おはようって、言って





「…冗談だろ、とりあえず…」
 自分でもその声が乾いて掠れていることがわかっていた。
 呆れ、とも驚愕、ともとれる響きのその声の原因は、とりも直さず己の横で気持ち良さそうに熟睡してくれている少年。
 ふざけているか怒鳴っているかマネージャーの隣でにやけているか、そういった見慣れた表情とは少し異なる無防備な寝顔に思わず額を押さえた。
 …確かに、終電を逃したコイツを泊めたような覚えはあるが。
 部活中にケンカは、流石に不味かった。キャプテンにこっぴどく絞られ二人でのグラウンド整備と部室の掃除を命じられ、ようやく全て終った時点で、既に8時半。
 仕方なく帰ろうとして馬鹿猿が自転車の鍵がないとか騒ぎ出して、探すこと一時間。
 結局見つからずに些細な言い合いから再び大喧嘩に発展して更に一時間半。
 その後何故か一緒に帰る事になり、更に何故かコンビニで買い込んだ500MLペットボトルを片手に公園で話し込むこと一時間。
 見事に駅に辿り付く頃には終電が終る時刻だった。
 というか、自分も一人暮らしでなかったらとても大変な事態になっていただろう。
 青褪めて固まる猿野を前にして、とりあえず、と切り出す。
『俺のトコでよければ…来るか?』
 今思えば何故こんなことを言ったのかが、不思議だ。
 そしてそれに素直にアイツが肯いたのも、更に不思議だ。
 結果として俺はあの猿を連れて帰り、客用布団なんて洒落たものはないので夏用の布団と己のベッドパッドを貸してやった…はずなんだが。
 そっと視線を巡らせれば、その一式は床で多少使用の形跡はあるもののさほどの乱れもなくそのままそこにある。
 いつからコイツ潜り込みやがった、と溜息を落とし、起き上がろうとしてそれもかなわず余計に頭が痛くなった。
 がっちりとパジャマの裾を掴む、猿野の手。
 何せ、起きることも寝返りを打つことも出来ぬわけだから自然相手を見ることしかすることがない。
 この状況で寝られるほど、流石に肝は据わっていない。
 そして、ふと気付く。
 その手は何か縋るような必死さを漂わせて、きつく布地を掴む指先。
 時折、無防備であどけなさも見えるその表情が、眉を寄せて何か耐えるような表情を作る。
 …何に、対して?
 ふと、興味を覚えた。
 後から思えばそんなこと気にせずにさっさとたたき起こせば良かったのだが、この時点ではその選択肢は頭の何処にもなかった。
 まじまじとその顔を覗き込んで、普段は馬鹿をやっていて気付かないがかなり茶けた髪の毛は眉毛と同じ色で、どうやら元からのものらしいこととか。
 額に、真っ直ぐに引かれて残る細かな裂傷の痕があること。更に細かい傷は頬や鼻の頭にもある。
 いくらかは無論何時もの身体を張った笑いの際に出来たものであろうけれども。
 それだけでは説明できないその、随分綺麗になってはいる傷にどきりと心臓が跳ね上がる。
 興味、そう、興味だ。
 恐る恐る幾分長めの前髪を払ってみて、予想していたよりも大きなその傷に更にぎくりとすることになる。
 鮮やかな、紅い色。
 …透けて見えるのは、血の色?
 指が凍る。それ以上動かすことも引くこともできない。
 寝息は今もまだ穏やかだ。けれど静かなそれは、時折引き攣れたように滞る。
 起こした方が、いい。いいに決まってる。
 けれど指先が白くなるほどきつく握り締めた指先を剥がすことがどうしてもできず、犬飼はただ身体を強張らせるだけだった。
 寝言のひとつでも言ってくれれば。
 或いは身動きのひとつでもしてくれれば。
 けれど犬飼の願いとは裏腹に、猿野はぴくりとも動かない。
 …その眠りが、決して安らいではいないことが、わかるのに。
 強張った指先で恐る恐るその頬に触れる。暖かい、柔らかい、けれど少し乾いた感触。
 ヒトの肌の、慣れたはずのそれはけれども覚えのあるどれとも異なっていた。
 途端に冷たいはずの指先に何かが通う。
 熱を帯びた、狂おしいほどの…
「…ちょっと待て、俺」
 今、何を考えた!?
 少なくともこの猿相手に覚えるようなそれじゃないはずだ。
 苛立ち紛れにパジャマの裾を握ったままの猿野の手を振り払い起き上がろうとすると、眉間の皺は更に深さを増し、それまで固く引き結ばれていた猿野の口元が何某かの言葉を紡ぐ。
 聞き取れないほどかすかなそれに、耳を寄せてみてその内容に思わず目を瞑った。
 忘れなければいけない、と思った。
 覚えていてはいけない、そう言い聞かせるほど痛い言葉。
 こんな夢、見てんじゃねえよ。
 ヒトに縋り付いといてそんな夢、あんまりじゃねえか。
 猿は猿のままでいい。馬鹿な猿のまませいぜい喧嘩の相手になってくれればそれでいい。
 だから、言うな。
 そんな言葉を音にしなくていい。
 掴むのは、そんな熱のない布地なんかじゃなくて、もっと。
 一本一本指を引き剥がす。そして剥がした指を己のそれに絡めて、言い聞かせるように一言づつ言葉を口にする。
「…おい、猿」
 伝わる熱は痛いほど生きていることを伝えるのに、この存在は猿として死んでいる。
 もっと騒がしく馬鹿をやって、せいぜい大げさにくるくると表情を変えてみせればいい。
 怒っても泣いても叫んでも笑ってもなんでもいい、だから、寝ている間まで表情を固めるほど辛いことなど忘れればいい。
「おまえは、そのままで、いいんだ」
 言い含めるような言葉に、不意に寄せられた眉根が緩む。
 ふと指に込められていた力も抜けて、くたりと犬飼のそれに絡むままになった。
 けれども、そこに残った狂おしいほどの熱の欠片と離れるのが惜しくて、犬飼はやはりそれをそのままに放置する。
 起きたら、また五月蝿く騒ぐんだろうな。
 けれど悪いのは人の寝床にまでもぐりこんだこの実は寂しがり屋の猿の所為だ。
 言葉にするのは苦手だが、たまにはそれくらいしたっていいだろう。
 ああ、けれどその前に、一言言いたい言葉がある。
 朝起きたらかけられる言葉はこれと相場が決まっている。
 『おはよう』、と。
 叶えば、返る言葉も同じならいいと、そっと願いながら。








精一杯甘くしてみました。
猿が起きてれば犬に勝ち目はないので猿野寝たままで(笑)
ああでも猿野!猿野はきっと不幸な子に違いないのです!
オノレで不幸だと認めちゃうとそれ以上一歩も進めなくなるから、必死で明るく振舞うの。
そして沢松もそれ知ってるからあわせてくれてるのよ…ハンサム様、ええヒトや。
…やべえ脱線した。やっぱりワタクシ、犬猿好きですわ。
2002.05.18. Erika Kuga