雨音





 しとしとと、降りしきる雨。
 激しくはないが、とても屋外で活動ができる状態ではない。野球とグラウンドを愛してやまない牛尾主将は酷く落胆していたが、監督は渡り廊下の一部を借りて筋トレを命じた。
 本来ならば野球部名物校内競馬としゃれ込みたいところだろうが、こんな雨の日にはそれすら不可能な状況だろう。
 どこの部活も状況は同じようで、文化部が使う教室の少ない南棟では様々な部活を認めることができる。
 陸上部は体育館と校舎の間の渡り廊下で短距離ダッシュを繰り返し、サッカー部は空き教室を一部借り切ってリフティング、テニス部は階段を駆け上がったり駆け下りたり忙しい。
 もっともこんな雨でスペースも確保できず休みになった部活も多かったようだが。
 だが、この様子では大会前の吹奏楽部やら美術部やらに怒鳴り込まれるのも時間の問題な気がするが。
「やれやれ…この調子ですと、今日の解散は早そうですね?」
「そう、っすね。キャプテンは、残念そうっす、けど!」
 腕立て伏せをしている辰羅川の横で、腹筋をしながら子津が答える。
 あくまで練習メニューはメニューとして手を抜かない辺りが子津らしい。背後の方で身体の固いことでは野球部一だろう猿野と思しき悲鳴がやけにアメリカナイズされた笑い声と共に聞こえたが黙殺することにする。
 触らぬ神に祟りなしだ。
 もっとも人の良い子津はそうはいかなかったらしく、見るからにうろたえてこちらにすがるようなまなざしを向けてくる。
「た、辰羅川君!さっきの声って…」
「空耳でしょう(にっこり」
 言外に『甘やかしてはいけません、放っておきなさい』という笑顔を浮かべ、辰羅川は子津に向き直る。
 湿気た空気が肌にあまり歓迎したくない感触を残している。
 機嫌も悪くなろうというこの空気の中で、相変わらず素直で真面目で人の良い少年に、ほんの少しだけ羨ましささえ覚える。
 人は大体、それほど真っ直ぐには生きられないから。
 多分、それが猿野と彼が一緒にいられる理由なんだろうと推察する。
 ああみえて猿野天国という人間は酷く様々なものに対する警戒が、強い。だいぶ互いの事を知るようになったが、それでも猿野はきっと自分になど全く心を許していないだろう。
 自分だけではない。彼が部内で唯一警戒の壁を下げるのは子津と司馬くらいのものだろう。
 だからこそ、少し羨ましい。
 そうあれる子津も、そうされる猿野も。
 けれど子津は子津たる所以によって猿野の悲鳴を聞き過ごすことはできなかったらしく、繰り広げられる猿野の不思議ワールドに落胆と驚愕と突っ込みを同時にこなすという器用な反応を示している。
 あれも一種の友情だろうか。というより、そうでも思わないと心が軋む。
「やれやれ…重症ですかね」
 呟いた言葉に込められた重さに、何より己が一番ぎょっとする。
 手のひらで額を拭うと、湿気交じりの汗がべったりと張り付いていた。
 練習、そうだ、練習メニューが途中だ。
 ぼんやりとそんなことを脳内に巡らせて、辰羅川はやりかけの腕立て伏せを再開する。ノルマまであと48。先は長い。
 向こうからは相変わらずにぎやかな声が響いている。
 猿野の叫び声、子津の悲鳴、兎丸のはしゃいだ声、犬飼の低い声、聞こえないが恐らく司馬もそこにいるはずだ。
 何を、しているんだろう。
 ぽたりと汗が床に落ちる。あと、20。
 ぐっと腕に力を込めた時点で、とうとう展覧会を控えた美術部部長が怒鳴り込んできた。
 曰く、騒がしいから床に響くような音や声は立てるな、と。
 そしてそれを不可能と判断した監督はここに至り、皆に解散の旨を告げたのだった。



「帰らないんすか?」
 傘と鞄を抱えてぼんやりと雨を見ていると、そんな声が背後からかけられる。
 自分と同じように鞄を抱え、傘を片手に持ったその姿に、思わず息を吐き出す。
「ああ…子津君」
 猿野君と一緒ではなかったのかと訪ねると、今日は雨だから猿野の下校ルートは電車なのだという。
 解散時間と電車の時刻はかなりぎりぎりだったから、よほど慌てて帰ったのだろう。
 犬飼もまた街中に用があるとかで電車だったはずだから、鉢合わせねば良いが。
「雨を…見ていただけですよ。とても止みそうにありませんが」
 ああ、とくすりと笑って、子津は傍らに歩み寄り傘を広げる。傘の鮮やかな緑色が曇天に鮮やかだった。
「梅雨っすから、なかなか。
でも、梅雨が明けたらとうとう夏っすよ…」
 夏、という季節。
 多くの運動部員にとって目指すものに手をかける季節。
 あまりに鮮やかな色彩を示す季節は、その姿そのままに感情も鮮やかに彩るのだ。
「来年もある、なんて陳腐な言葉、使いたくないじゃないですか」
 雨の向こう。
 確かに見えるそれは、幻ではないはずなのに。
 こんなにも希望を語る子津が眩しいのは、何故だろう。
「…子津君は、疲れませんか」
 そんなに真っ直ぐに生きて、疲れたりはしないのでしょうか?
 意地の悪い質問だったと、口にしてから後悔する。酷く惨めな気持ちで首を捻り答えを探す子津を見ながら、辰羅川は視線を落とした。
 けれど、子津の手のひらがそれを阻む。
 ぎょっとしたのは一瞬、決して綺麗とは言い難いピッチャーの手のひら、それが頬を包み顔を上げさせ真っ直ぐに視線を合わせて。
「きっと…疲れるんだと思うっすよ。でも、それでも、こうして辰羅川君みたいに心配してくれる人もいるじゃないっすか」
 だったら、多分平気なのだと、子津は笑う。
 辛いことも苦しいこともそうやって押し流す強さに、いつでも辰羅川は目を見張る思いだ。
 自分には、ないものだからだろうか。
 生きましょう、と軽く叩かれた肩がじんわりと温かく、辰羅川は眼鏡を押し上げた。
「たまには、雨も…いいかも知れませんね…」
 未だ空は雨模様、晴れる兆しすらないけれど。
 カレンダーは、6月。
 夏の匂いをさせた空気が、もうそこまで近づいていた。
 







辰子です。辰子っつーか辰→子?
ある意味子の方が攻っぽくてどきどきです。
何が悪いって辰がヘタレだからデスネ。多分。せっかく犬がヘタレ脱却したのに…
でもにこやかに「放っておきましょう」という辰は大好きです。
途中で一歩間違うと辰猿になっちゃうとこだったのは秘密ヒミツv(切腹)
2002.06.08. Erika Kuga