空はこんなに青いのに
頭の回転の良さと成績は別っつってもさあ。
…これはねぇだろ?
猿野は溜息を落とした。
そうでもしないと眼前の状況を受け入れることが至極困難に覚えたからだ。
果てしなく赤いバッテンが飛び交う答案用紙。単にハネるだけでなくバッテンをくれた教師陣の幾人かも己と同種類の溜息を落としたに違いないと猿野は確信する。かろうじていくつかある丸が、震えているように見えるのも気のせいだろうか。
「…小野っちの数学はまあいいよ、あの不良教師の問題のレベルがアレなのは今に始まった話じゃねえし大目に見てやるよ、でもな…」
ふるふると己の拳が震えるのがわかる。
それを無理矢理解いて右手でこめかみを押さえ、猿野は目の前の駄犬に向けて叫んだ。
「オマエそれ以外の教科も全滅ってどーゆー事だよ!?部活が一段落したからって気ィ抜きすぎだろテメエ!易しいことで有名な川本の現国まで赤ってのはナメてんのかああ!!」
季節はすっかり秋。
あの死闘を尽くした夏も終わり、三年生はとっくに引退していて、日々の練習も夏の激しさから一転して基礎中心のものへと変わっている。
確かに、夏が終った事で皆大なり小なり心に隙間を持ってしまった。けれども、それもそろそろ埋まろうかという頃あいに見せられるにはこれはあまりに強烈過ぎる。
ばん、と答案が載った机に拳を叩き付ける。無論のこと痛いが、それ以上に今は頭の方が痛かった。
大体、何をどうやったらこんな点数が取れるのか。
赤点ギリギリどころか見事に下をいったこれらの答案を初めて見た瞬間、猿野は気が遠くなりそうになり、辰羅川は唇をひきつらせて眼鏡を押し上げ、子津は拙いものを見てしまったような不自然さで視線を反らし、兎丸は最初こそ笑っていたがそれが5枚目を数えた辺りから動きを止め、司馬もまたいつもより困惑を大きくして皆の顔を見渡した。
有り得ない。
普通有り得ない。
いくらなんでも全教科赤点だなんて、そんな恐ろしい。
「…犬飼君、君ってヒトは本当に…」
辰羅川がそっと目じりを拭う。まるで出来の悪い子供に対するようなそれに流石に居心地が悪くなったのかぷいとそっぽを向いて、犬飼は不貞腐れたようにぼそぼそと呟いた。
「しょうがねえだろ…取っちまったもんは」
「なにオマエその態度!?信じらんねえ!こんな…こんなもんがヒゲにバレたら…」
「そりゃあ部活停止だろ、無論のこと」
震える声で叫んでいた猿野の脇から、やけにあっさりとした声が響く。
「ヒ、ヒゲ監督…!?」
ぼりぼりと気だるそうに頭をかきながら、随分と冷え込むようになった所為か少々厚手のジャンパー姿で煙草をふかしながら至極あっさりと羊谷は告げる。
「犬飼、追試クリアしなかったら補習だからな、部活動どころじゃねえだろ」
まあ練習試合は入れてないから心配するな、と言いつつ、目が笑っていない。その事実にこそ一年レギュラー陣は恐怖を覚えた。
「…尤も、オレの心証はそりゃあすこぶる悪くなるがな」
ニヤリ、と笑ってすたすたと去っていってしまう羊谷。呆気に取られたままそれらを見送った皆だったが、ばたん、という部室のドアの閉まる音と共に正気を取り戻したのか、猿野は犬飼の襟首を掴むとゆさゆさと揺さぶった。
「こ…このアホ犬っ!!駄犬ーっっ!!!」
非常に認めたくないことだが、鹿目が引退した以上この十二支野球部のエースはこの男、犬飼だ。最近実力を上げてきた子津の存在もあるが、その他のピッチャーは…お世辞にもレベルが高いとは言えず。
羊谷の逆鱗に触れてしまえば、負けないギリギリのラインで出番を減らされることは目に見えているだろう。そうなった場合苦労するのは、当然他のレギュラー陣であり。
「どーすんだよどーすんだよっ!ヒゲはやるといったらやるぞ本気でっ!」
「そーだよ犬飼君これはマズイよっ!!」
猿野と兎丸の両名に左右から揺さぶられ、犬飼の身体はちょっと有り得ないくらいにがくがくと左右に動く。いい加減平衡感覚が崩れるか否かのギリギリのラインで司馬が兎丸の、子津が猿野の引き剥がしに成功し、犬飼は疲れたようにベンチに座り込む。
「…五月蝿い…とりあえず」
「五月蝿いじゃないでしょうがこの駄犬…もとい犬飼君」
唯一の味方というべき保護者な辰羅川にもばっさり切られ、少々傷ついているように見えるのは見間違いじゃないんだろうなあと子津はそっと視線を伏せた。
本気の辰羅川の毒舌は、非常に正確に弱点を突いてくる為に、冗談じゃなくイタい。
「大体、私は君が出来るというから恒例の課題を免除して差し上げたんですよ?ああ、こんなことなら最初から君の言葉など欠片も信用せずにさっさとアレをやらせておくんでした!」
アレ、と聞いた瞬間に犬飼の顔色が真っ青に染まる。
少しだけ興味を引かれた兎丸が何、と訪ねるとそれはそれは楽しそうな、けれど目だけは笑っていない顔で辰羅川が告げる。
「私謹製の厚みにして5cmの問題集です。ちなみに一教科につき、ですが」
…怖っ…!?
「…厚み5cmって…作る方が大変じゃないっすか…?」
もはや関わりになりたくないだろうについ問うてしまった子津は、次の辰羅川の言葉に天井を見上げることとなる。
「このヒトにわざわざつきっきりで教えるよりはそちらの方が遥かにイージーだからです」
犬飼って…?
皆の眼差しから犬飼への同情は欠片もなくなり、むしろ辰羅川の方に尊敬と共感の眼差しが向けられる。よくもまあこれほどのアホに付き合ってこられたものだ。
「…しかしこうなると、最後の手段しか残っていないのも事実です」
きらり、と辰羅川の眼鏡が輝いた。
それに呼応するように、制服の胸ポケットに落としてあったノンフレームの眼鏡を猿野がかける。
「追試まで一週間」
「何せ時間がねえ」
じり、と迫る二人からは、完全に表情が消えている。
本当の恐怖は意外と身近なところにあったんだね、と呟く兎丸の声も元気がなく、司馬の眉も泣きそうなくらい下がっている。
だん、と机の上に足を乗せて、猿野が見惚れるくらい綺麗で怖い微笑みを浮かべ、囁く。
「覚悟…しとけよ…?」
だらだらと犬飼の額を脂汗が伝って、答案の上に落ちる。
それで赤インキが滲むのを、周囲の皆は呆然と眺めている事しかできなかった。
「…Which is next it?」
固い、不機嫌そうな声で先を促す猿野の声に、どこをどうやったらそんな解法に辿り付くのか謎な解き方をされた辰羅川謹製の数学のプリントを差し出す犬飼。けれどもそれを一瞥しただけで、猿野は赤ペンで盛大なバッテンを描き正しい綺麗な式を空欄に書き込んで行く。明らかに使用する紙の面積が違う辺りが泣かせるなと、猿野は思った。
「This is not right although it has probably said from the point degree.
Multiplication should be bundled first and a formula should be applied...」
猿野が先ほどから口にするのは英語だけ。
生まれてこのかた日本から出たことがない猿野に英語に対して刷り込まれる時期があったとは考えにくく、すなわちこれは単なる嫌がらせ兼スパルタ勉強法。
理解したかったら辞書と格闘しつつヒアリングを磨くしかないわけで。
もはや初日からグロッキーな犬飼に向けて、にっこりと笑って一言告げる。
「Do you want me?」
流石にこれは犬飼にも理解できたらしく、顔色を変えてこちらを向く彼の顔に猿野は微笑みながら答案を叩きつけ、にっこりと笑う。
「Efforts are lacking.
...Please try hard to a slight degree」
問答無用の笑顔で最後通告にも似た言葉を告げる猿野に、犬飼は再びプリントと格闘すべく下を向く。
よもやここまでアホだと思ってはいなかった猿野も、認識を新たにせざるを得ない。野球を取ったら本気で顔しか残らない気がしていた。
残り20センチはあろうかというプリントの束に薄笑いを浮かべながら、猿野は辰羅川は偉大だったんだとしみじみと思った。明日は講師役を辰羅川と交代だ。その次の日曜日は一年有志による勉強会がほぼ確定しているわけで。持つべきものは友人だと確信する。。
次のテスト前には己の成績が多少下がろうとコイツをどうにかしようと心に誓い。
日付変更線まであと2時間。猿野は込み上げる欠伸をどうにかかみ殺した。
犬飼さん誕生日おめでとう…なハズ、だったんですが…
玖珂さん、犬飼さんはバカだと思ってます。本能と直感だけで生きてるようなヒトじゃないかと。
今回は猿野が手に入った所為でウカレて直感鈍ってたんでしょうか…?
気がついたらこんな話に。アレ?
まあ所詮玖珂の書く攻は受難が運命なので諦めてもらうしか。
ちなみに猿野の英語は間違いだらけかも、なので調べないで欲しいのですね…(苦笑)
2002.11.02. Erika Kuga