掲げ持ったのは、刃。
 刃渡りも長いそれの重さは、即ち切り伏せたものの重みでもあるのだろう。
 額に浮かぶ汗が、疲れゆえのそれなのか心理的抑圧ゆえの冷や汗なのか、己にもわからない。
 高揚と絶望、相反する感情が喰い合うように己を追い詰め、それを愉しめば良いのか、哀しむべきなのか。それすら己には判断がつきかねた。
 ただ分かっている事は、誰がどのような言葉で賞賛を送ろうと、己だけはこの行為が裏切りであり許されることは未来永劫決してない重罪だと知っている事だけだ。
 じゃり、と足元で砂礫が音を立てる。相応に重厚と威圧を持っていた筈の建物は既に跡形もなく、破壊の炎と狂気だけを残すのみで。
 鮮やかに過ぎる記憶すら飲み込むように、事態は一挙に破滅という名の収束を迎えようとしているようにさえ思えた。
 血の赤。炎の赤。
 広がる赤の光景の中、手にした血塗れの刃を投げ捨てる。
 やけに甲高い音を立てて、転がった剣の鈍い銀色が、壊れた天井から差し込む陽光を反射してきらりと光る。
 辺りに散らばったガラス片と混ざり合い、そこだけはかつての彼の居場所、いと高き玉座に匹敵するほどに美しく崇高でさえある。
 彼の墓標には相応しかろう。破壊と、虚無と、怜悧なまでの美しさ。
 何もかも彼とは相容れぬ故に、それを墓標とするのは己なりの皮肉であり、葬送でもある。
 一歩、また一歩と歩を進める。
 血の匂いが立ち込めるその場所を、汚さぬように精一杯の最後の忠誠心を込めて。
 そして、震える指先で以って壊れ物でも扱うようにそっと掲げ上げたのは、たった今己が刎ねたばかりの王の首。
 誰より何より愛しいヒトの、綺麗な死に顔の首。
 うっとりとそれを見据える。ようやく手に入れた事への安堵と愉悦の微笑みは、きっと何より醜いに違いない。
 頬に散った血の赤を指先で拭う。けれど、己の手さえ血塗れな状況では、更に汚すだけかと薄く苦笑する。
 日向の匂いのする彼の髪は、血に塗れてはいたけれどそれを損なう事はなかった。
 この閉じられた眼の奥の茶褐色の輝く瞳はもう誰も見ない。己の中に焼き付いた、記憶の中だけのものになる。
 それは即ち、永劫の喪失であり獲得に他ならない。
 愛しさと、同等の憎しみを込めて頬を撫でる。薄く刷かれた血の紅が、まるで死に化粧のようだ。
「…それでも」
 他の誰にも、理解されずともいい。
 薄っすらと、他の誰が見ても奇異に映るであろう微笑みを浮かべながら、己はそっと掲げ持った彼の唇に己のそれを重ねる。
「俺は…おまえが好きだった」
 これは儀式だ。全ての終わりと始まりを込めて。
「愛している」
 最初で最後に重ねた唇は、血の味がした。





SIGN






「という夢をみたんだが」
「…俺にそこに何のコメントを期待すんだよこの駄犬…」
 良く晴れた昼下がりの屋上という、これ以上ない爽やかかつ健康的な状況で聞かされるには、あまりに倒錯的で不健康な内容に、猿野は思わず頭を抱える。
 いや、メンズ雑誌のモデルばりに容姿だけは女どもが大挙して押し寄せるほどに良いが、こういう薄ら暗い男だという事はよおく知ってはいたが。
 にしても、そんな在る意味成人指定がかかりそうなヤバイ夢に、自分を出演させるとは何事かと思うのが通常の反応だろう。
 しかし当の本人は涼しい顔で手すりに長身をもたせかけて、パックのコーヒー牛乳を啜っている。
 理不尽だ。激しくこの対応は理不尽だ。
 対応の改善を要求する権利は、間違いなく己にあるはずだ。
「大体、なんでふぁんたじー?」
「俺に聞くな」
「じゃ誰に聞くんだよオマエの夢だろーが、犬」
 口の中に含んだ、沢松のポケットから強奪した事も忘れかけていたレモンキャンディが僅かな酸味と甘ったるさを広げる。
 状況は決して悪くないのに、どうしてこんなに不健全な話題を繰り広げねばならんのだ。
 頭痛のする頭を軽く振って、じっと猿野は犬飼を、その横顔を見つめた。
 顔のつくりは悪くない。頭は…多少は悪いし鈍いがそれとて許容範囲内だ。
 だが、それでも、この話題は反則だ。一歩どころか十歩は飛び越える反則技だろう。
 何せ自分たちはいまだ退く事も進む事も出来ずに、微妙な距離感のままに立ち尽くしたままだから。
「なんなんだよテメエ。欲求不満?」
「…ぶっころ」
 一番当り障りのなさそうな言葉を投げつけてみれば、軽く髪を引っ張られて抗議を受ける。理不尽なのはテメエの方だろうがと呟きながら、猿野は思わず空を見上げた。

 まったく、わかってない。
 どういうことかちっともこの駄犬は理解していない。

「…アホだろ、オマエ。意外と」
「…かもな」
 予想外の返答。まさか肯定の返事が返るとは思っていなかった猿野が思わず犬飼を振り返ると、問答無用な力で頭を引き寄せられる。
 その大きな手のひらにすっぽりと後頭部が収まる事に腹立たしさと、微量の動悸を含みながら、猿野は何故かそれに逆らわずにいた。

 くちづける。

 血の味はしない。直前まで犬飼が飲んでいたコーヒー牛乳の味と、猿野が舐めていたレモンキャンディの味が交じり合う、妙に生活感のあるキス。
 ちゃんと分かっていたのか、と感心したのが、半分。
 にしてもいきなりこういう暴挙に出る辺りはさすが野生の本能で生きてる男だ、と呆れたのが半分。
 けれどそのどちらでもない、微妙に沸き立つ何かが、頭の片隅でうめいている。
 始まったときと同様に、唐突に理不尽かつ突発的なキスは終わりを告げて、どこかしら呆然としながら猿野は呟いた。
「…俺、男とキスしたのなんか、初めてなんだけど」
「とりあえず、俺だってそうだ」
 憮然とした表情で、犬飼がぶっきらぼうに告げる。
 ファーストキスだったのに、とか言って激怒するのが予想だったとしたら、いくらなんでも夢を見過ぎだろう。
 キスなんて、感情が無ければただの皮膚接触だ。
 ものを食べるのと同じ場所を重ね合わせるから、より大きな心理的距離感の解消になるに過ぎない。
 キスに夢を見るのなんて、女の子相手だけで充分だ。大体こんなガタイの大きな男相手にロマンもへったくれもあるか。
「つーか、何?オマエ何したいわけ?」
 留まる事は簡単だった。
 退く事は出来ずとも、そこに留まり続ける事はわけなかった。
 其れを進むというのなら、相応の度胸と覚悟が必要だ。
「…夢を見て」
 ぽつり、と犬飼が零す。その言葉の意味を図りかねて眦を吊り上げた猿野の、襟元を引き寄せた。 そのまま犬飼は隠しようの無い無軌道な熱を孕んで、囁くように言葉を続ける。
「どうして、夢なんだと思った。
オマエの首がないのが。どうしてなんだと怒りさえ覚えた」
 首、というリアルな言葉が艶めかしい。
 唇をなぞる乾いた指先が、先ほどのキスのコーヒー牛乳味を思い出させて、思わず猿野はがりりと口中のレモンキャンディを噛み砕く。
 甘味と、僅かな酸味と。それ以外のなにかが苦味を乗せて。
「…もっかい言っとくけど、アホじゃねえの、オマエ」
 俺が誰だかわかっているのかと問うた声には、馬鹿にするなと瞬時に怒鳴り声が返る。
「首はいらねえ」
 ぎり、と更に襟元を掴む手の力が強くなる。ワイシャツが皺になるな、と、見当違いの事を考えながら猿野はぎらぎらと隠そうともしない欲情が透ける琥珀の瞳を見つめる。
 この眼は、とてもとても綺麗で。
「オマエが、欲しい」
 ああそうか、と返した言葉がぶっきらぼうに聞こえたならそう取るといい。こんな眼差しを向けられて何が出来る?
 ただただ青い空の下、再びくちづける俺たちの隙間を、気の抜けたチャイムが鳴り響いた。

 


2004/01のコミックシティ大阪でのお遊び企画だったペーパークラフトブックの原稿です。
しかしコイツはあくまで「折って切ってホチキスで止めて完成!」という脱力具合が最大の売りだったので現状ではあんまり意味がないような…
元ネタは「紅葉」という別サイトに乗っけたオリジナル短編から取りました。
アレも激しくホモだよな…今思えば。
2004.03.22. Erika Kuga