りっぷさーびす
「ってまー、直訳すると『薄っぺらいお世辞』だよな?」
ことん、と首を傾げて、猿野は問題集片手に向かいの焦げた犬に問いかける。
とはいえ、この学問とはとんと縁遠い男にこの程度の問題であっても返答が返るなどという期待は最初からしていない。現に問われた男の隣で単語カードを作成している辰羅川が唸っている駄犬の代わりにそうですよ、と呟いた。
乾いた笑いが猿野の隣で同様に元素記号表を書き写していた沢松の喉から零れる。
ざあざあと外では冷たい雨が降っている。季節はずれの豪雨はものの見事に電車を止め、現在帰る足を無くした彷徨い人と化した学生と教師は揃って学校内に閉じ込められていた。こんなことなら部活をやめて帰っておけばよかったと思っても夕刻を過ぎた現状では後悔先に立たず。
窓ガラスを叩く雨音は時が過ぎる毎に激しくなり、リズミカルだったそれはもはや乱打に近しいパーカッションのようにざわめく。職員室からガメてきた時代遅れのラジカセから零れる雑音だらけの気象情報に、どうやら帰れる見込みはほとんどないらしいと揃って溜息を落とした。
「つか、なんでリップサービス?んまあ内容的には唇から出る奉仕、と言えなくもないが…薄っぺらいっつーのが頂けないというか」
激しくどうでもいい、と自分でも理解できている事を垂れ流しにしているのは、一重に現状が暇だからに過ぎない。この手の会話は既に数えて覚えているだけでも十回近く繰り返され(風呂敷の語源の話になった時は、その語源の場所からサウナは厳密には風呂と呼べるのか否かという討論に発展し、犬飼を除く全員で本気のディベートを小一時間繰り広げる事態まで発展して元の話題に戻れなくなるところだったが)回りの反応もいささか投げ遣りに近いものへとなりつつあるのだが。
しかし唇。そして奉仕。
なんつー微妙な単語を危険な男の前で口にしてくれるんだ!!
ハッキリ言って、この駄犬がそういった単語を前にお預けをしてくれるほどの知性があるとは、この場の保護者‘Sは欠片も信じてはいなかった。というか、襲われる側である猿野が真っ先に気づかなくてはいけないのにどうしてかいつまで経っても危機管理反応を麻痺させたままなのは恋は盲目と言うことなのか。
大方の予想通り、他の3人がとっくに終わらせた宿題に未だ唸っていた犬飼の肩がぴくり、と跳ねたのを沢松も辰羅川も見逃さなかった。というか、予想通りの反応過ぎて既に監視が反射になってしまったというべきなのか。
「猿っ!むしろ俺に本当の意味でのりっぷさーびすをっ」
何かとんでもない事を口走りかけた犬飼を先制するが如く沢松は猿野の興味を逸らす為にまったく関係ない話題を振り、辰羅川は無言で犬飼の額を手にしていた単語カードの角でさくりと抉った。
「何アホい事口走ってんだよ天国。それよりこないだ貸した雑誌どーしたよ?」
単語カード=厚紙。すなわち相応に硬いが殺傷能力はない。しかし実際に対象に与えられる精神的・肉体的苦痛には十分。
そこまで読みきって攻撃を仕掛ける辰羅川信二は、相応に侮れない人物だった。
そして微妙に痛いその攻撃に思わず額を押さえて机に沈没した親友(と書いて保護対象駄犬と読む)の姿をせせら笑う。所詮この犬の行動パターンなど既に読み尽して久しい。きょとん、と(猿野視点では)意味不明な行動を取る目の前の男に首を傾げるが、その点でも保護者たちは完璧だった。
「…あれ?犬どーしたん?」
「ははは、知恵熱ですかね?それにしてもお世辞を言われたいなんて変わった趣味ですねえ犬飼君。ああ、この駄犬は気にしなくていいですよ猿野君」
一分の隙もない言い分は見事なもので、台詞回しにも淀みひとつない。鉄壁の笑顔に隠されたガラス越しの眼が決して笑っていない事を沢松は気付いていながらそっと心の中でだけ手を合わせ、顔はにこやかに辰羅川へと同調する。
「あの雑誌な、次は辰サンに回すから早めに返せ」
「うっ、ええと、明後日でもいいか?俺もまだ全部目を通してねえんだよ」
しどろもどろになりながら妥協案を出す猿野の興味は、さっくりと前の発言、及び駄犬から失われたらしい事を確信し、二人は心の中でガッツポーズをする。
勝った、俺たちは勝ったんだ!!何にとはむなしいから突っ込むな!(笑)
「…ええ、構いませんよ?」
辰羅川はにっこりと笑い。
「珍しいのなー3日オマエが未読って。学術誌ならともかく、アレ単なる情報誌だし」
沢松は苦笑しながら猿野の額を小突く。
「だ、だって真ん中辺りに掲載されてた新製品が気になってな!そこからネット検索かけてオープン価格の実費を推測してたらついつい時間が」
「おや、何か欲しいものでも?」
「あー辰サン、コイツ今音響機器に興味あるらしくて」
だからあの雑誌を貸したんだ、と有名な電化製品を主とした新製品情報誌の名前を挙げる沢松に、だってようやくDVD揃えたんだよ、大画面液晶はもうあるから後は音響だろ、と某国の某科学調査ドラマの名をあげた猿野。あまりにもお約束なそのタイトルに苦笑しつつ夜更かしは駄目ですよ、と辰羅川がたしなめる。それから三人でそのドラマの考証に盛り上がったのは更にお約束で。
ちなみに犬飼は未だ復活してこない。というか復活した途端に会話内容に再度撃沈したというべきか。むしろそろそろ見限った方が良いのだろうかこの駄犬は。
外は未だ雨。犬飼の横には片付いていない宿題のプリント。
果たしてこれが片付くのと、この雨が上がりJRが運転再開して帰宅できるのと、明日の登校時間になるのとどれが早いだろうか。
なんだか最後の線が濃いな、と爆笑する。間違っても片付けるのを手伝ってやろうなどとは口にしない辺りがこのメンバーというべきなのか。
外は雨。窓ガラスのスタッカートは未だ止まない。
とりあえず。猿野所有のDVDの鑑賞会の予定が決定した事だけを有益に、嵐の夜は更けてゆく。外は騒がしいが、あの銃弾が飛び交ったり血みどろになったりした過去は遠い。ここに在るのは少々物騒ではあれど平和な安息。
「…まあ、『お世辞』抜きでいいよな、こういうの」
ぽつりと呟いた猿野に、沢松も辰羅川も思わず互いの顔を見合わす。
そうしてそこにただ存在できる現実に、三人は口元を綻ばせた。
とはいえ。
…犬飼はまだ、奈落のようだが。
2005年1月の大阪シティのペーパー裏小噺
一応モノクローム・スクエア設定でしたがあんまり意味がないような…
本人的には結構お気に入りですが、ちょっと尻切れトンボのよーな
2005.05.18. Erika Kuga