ディジィノイズ
何の代償もなく吐き出される言葉はいらない。
甘いだけの気持ちで満足なんか、できない。
本気にさせたいなら、オマエの持ってる全部で贖え。
それが、唯一で絶対の代償になるから。
事象には要因が必要だし、現象には代価が必要だ。
それは世界が世界として存在する為に必要な宇宙の心理という奴だ。別にムズカシイ学者先生でなくても、本能的には赤ん坊だって動物だって、否ここにあるもの全てが知っている。
何か変化する為には、その起点となるべき力が必要だ。
そうして何かを消費することで力は発生し、熱量となって世界に瑣末だったり劇的だったりの差はあれど変質を及ぼす。
それを確実に見極める法則を手に入れたものを必然と言い、未だ解明しきれないものを奇跡と呼ぶ。
ただ、それだけの話だ。
奇跡なんてそんな簡単に起こりはしない。
特に、代価を払わずに必要としている奇跡なんて、まさしく偶然ですら起こるわけがない。
世の中のあらゆる事象を起こすには、起点となる因子が必要なのだ。
そして、猿野は現在数日前から継続して苛々している。
原因はアレだ、あの元ヘタレ犬だ。
何をトチ狂ったのか、ヘタレの癖に最近猿野に対する態度がやけに積極的でストレートになってきた。
理由は…どーせ誰かに何か吹き込まれたに決まっているが(覚えとけモミアゲめ)。
ともかく、最近は授業中くらいしか安息の地がないのが現状だ。
そして元々授業なんぞ退屈で眠気と格闘するか内職するかの二択しかないわけだが。
「…ウザい、あの犬っころめが」
ぴしり、と額に浮かぶ青筋。いい加減我慢の臨界点を突破しかけている。
ただでさえ人より堪忍袋の緒は切れやすいってのに。
他にする事もないしアドレナリンの放出量過多の所為で眠れもしない猿野は、何時になく凄まじく鬼気迫る勢いでノートにペンを滑らせている。
隣前後の連中は、それが明らかに黒板に板書されている内容とは違っていることに気付いていたがあまりの気迫に何も言えないでいる。
己の授業を完全に無視された形の現国教師にも、邪魔にならなければ良かろうと放置され今の猿野は完全に授業からも隔離された状態にあった。
びっ、と書き終わりのペンの音を教室内に響かせると、猿野はがたん、と席を立った。
「センセイ、俺ちょっと便所」
…嘘つけ!!?
その教室内の人間全てがそう思ったが、誰も今の猿野に突っ込みを入れようという剛の者は存在しなかった。
「そ、そうか。行って来なさい、猿野」
引き攣った声で告げる教師の声を背中に受け、猿野は先ほどまで凄まじい勢いで何かを書き散らしていたノートを手に、教室から出ていく。
ぴしゃん、と勢い良く戸を閉める音と授業終了を告げるチャイムは、ほぼ同時だった。
猿野天国、という人間がいる。
最初は、野球を舐めたお調子モノで邪魔なだけだと思っていた。
けれど次第に、その印象は変わっていく。
その言葉の裏に見え隠れする地道な努力に。ふと彼方を見るその瞳の色に。
バカな言動の裏側に人を思いやる優しさを隠して、お調子者の仮面の下に理知的で醒めた部分を秘めて。
自分すらも騙して、必死で己の、皆の居心地の良い場所を作っている。
それほど必死にならなくてもいいのにと、犬飼はふとした瞬間に気付いてしまった。
徐々に明らかになる彼の本質は、周りの分厚い殻からは想像もできないほどに柔らかく繊細なもので、その事実を思うたびに痛くなる胸を持て余していた。
つい、数日前までは。
今は違う。自信を持って言える。
間違いなく犬飼冥は猿野天国が好きなのだと。
しかし今度は何故か猿野の方が犬飼を避けている。
昨日は話し掛けようとしたらすっぽ抜けたバットをぶつけられたし、その前は近づいただけでグラウンド整備中のトンボをひっかけて引き摺られた。
段々と手段が過激になっているのは…どういうことなんだろう。
そういうわけで犬飼冥は現在苛々していた。
理由は無論、せっかく自覚したこの想いを伝えようとしているのにさっぱりこちらに言わせない猿野の所為だ。
先ほどから数学教師がテストに出すかも、と匂わせている公式もさっぱり頭に入ってこない。
この教師は生徒の将来にスリルとサスペンスを求めることで有名な為(なんちゅう不良教師だ)きちんとノートを取らねば決して良くはない己の成績に響くのだけれど。
大体からして、数学はあまり得意でないというかはっきり言うと弱点だ。けれども今の犬飼にとって問題なのは未来の赤点よりも現在の猿野だった。
そして、ふと思いついてしまった想像に愕然とする。
『…ひょっとして、そこまで嫌われる何かをしたとか!?』
所詮ネガティヴな人間、いったん負の方向に向かった思考はどんどんと悪い方に転がっていく。
がたん、と椅子を倒すくらいの勢いで立ち上がり、不機嫌そうな(実際は一体俺は猿野に何をやったんだ!?という焦りの)無表情で、ぼそりと低く呟く。
「保健室、行ってくる」
教師の返事も聞かず、犬飼は悠然と(本当はかなり支離滅裂な思考で精一杯で他のものは目に入っていない状態で)教室の戸に手をかける。
がらりと戸が開くのと授業終了のチャイムは、ほぼ同時だった。
ムカツいてる。
その理由は一目瞭然。
奇跡なんてそこには有りはしない。有るのはオマエが知りえない必然だ。
俺がどうして怒ってるかって?
そんなもの、あたりまえだろう?
「オマエの本気が、足りないからだ」
呟く言葉は言い訳だ。けれど、今の猿野には犬飼の一過性の麻疹みたいなそれを信用する気にはなれなかっただけだ。
そこに、必ず来ると思っていた。
案の定犬飼は息を切らせて階段を駆け上がってくる。猿野の教室の方が、屋上に至るまでの距離が短いのだ。
だからいつでも先に来ているのは猿野で、後からやってくるのが犬飼だった。
いつも、と言えるほどそれは頻繁だったかと猿野は小さく笑みを漏らす。
「遅えよ犬コロ。犬の分際でこの猿野様を待たせんな」
唇に浮かべたのは、意図した故の皮肉な微笑み。
自信はある。上手くやれる。
どこか怒ったようにこちらを睨みつけ、低く唸るように告げる犬飼の様子に、己のシナリオからまだ逸脱していないことに安堵する。
「…猿、俺はテメエに言いたいことがある」
「ふぅん?残念だけど俺にはないね」
ノーフレームの眼鏡を辰羅川を真似て押し上げながら、猿野は犬飼が何かを言う前に手にしていたノートを端正な犬飼の顔に叩き付ける。
「ぶっ!!?
テメエ、この猿!一体俺が何をしたって…」
ぷつっ、と何か一本キレたらしい犬飼がノートを剥がして猿野に怒鳴ると、既に犬飼の横をすり抜けて屋上の入り口に立っていた猿野が、薄く笑って振り向き様に告げる。
「逆だ、逆。
オマエの『何か』じゃ俺には足りねえ。そんな生温い言葉如きで、何を代償にするっていうんだ?
欲しいものがあるんなら、全力で来い。中途半端なモンは必要ねえ」
それだけ言うと、猿野はひらりと階段の下へと姿を消した。
後に残されたのは、呆然と立ち尽くす犬飼と猿野が叩きつけたノート一冊きりで。
「あれは…つまり」
嫌われては、いないということだろうか。とりあえず。
予測していた最悪の事態だけは避けられたということか。決して現状は良い方向に向かってはいないが悪くもなってはいない。
あとは、己の努力次第。
ふと、手にしたノートをぱらりと開く。
そしてノートの最初のページを目にして、犬飼はぱちぱちと瞬きを繰り返す。
なるほど。
猿野天国という人間を相手にする以上、手抜きは一切許されないということか。
次も赤点だったら金輪際相手にしない、と血文字(実際は赤インクだろうが)で書かれた一ページ目はかなり禍々しかったが、そういった小細工はむしろ猿野らしい。
こちらが好きなだけではダメなのだ。
あの、非常に難しい猿野という存在に必要とされなくてはならない。
難しいことだと思う。ある意味甲子園に行くよりも難しいかも知れない。
だけれど犬飼の頬に浮かぶのは押さえきれない微笑で。
「上等じゃねえか…天国、望むなら惚れさせてやるさ。
首洗って、待ってやがれ」
くっ、と笑ったその表情は、自分ではわからないけれどきっと悪戯を思いついた子供みたいな顔なんだろう。
髪を頬をYシャツを撫でて去ってゆく風の匂いは、もう夏のそれだ。
開いたままのノートが、ばらばらとリズミカルに音を立てた。
生きるも死ぬも、全てが要因と代価の連続。
本当に必要なのは、結果なんかじゃないんだよ。
さあ、見事に踊って見せてくれよ?
騒音だらけの世界の中で、不文律を変えて見せるくらいの情熱が欲しいんだ。
階段を一段づつ降りながら、猿野はくすくすと押さえきれない笑みを漏らした。
勝負は始まったばかり。
眼鏡越しの世界の中に、きらりと窓から差し込む陽光が眩しかった。
沙槻様リクの「強気な犬飼の告白をのらりくらりとはぐらかす猿野(実はめちゃくちゃ好きなのに)」とゆーリクでした。
犬…強気…?(笑)
普通こういうリク貰ったら犬に翻弄される猿書くもんじゃないんですかい玖珂さんや…
ていうかつい最近本館のリクでも似たようなことやらなかったかいのう…?
…人生の逆境は山あり谷ありですね(切腹)
なんか格好よい猿野になりました。スタイリッシュ猿野。眼鏡で頭良くてちょっとネジが飛んだ猿。
素敵だが何故こんなにもワタクシの妹に酷似しているのか…(痛)
この猿野楽しいのでまた書いてみよっかなーv
2002.08.12. Erika Kuga