれたのが、ちょっと嬉しくて」
「はぁ?何言ってんだよオマエ」
呆れたように言う猿野の言葉に、つきんと胸の奥が少し痛んだ。
けれどぎゅっと歯を噛み締めた子津の耳に届いたのは、意外な一言で。
「俺がオマエと帰りたいって思って待ってたのを、オマエがそんな風に思うことねえんだぞ」
わかったか、と覗き込んだ猿野の、髪の毛と同じ少し茶がかかった瞳が無邪気に笑う。
ああ、そんな顔で笑うから。
それ以上何も言えなくなる。
泣きたいような笑いたいような、なんだかぐちゃぐちゃな感情が闇に紛れて判別ができないであろうことを感謝する。
そうして先を歩く猿野の背中を追いながら、子津は零れそうな涙を必死で押し止めた。
「…全く、たいがい私も人がいい」
子津との接触で負ったと思しき頬のばんそうこうも痛々しく、辰羅川は小さく溜息を落とした。
現在地は屋上。眼下には、昨日よりやけに親しくなった猿野と子津。
あの接触で、担架で運ばれたのは子津だけではない、辰羅川もだ。
けれども子津より先に目覚めた辰羅川は、二人の傍らにいた猿野にぎょっとして、次いで溜息を落とした。『猿野君…おどかさないで下さいよ』
『そりゃシツレーだろ、モミちゃん…
俺は起きて誰も説明する奴がいなかったら混乱するだろーとだな…あ、ホレ鞄』
『ああ、ありがとうございます。でもそういう意味ではなくてですね』
言いかけた辰羅川の視線は、未だ目を覚ましていない子津のベッドで止まる。
目立った外傷はないようで、ほっと胸を撫で下ろす。
『子津君も…大事ないんですね?』
『ん?ああ、軽い脳震盪だろうってさ。そのうち目を覚ますだろ』
そうして、子津を見る猿野の目が酷く優しいことに気付く。
いとおしむような慈しむようなその眼差しは、時折子津が猿野に向けるそれと酷似していた。
そうとわかれば、話は早い。
『…猿野君、私先に帰りますから、子津君のことをよろしくお願いしますね』
『え?ああ、そりゃいーけど…』
唐突な言葉に言いよどむ猿野を言い含めて保険医から借りた鍵を彼に押し付けて、辰羅川は子津が目を覚ます前になるべく早く下校したわけだ。
猿野に、己も運ばれたことは絶対に伏せるように言い聞かせて。「まあ…子津君も猿野君も、私は好きですからね。幸せになってくれればいいんですが」
何故かピンクのナース服の幻像が浮かんで、辰羅川は眼鏡を押し上げる。
くすり、と漏らした微笑みには、ほんの少しだけ揶揄するような色を含んでいた。
辰っつんキューピッド?いいえそれは奥様戦隊。
というわけで陸海サマのリク、「辰が出てくる猿子(子猿?)」です。
どっこが猿子?とは言っていいトカいけないトカ(切腹)
子津っちゅは書いてると癒されますね…いや、ホントに…
犬猿で悲劇は描けるけど子津っちゅ絡みでハッピーエンド以外はとてもできませぬ…
ね、子津っちゅが可愛くて…可愛くてぇ…!
さーこれで残りリクあと2つ!頑張って書くぞー!
2002.07.06. Erika Kuga