曖昧な影
往々にして、世界というのは曖昧だ。
雨が降るほど陰気ではないが、かといって晴天とも呼べぬ薄曇りの空の下、犬飼はゆっくりとぼやけて足元にばらばらに散る曖昧な影を踏みつけた。
まるで世界そのものだといいたげなそれらは酷く不愉快で、同時に納得ともとれる感情をもたらす。
こんな些細なことでしか、繋ぎとめられない世界。
高校生という大人でも子供でもない曖昧な時間。
全てが全てを許容して拒絶している、矛盾だらけの日常の中は、とてもとても息苦しい。
そのままじわりと溶け出して、指先から地面と融合する幻惑にほんの少し眉を顰めて、犬飼は縫いとめられたかのように重い足を踏み出した。
頬をすり抜ける風は温くて、含んだ湿気が近い雨を知らせていた。
鮮やかなものなどここには何もなくて、落ちる溜息を止める気にもならない。
太陽は朝から夕までまともな姿を見せることなく、東の空は既に暗い。
それをぼんやりと見つめた時間は信号待ちの僅かなものであるはずなのに、酷く長い時間のような気がしたのは何故だろう。
気付けば、目の前の信号は青。
傍らの他校の生徒と思しき女子高生がきゃあきゃあとすり抜けていって、犬飼は慌てて足を進めた。足元に落ちる影はもうだいぶ薄くなっていて、街灯のそれが作るものに取って代わるのもそう先のことでもないだろう。
この下校路で何度目かもわからない溜息を落として交差点を渡り終えた頃、背後から聞き覚えのある声が響く。やけに遠くから、しかも常ならぬスピードで近づいてくるその声になんだと振り返った瞬間、予想していたよりもあまりに近い声の主の姿にぎょっとする。
「さ…猿野?」
「おうワンコ!ま、間に合ったぁ〜」
つい今しがた渡り終えたばかりの横断歩道を信号が変わるのを待ちかねたように車が横切る。
エンジンと排気の音に聞き取りづらいはずの声はやけにはっきりと、犬飼の耳元に響いた。
振り返りかけた犬飼の背中に張り付くようにして、どこから走ってきたのか息を切らせながら猿野が珍しく全開の笑顔で見上げている。
その構図に少々不味いものを感じないでもなかったので、不自然にならぬ程度に丁重にそれを引き剥がすと、彼の隣にポジションを移動する。
次いで誤魔化すようにどうした、と、問い掛けるとその頃には上がった息も多少は整ったのか、いつものマシンガントークが猿野の口をつく。
「おう、通りかかったら丁度信号変わるとこでさあ。この交差点って車道優先だから待ち時間長いんだよなー。3日前もここで引っかかって危うく遅刻するとこだったぜ。いくら長いっつっても10分以上ってのはあんまりだよなー。
もしかしなくても、コレは十二支高生徒用のトラップじゃねえの?」
「…猿限定のか?」
「テメエは!なんでそー人のムカツクことしか言えねえかなあ!?」
くるくると変わる表情。
曖昧な世界の中であまりにも鮮やかなそれを、見ているのは飽きない。
憎まれ口を叩いていても、それに返答が返らなかったことが一度だってないことを犬飼は知っている。
段々と傾く日は、只でさえ薄暗い曇りの夕暮れを更に真っ暗な闇へと誘う。
夏が近く、日が長いとはいってもその分練習時間が延びるだけであまり変わり映えはしていない。
ぽつぽつと街灯が灯り始めて、足元の曇天の薄いぼやけた影はやけに輪郭だけははっきりとした全方向に散らばるライトのそれに取って代わる。
けれどもそれは曖昧さがすりかえられただけで何も変わってはいないのだけれど。
「なあ、猿」
「猿じゃねえっつってんだろ犬コロが!…んで?何だよ」
ほら、返答は必ず返ってくる。拙い言葉にも必ず戻ってくるという確信は、犬飼の心をほんの少しだけ後押しした。
乾いた喉が少し掠れる音を吐き出すのも、今なら気にならないだろうと思う。
「オマエの世界は、楽しいか?」
「…は?」
突拍子もない質問に一瞬固まる猿野に犬飼は少しだけこの問いを後悔して猿野の顔を盗み見たが、そこにあったのは予想とは違い、真剣に問いに首を捻る猿野の姿だった。
笑い飛ばすと思っていた。
そうでなければ無視される類の質問だ。
そんなものにまで真剣になれる猿野天国という男が、犬飼はほんの少しだけ羨ましく思える。
むむ、と押し黙って首を傾げていた猿野が、何かに気付いたようにはっと顔を上げる。次いで犬飼の瞳を覗き込むように見上げて、晴れやかな顔で微笑う。
「楽しいに、決まってんじゃん。
つーか、楽しくもないのに笑えるほど、俺器用じゃねえよ?」
ワンコは無駄なこと考えすぎ〜、と笑いながらばんばんと犬飼の背中を叩いて、ふと真剣な表情でその手を止める。
遠慮無しにバカ力で叩かれた痛みに眉間に皺を寄せた犬飼の手をぐいと掴むと、その勢いで下がった彼の耳元に小さく囁いた。
「おまえもいるのに、楽しくないなんて、そんなことない」
その、声の響きがあんまり静かだったから。
ぎょっとして固まった犬飼の腕から伝わる熱は温い外気の中でも酷く鮮やかだった。
うっすらとした頬の赤みは、きっと街灯の明かりだけではないはずだ。
ぷい、とそっぽを向いて早足で歩き出した猿野の後を犬飼は慌てて追いかける。
俺もだ、という肯定の言葉を返してやらなくてはならないのだから。
往々にして、世界というのは酷く曖昧だ。
けれど。
曖昧な中に時折横切るその存在は、とてもとても鮮烈で与えられる痛みも喜びも強いから。
それはきっと、曖昧な中でのたったひとつ確かな存在に違いないのだ。
犬猿祭に投稿したお話その1です。犬飼さん視点で。
犬飼さんは片思いだと思ってるよーですが猿的には既に両思い。ヘタレめ(笑)
この頃の祭にははっきし言って甘くて幸せなお話の可愛い猿満載だったので、
凄まじく浮いてたよーな覚えがあります…
書いてる間は、楽しかったんですが、ねえ?
Erika Kuga