温度





 触れる肌が熱いのも。
 触れている心がこんなにも冷えているのも。
 いっそ幻だったなら、いいと思うのは。
 …何故、なんだろう。




 見えないもの。
 触れられないもの。
 心の中まで無遠慮に踏み込まれる不愉快な感覚。
 腕を掴む指の強さと、燃えるような熱。
 背中に感じるロッカーの冷たい感触と、まるで敵でも見るような、激しい眼差しの応酬。
 少なくともここに、好意なんてものの入り込む余地はまるでない。
 ない、のに。
 指先が、体温が酷く、熱い。
「…離せよ」
 我ながら、絞り出すようなかすれた声に苦笑を覚える。
 何時もの、もう日常茶飯事となった喧嘩の、延長線上の言い合いのはずだった。
 けれどそのうちの何処かが、この犬には癇に障ったようで。
 何時もの仏頂面とはどこか違う、感情の冷えたそのくせ瞳の色だけはぎらぎらと強い視線で以ってこちらを睨みつけている。
 ピッチャーの握力で掴まれた腕は少し痺れ始めていて、きっと痣になるんだろうと思うと憂鬱な気分に苛まれた。
 けれどそんなこちらの思惑など完全に無視して、犬飼は低く唸るように呟いた。
「嫌だ」
「嫌って…テメェ、この猿野様の腕を勝手に拘束しといて嫌とはどういう了見…」
 だよ、と続けるはずの言葉は、けれど強く肩からロッカーに押付けられたことによって詰まった息に紛れて音になることはなかった。
 苦しい息に一瞬寄せた眉根に、更に何か不愉快と思しき感情を募らせて、犬飼は無駄に高い場所から見下ろしてくる。
 不愉快だ。
 何もかも、心の中まで見通そうとする不躾な視線は酷く不愉快だ。
 心の中の暗い部分にまで踏み込まれるのは、心底不愉快だ。
 わざわざ見せている、作り上げられた“猿野天国”に満足していればいいものを、この犬コロは何を思ってそれを引き剥がして人の裏舞台までのぞこうとしているのか。
 かっと湧き上がった怒りと、正体不明の焦燥に、思わず右手が翻り目の前の犬飼の頬を張った。
 熱。
 触れ得ないはずの熱。
 一瞬限りの接触。けれども触れた手のひらが熱い。
 ああ、拳で殴ればよかったかと思い、次いで大した差はない、と思い直しぎりりと犬飼を睨みつける。
 今、まるで泣き出す寸前のような顔でそうしているだろうことは、少し驚きに見開かれた犬飼の眼を見れば明らかではあったが。
「…離せ」
 先ほどと同じ言葉。けれど同じなのは字面だけで、そこに込められた意味も声の低さも全く違う声だった。
 もはや怒り、というよりも感情を消したようなまっ平らな声。
 その意味に気付いたのか、それともそういったものに疎いのか。
 犬飼の返答は、先ほどと全く同じものだった。
「とりあえず、嫌だ」
 掴まれた腕はとうに痺れて、けれども本当に麻痺してしまっているのはもっと別の場所で。
 例えば、ここが部室であるということとか。
 先ほどまで日常茶飯事となった口喧嘩を繰り広げていたこととか。
 …目の前の、この無駄にでかい犬をさほど嫌いではないと思っていたこと、とか。
「…テメェなんぞ、大嫌いだ」
 嫌い、と口にすることで形になることを望んでいる。
 何処からも漏れ出すことのないように、隙間なく偽りで固めたものを剥がされることに恐怖している。
 痛みも苦しみも、絶望という一線を超えてしまえば楽になれることはもう、とうの昔に承知している。
 好きだという思いが一方通行なうちは、自分さえ想っていれば良いうちはこれ以上どこも傷つくことはないから。
 少しだけ幸せになれることはあっても、これ以上不幸になることはないから。
 なのに、腕を掴んだままの無駄にでかいこの犬は、ぼそりと最悪な一言を口にする。
「俺は…そんなに嫌いじゃないな、オマエのこと…とりあえず」
 止めだ。
 本当に最悪だ。
 嫌いだ、と言っているのに何故そういうことを平気で言えるんだこのクソ犬は。
 絶望?そうだ絶望というのはこういう感触だ。
 久しく覚えなかったその感触に、否定し続けたどこかが悲鳴を上げる。
 痛み、苦しみ。慣れているはずのその絶望がそんなにも苦しい理由は、多分自分が想っているヤツで正解なんだろう。
 バカじゃねえの、コイツ。
 それ以上にバカなのは俺だけどさ。
 痺れた腕より心が痛い。
 温まったロッカーの温度よりも、
 掴まれた腕の、ワイシャツ越しに伝わる体温よりも。
 一番熱いのは多分、自分だ。
 どうしようもない熱の行き場、それを見つけられずに身体中を巡っている。
 掴んだ指をそのままに、もう一方の手を取る犬飼の行動を、もはや制する気力もなかった。
 乱雑に扱われているもう片方とは逆に、まるで壊れ物を扱うようにそっと重ねられる手のひら。
 なんだよ、犬。
 さっぱりわかんねえよ。
 何したいんだよ、オマエ。
 確かめるように指先を辿る指の乾いた感触と、程近くにある無表情な犬飼の顔とが酷く不似合いで苦笑するしかない。
 何か言えば、きっとまたアイツの口癖、「とりあえず」とか言って誤魔化しやがるんだろう。
 …冗談じゃねえ。
「…触るな」
 今度こそ、渾身の力を込めて犬飼を振り払う。
 その眼に、少し傷ついた光があったとかそんなことには気付かないふりをして。
 できるだけ冷たい眼差しでヤツを睨む。
「俺は、オマエが大嫌いだ」
 捨て台詞のようにそう告げると、脇をすり抜けるようにして部室を後にする。
 幸いにして着替えも済んでいたし荷物もまとめてあったから、片隅に置いたままのそれを手に、息を止めて部室のドアに手をかける。
「待てよ!」
「…待たない」
 背中にかけられるキャンキャン煩い犬の声を無視して、俺はばたりと扉を閉める。
 多分、ここから先は追って来ない。それは確信だ。
 だからテメエが俺は嫌いだ。
 条件付の感情なぞいらない。
「…バカみてえ…」

 多分、二人とも持ってる感情は似ていて。
 だけれどもそれを認めるには不器用で。
 ほんの少しの惧れが全てに対して臆病になる。

 傷ついているのは多分自分もなのだと、認めることすら拒否して帰路を駆け出す。
 呼吸が苦しいのは走っているからだ。
 目の奥が痛いのは砂埃の所為だ。
 沁みるような夕日の色は、アイツの瞳によく似ている。
 必死で駅までの道を走りながら、俺はアイツの脇をすり抜けた時に感じた痛みを忘れようとしていた。








ちょっと煮詰まっちゃった犬と必死で逃げてる猿。
煮詰まっても詰めが甘い辺りが犬ってことで。あああヘタレめ!
きっと猿野は臆病だと思うんですよね、他人から寄せられる感情に。
自分だけ想ってればいい、みたいな。
いちおー自分的には犬⇔猿のつもりだったんですが。アレ…?
2002.05.06. Erika Kuga