ペーパークラフト
猿野天国、という人間を一言で言い表すのはとても難しいと言わざるを得ない。
非常にわかりやすく単純で先の行動も思考も読み取れるかと思えば、余人には到底計り知れない行動を取ったり段階をひとつふたつ…いや、ななつくらいふっとばした思考を披露してみたり、とにかく型に嵌める事が難しい人間である。
そして、それらの行動、言動は全て、それなりに己で計算している節もある、と私こと辰羅川信二は分析している。
恐らく、我々が考えているよりはるかに頭の良い人間なのだろう、猿野という存在は。
取るに足らないひとつひとつを、本能に従って奔放に辿るように見せかけて、実は綿密な計算によって積み上げてゆくタイプだ、アレは。自分と近しい、けれど絶対的に異なるほどに緻密で冷静な思考を組み立てる人種。あらゆる事象の経過と結果を、常にその頭脳が間違うことなくはじき出す。
けれど。そう、だけれど。
ただひとつの要因に基づく場合だけ、それはがらがらと簡単に崩れて執拗に塗り固められた虚構の仮面をはがし素顔の彼を映し出すのだ。
そう、所詮、人間はそれには逆らえないというように。
そして、そのアンバランスかつアンビバレンツな様子に一喜一憂し、本人の意志とは全く別のところで増殖してゆく感情の小気味よさと言ったらない。伝播してゆくようなその感情、人から冷静な判断力と行動力を奪う恋心という名の最強兵器は、なんの躊躇いもなく伝染性の疾患のように野球部内を席巻してゆく。
恋愛感情だけが、彼から無敵の仮面を剥ぎ取って、単なる高校生の少年にしてしまう。
ひどく滑稽で、それでいて微笑ましく、しかしそうも言っていられない厄介さも孕んだキレイな感情。
そう、猿野天国氏は、恋をしているのだ。
抜けるような青空の下、今日も野球部のおわすグラウンドではステキで過激な練習風景が繰り広げられている。はっきり言ってかなりの野球ラヴ人間か根っからの体育会系の熱い血潮を持つ者でない限りは吐き気を覚えそうにアレなレベルであったが、既にそれを日常と錯覚してしまっている可哀想な部員たちは、今日も土と汗に塗れつつ青春を謳歌していた。
しかし、神は彼らを見捨ててはいなかった。そう、彼らにはそんな壮絶な練習に耐える力を与えてくれる、貴重な癒しが存在したのである。
猿野天国、自称生粋の天然芸人。その頭脳は明晰、加えて黙って立っていればそれなりの容姿をしているにも関わらず、彼は笑いの為、場の雰囲気の為ならばプライドも己の身も対人関係もあらゆるものを投げ打って尽くすある意味危険な人物である。だが、彼のもたらす無意味な笑いはこの極限状態にある野球部の連中にとって、何時しか欠かす事の出来ないものとなっていた。無論、そういった無意識の脳内変換すり替え行為が正しいか正しくないかはこの際置いておいて。
だが、いい加減その程度の脳内変換で済まされない困った人種も残念ながら野球部には存在したのである。
そう、癒し、から突き抜けてしまい『愛情』までステップアップさせてしまった困った方々が。
つい、と眼鏡を押し上げつつ微妙に視線をずらし、辰羅川は目の前の光景をなるべく自然に己の視界からシャットアウトした。無論、そうしても視界の端々に映るものはどうしようもないし聴覚は通常どおりに音を拾ってしまうのだけれどもそれは仕方がない最低領域というものだろう。
相変わらず困ったように、けれどバカ正直にその様子におろおろしているサングラスに青髪にヘッドフォン着用と外見だけは派手な、その実かなり控えめで言葉少ない、魍魎跋扈な野球部の良心司馬葵と、同様に一々驚き慌て叫んで見せている純朴少年子津。そして微妙なハイテンポで繰り広げられる猿野のギャグに絶妙なツッコミとボケを繰り返す彼の鬼ダチ、沢松。彼らはいい。 彼らはいいのだ。
問題は、と辰羅川は更についと視線を泳がす。その先にある、見たくもないしかし確認しておかねば地雷となり得る地獄絵図を確認せんがために。
過酷な練習風景の中の、エアポケットのようにぽっかりと降って湧いた僅かな休息時間。そんな些細な時間すら骨身を削って文字通り捨て身のギャグを繰り広げている猿野の腰に体格差を生かして纏わりつく兎丸と、それを射殺しそうな眼差しで(実際は単に羨ましいだけだと辰羅川は長年の付き合いから確信する)犬飼。無駄にテンションを上げてマシンガントークに一々茶々を入れている虎鉄先輩に、その背後で大根片手に黒い微笑みを浮かべる猪里先輩。バッティングも決して未だ誉められたレベルではないが守備は更にザルな猿野にマンツーマンで(実際は獅子川も一緒だったし危機感を覚えた沢松や女子マネたちも一緒だったのだが彼の脳裏からはそんなことは綺麗さっぱり忘れ去られているだろう)牛尾キャプテンの過度に愛情…愛情?のこもった眼差し。それを押し留めているんだかけしかけているんだか微妙なラインの蛇神先輩がそっと何某かのお守りらしき札を差し出し、実は猿野と案外に仲が良いらしい鹿目先輩が未だ腰にかじりついたままの兎丸に明らかな敵対反応を示しつつ外見上は和やかに会話を進める。
「…相変わらずアンビリーバボーな光景ですねェ…」
もはやどうこう言いつくろってもどうにもならない光景に再度眼鏡を押上げ、何の躊躇いもなく溜息を落とす。できれば見捨てて忘れてしまいたいが、そうするには辰羅川もまた、少々どころでなく猿野という人物に対して好感情を抱いてしまっているのだ。…断じて、この連中のような恋愛感情ではないが。
「あーまあ、人気者で保護者としてはちょっと安心っつーか、ちっと行き過ぎっちゅーか」
微妙に乾いた笑いを浮かべつつ、頭を掻きながら此方に歩み寄ってくるのは、自称猿野天国の保護者である誰もが認める鬼ダチ、沢松。彼の存在にそれこそハンカチを噛み締めることもきっとあの連中も多かろうに、彼に寄せられた猿野の海より深い信頼の為に、無碍にも出来ない。尤も、沢松自身の感情はそれこそ保護者、でしかないのだが。
「…ちょーっと、野球部なんかに入れたの後悔しないでもないんですがねェ、辰サン」
「ええそれに関しては私も何も言えませんね。もう少しアレがヘタレでなければ少しはマシでしょうに」
胡乱な眼差しで二人、辺りを睥睨しながら示し合わせたようにもう一度、溜息。
元はといえば、一応『彼氏』であるあの男がもう少ししっかりしていたらこんな自体には陥らなかったものを。
猿野は誰も詳しい事は知らない、けれども言葉の端々から微妙に察せられる人生遍歴の持ち主だ。口に出すにも憚られる、と唯一詳細を知るだろう沢松が告げるほどのそれはどうにも他者が向ける害意に敏感な性質を形成している。巧みに虚構と真実を織り交ぜて、己が傷付かないように周囲に悟られないように本心を隠してしまう。臆病、と思えるほどに慎重に、確実なものしか信用しない。一見あけすけで人付き合いが良いように見えて、己の根本は決して口にしない。人と付き合う、ということに対して器用すぎて、逆にひどく不器用。
だがしかし、基本的に恋愛に関しては小学生並みの感性しか持ち得ない猿野の一応『彼氏』である犬飼冥に、そんなことを理解…否理解はできるかも知れないが実践しろと言っても無駄な話だった。相変わらず無意味に猿野の逆鱗を刺激して、それに対して反感情を持ちそれを猿野に敏感に察知されてギリギリのラインで避けられる、という悪循環を繰り返す始末。これでは(猿野に懸想していない良識人)皆で背後からドロップキックで奈落のそこに突き落とさんばかりの勢いで後押ししてやった甲斐も何もない。
己の友人のあまりのヘタレ具合に、溜息以外の何が出るというのか(反語)。
そして沢松もまた、器用貧乏な己の鬼ダチ兼被保護者に同じように溜息を落とすのだ。
「アイツが、笑ってるならいいと思ったんスけど」
本人としては格別なほどに甘え倒して構ってもらっているつもり、な辺りが余計に切ない。これはもう何をどうしたってそこに至るまでのどうしようもない経験値不足と、相手との不器用同士故のすれ違いが原因で、そこにつけ込む隙あり、と皆が見てしまうのも致し方ないのかも知れないけれど。
「…やっぱり、こう…少しイラつくのは俺の親心っすかねえ、辰サン」
「心配せずとも、我々の心は一緒ではないですかね、沢松君」
どこまで踏み込んで良いのか、どこまで許されるのか。それを測りながらの不器用な歩みよりは、普通のヒトよりずっと遅くて。
それにやきもきして、ハラハラするのは周囲の保護者。
だけれども、結局互いで互いしか見ていないから、余計な心配にしかならないのも事実で。
「でも、しあわせだって笑うんですよアイツ」
そんな笑顔、今までの付き合いの中で見た事など一度たりともなかった。封じ込めるように塗りこめた、『喜』と『楽』以外の感情の欠片も感じさせることのない誰より見事な紛い物の笑顔、そんなものしか彼にはなかったのに。
「此処が好きだって、そう言うから。んな顔されたら、いくら無敵の保護者サマでも手出しはできませんて」
「…そうですね」
照れたような、はにかむようなその笑顔に、幸せになるのは何も自分たちだけではあるまい。
皆、そう思うからこそ彼の周りには人が集まる。それまでの不幸を帳消しにするくらい、それは暖かくて居心地の良い場所となる。
その時、ふっと見つめていた猿野の手を、ぐい、と犬飼が引いた。皆が一瞬呆気に取られ、口々に文句を告げるその前に、犬飼は表面上はさらりと、しかし実際はかなり心拍数を上昇させてぽつりと呟く。
「…猿」
「は、あ?…え?」
ナニ、と問うその前に、更にぐいっと猿野の手を引いた。
ぐらり、と傾いだ猿野の背中を強く抱き寄せ、あまりの事に硬直している本人を無視して普段は滅多に浮かべない、けれどもその端正で怜悧な顔立ちには良く似合う多少皮肉めいた微笑みを浮かべて、犬飼はさらりと目の前のライバル予備軍どもに言い放った。
「スミマセンけど、コレ、俺のなんで」
「…はええええ!!?」
一瞬ナニを言われたか理解するまでに時間を要し、更に理解した後はあまりの内容に真っ赤になった猿野がじたばたと暴れだすのをしっかりと押さえ込み、その光景にフリーズした面々を前にぺこりと犬飼が軽く一礼する。
「つーことで、急ぎますんで、これで」
「うええええええっ!?!!?」
意味を為さない言葉を叫んでいる猿野を、引き摺るように連れ去る犬飼の、一本切れましたか?と言いたくなる豹変振りにぽかんと見送るしかなかった沢松&辰羅川の保護者コンビは呆れを含んで肩を竦めただけだったが、回りの野球部の連中に関しては、無論それでは済まなかった。
「…ちょ、ちょっと犬飼君!勝手に兄ちゃん持ってかないでよーっ!」
「まったくだよ、猿野君は君の所有物ではないというのに…」
ふくれるお子様と、王子の眉間に浮き出た血管。無論皆の状況も似たり寄ったり。
制裁だ。野生に帰ってしまった駄犬には、制裁という名の八つ当たりあるのみ。
だがしかし、そんな彼らの野望を阻止せんと立ち塞がる者も存在していた。
「残念ですが、邪魔はさせませんよ…皆様」
にっこりと、隙のない笑顔で微笑む彼女…いや、彼女等は、野球部影の実力者女マネ。
又の名を、恐怖の同人集団。春休みとGWとお盆と年末に謎の休みをもぎ取ってゆく彼女等は、今現在は夏の祭典の原稿を抱え、微妙に血走った(多分寝不足の)眼差しで辺りを睥睨する。
「いえ無論総受けも美味しいのは事実ですが…今はそんな(ネタを練り直すような)余裕はないのです…」
すみません、とちいともそんなことを考えてはいなさそうな表情でにっこりと笑う鳥居凪の手にあった、数枚の写真の出所と内容はきっと…知らない方が無難だろう。
猿野さん、私たちは貴方の味方ですvとうっとりと呟く少女の正体は…知らせていいものやらマズイものやら。
何はともあれ、所詮男というのは女には勝てないことを証明するように、勢い込んでいた連中も一歩、後ろずさった。
そして翌日。
「…猿野が天邪鬼なのは、今更なのだ」
「うううう」
べったりと部室の傷だらけの机に懐く猿野の向かいで、パックのヨーグルト飲料を啜りながら、鹿目は小さく溜息を落とす。
「犬飼は言葉が苦手そうだけど、それでも言葉にして欲しかったっていうのはわからなくもない、それはいいのだ。…でも」
「あうううう」
突っ伏したまま顔を上げない猿野の頭を撫でてやりながら、腕の合間から見える真っ赤になった耳やら頬やらに更に深い溜息を落として、決定的な一言を突きつける。
「昨日のアレは、仕組んだ猿野が悪いのだ」
「にゃうううううっ!」
そうだ、確かにアレは自分である程度は仕組んだ事だった。
犬飼の腕の中で真っ赤になって引き摺られながら、それでも自分は満足していた。
けれど。
甘かった。己は心底甘かったといわざるを得ない。
「健康な青少年を自ら誘惑しておいて、そんな結果が出ないと思ってる方がアホなのだ」
「えうううううう…」
真っ赤になった猿野の、首筋にはいくつかの鬱血痕。服の下はもっとスゴイだろう。
無論の事そんな状態で腰が立つわけも無く、ふらふらと歩いていた彼がパイプ椅子に座り込んだが最後、立ち上がることも出来なくなったらしい。
「まあ、帰りは犬飼に抱えてもらって帰ればいいのだ」
「ンなことしたら俺また立てなくなるじゃないっすか…!!」
沈黙。訪れるその痛みに、けれども鹿目はうっすらと笑って囁く。
「それは、猿野の甲斐性次第、なのだ」
「はうううううう…っ!」
再び机に突っ伏した猿野を眺めながら、鹿目は今ごろ保護者’sによって苛烈な躾が行われているであろう犬飼のことを思い出したが、三秒で記憶のダストボックスに放り込んだ。所詮自分もまた、この微妙に鈍くて聡くて幸薄い後輩が好きなのだろう。意味は無論、群がる連中とは違うけれど。
込み上げる欠伸を噛み殺して、ぷらぷらと数日前に捻った足を揺らす。
窓の外は、相変わらず良い天気だ。
適当に作った、紙細工の青みたいに。