透明に、けれど実体を伴わず。
瞳に映るそれはあまりに鮮烈。
その身に感じる圧力も、纏わりつくような無形の息苦しさも。
酷く、似ている。
「…痛っ…」
この、想いは。
酷く、その光景に似ている。
土の匂い、太陽の匂い。およそ考えられる輝かしいもの全てを背負ったように思えるのは、錯覚だろうかと考える。
砂埃に塗れたユニフォームを軽く叩くと、暮れはじめた茜色の光景に白くぼやけて、犬飼は思わず眉を僅かに吊り上げた。
思わずぐっと詰めた息が僅かに苦しい。埃っぽい土の匂いはこのグラウンドの何処にいても消えることはなく、雨でも降れば水の匂いと相まって酷く息苦しい。
例え夜の内に静けさの中に消え去っても、また翌日太陽の時間になれば再び土の匂いが立ち込める。
無論、それが嫌いなわけではない。
グラウンドは、中学校時代から慣れ親しんでいる。その土の匂いはとても心を落ち着けることとは反対に、何時の頃からか犬飼の心を乱し不安を掻き立てる。
落ち着かないのとはまた異なる、本能的な惧れを含んだ感覚。
特に世界を切り替えるようなこの夕暮れ時は顕著にそれを思う。
小さく息を吐き出す。現実の息苦しさはそれで和らいだが、頭の片隅で警告するような苦しさは決して消えることは無い。
良く使い込まれたグローブの革の匂い。
訪れかけた夜の、少し冷えた空気の匂い。
それらの微妙な色合いが、酷く不可思議に世界を塗り替える様は少し不安になる。
曖昧な時間に対する、それはせめてもの抵抗にも似ていた。
置きっ放しの自分のグローブを少し身を屈めて拾い、白く塗したような土を払う。手のひらに移っただけのそれを無感動にユニフォームの端で拭うと、グラウンドに視線を巡らせた。
部活後の片付けも終了し、皆ぱらぱらと部室に戻り始めている。
けれども犬飼は額を流れる汗を拭うと、暗くなり始めたグラウンドで一人白球を握り締めコンクリートの塀に向けて放った。
それは鈍い音と共に塀にぶつかり、同じだけの勢いで跳ね返ってグラウンドの土を弾く。
バウンドしながら戻ってくるそれを難なく受け、再びそれを塀へと投げる。繰り返し繰り返しそうすることの意味と無意味を、ふと考えたのは何故だろうか。
「犬飼君?戻らないんですか?」
用具当番だったと思しき辰羅川の声に、少しその連続動作を止め振り返る。
「…何だ、辰」
「何だ、じゃないでしょう。
…今日も自主練ですか?」
言外にオーバーワークを責めるような辰羅川の言葉に、けれども犬飼は少し眉根を寄せただけで返答も返さずに再び白球を塀へと放る。
今までに無く強く投げ込まれたその球はいい音を響かせて塀に当たり、バウンド数も少なくこちらに戻ってくる。
日も暮れ始めたグラウンドにその白球は映えて、辰羅川は小さく溜息を落とした。
「…止めはしませんけれども、無理は禁物ですよ?」
その言葉にも返答はない。
ただ淡々と投げ込まれる白球の壁に激突する音だけが静けさを落とし始めたグラウンドに響く。
今度こそ辰羅川は肩を竦めてその場を去り、犬飼はそれを視線の端に止めたけれども何も言わずまた何もすることはなかった。
振り払う、その為の行為だと。
それこそ認めたくないから続けているのに、どうして。
土の匂いも太陽の匂いも、夜の静かな冷たい匂いさえも、あの日の水底にいるかのような激しい雨の匂いを消せない。
耳を付いて離れない雷の音と、纏わりつくような雨の音。
記憶と想いの双方にへばりついて離れないその色を、消し去れたらどんなにか良かったかと思う。
「…くそっ」
手にした白球を握り締め、力任せに投げつける。
けれども余計な力ばかりが入ったそれは目標を大きく反れ、グラウンド脇の金網へと当たって耳障りな音を立てる。
その様に思わず力んだ肩を落として、犬飼は大きく息を吐き出した。
無論、それで楽になるのは現実の呼吸だけで、あの日から水の中に閉じ込められたような心の中は決して晴れはしないのだけれど。
諦めたように首を振り、球を拾う為に足を向けようとした犬飼の背に、聞き覚えのある声がかけられる。
「なんだよ、犬っコロ…やけに練習熱心じゃねえか」
振り返ると、そこにはバットを担いだ猿野が立っていた。
ユニフォームは己と同じように泥だらけで、良く見ればその頬や額にも細かな傷と泥が見て取れる。
初心者故の必死さで、彼がこの十二支高校野球部にしがみ付いてきている事実の証だ。
耳に響く、鼻をつくあの日の雨の幻惑が強くなったような錯覚に、犬飼はぶっきらぼうに視線を反らす。
「猿には関係ないだろ」
「何!?犬の癖に人間様に盾突こうってのか生意気な!」
大方予想した通りの食い付きに、心のどこかがざわりと蠢く。その事実を打ち払うように唇をわざと皮肉げに歪め、少し低い相手を見下ろすように鼻で笑って見せる。
「半人前以下の類人猿が何を抜かす。とりあえず人間になってからその台詞は言え」
「ぐああムカツク!どのくらいかってーと最後一話を残して打ち切りを食らった連続ドラマのように!」
「…やけに具体的じゃねえか」
「具体例だからに決まってんだろ…って、そんなこと言いに来たんじゃねえんだよ」
はっとしたように怒りとハイテンポな会話に紅潮した頬を叩くと、覗き込むように無遠慮にこちらを見上げながら猿野は詰め寄る。
「オマエ、なんでそんな無茶してんの?辰っつんが心配してたぜ?」
「…別に、無茶をしているつもりはない」
息苦しい。
幻惑の中の水が迫ってくるように、喉が渇いて息が詰まる。
思わず無意識に寄せた眉に猿野もまた眉を顰め、担いでいたバットの先端をこちらに突きつけてくる。
まるで決闘を宣言するように真剣な顔で、猿野はやけに彼にしては静かな声で宣言した。
「じゃあ、俺とひと勝負しようじゃねえか?
一球勝負で俺が打てたら勝ち、空振りさせればおまえの勝ち。
シロートの俺に打たれたら、無茶ってことになるだろ?」
「…俺の利益はどこにあるんだよ、猿」
低く呟いた訴えは、無言のままに却下された。勝手に人をマウンドに押し上げ己はバッターボックスに立ち、挑発するようににやりと笑う。
「さー来やがれ犬!猿野様が天才だってことを証明してやらあ!」
「…とりあえず、その口上二度と吐けないようにしてやる」
じわり、と何かが滲む。
じわじわと己を侵食していく何か。その正体も掴めないまま、息苦しさは強くなるばかり。
殺気さえ込めてバッターボックスを睨みつけても、猿野は無駄に余裕めいて笑うだけ。
絶対に打たせるものか、と全身全霊を込めて白球を投げ込む。
バットが空を切る風の音が鳴る。相変わらず鋭く力強いスイングだったが、僅かにボールには足りずあえなく猿野のバットは空を泳いだ。
塀にボールが当たる鈍い音に思わず唇を舐める。
何もかも吐き出すような深い吐息の後、さぞ悔しがっているだろう猿野に向けた視線は、けれど犬飼の想像を裏切った。
「ちぇー…やっぱ、まだ打てねえか」
悔しがるでもなく、怒り出すでもなく。
ただ淡々とこちらを賞賛するその眼差しに、犬飼は酷く戸惑う。
感情がくるくると入れ替わる茶色の瞳は今は酷く静かで、とっぷりと暮れた紫暗の色と同じ沈黙を持ち合わせている。
バットをグラウンドに落とし転がるに任せた白球を拾うと、小走りにマウンドに立ち尽くす犬飼の側に寄り、そのグローブにそれを落とす。
「ま、あんまし無理すんなよ…肩壊したら何にもなんねえだろ」
俺が打てるようになるまで壁でいてくれなきゃ困る、と擽ったそうに笑うその様にようやく消えた息苦しさが途端に押し寄せる。
再びバッターボックスに転がしたバットを拾うと、無言のまま立ち尽くすしかできない犬飼に、猿野はなるべく早く切り上げろよ、と振り向き様に叫んだ。
返事も待たずに部室に駆け出したその背中を、追う事も視線を反らすことも出来ずに犬飼は立ち尽くしたままで。息が、苦しい。
噎せ返るような土と雨の匂いが消えない。
ぎゅっと苦しい位置のユニフォームの布を握り締め、ふとその場所に犬飼は苦笑を漏らした。
息が出来なくて胸が苦しいだなんて、貴方がいなくては呼吸もまともにできないだなんて。
それはまるで恋煩いのようで、己と猿野の間にはあまりの不似合いな響きに笑うしかなかった。
既に時間は夜。
ライトも落ちて暗闇に塗りつぶされてゆくグラウンドにただ立ち尽くす。
零れ落ちるような掠れた笑いの只中で、犬飼は埃に塗れた頬を流れ落ちたのは汗だと、必死で自分に言い聞かせていた。
とりあえず玖珂さん内犬飼いめぇじはこんな感じで。
基本的に奴はヘタレで。しかも素で(笑)
本能的に事態を捉えてる割にはヘタレてるという玖珂さん的には初のキャラクターですか…
でも猿を口説き落とせたら幸せになれるかとゆーとそーでもないというか。
大変だ犬。前途多難だな犬。でも苛めるけど。ヘタレだから(笑)
2002.04.30. Erika Kuga