タイムリミット
どこか気の抜けたチャイムが鳴り響く。
ガタガタという机と椅子の音が五月蝿い。回収された答案用紙を手に教師が教室を出て行ったその瞬間に、ざわざわとどこか華やいだ喧騒が室内を埋め尽くす。
奇しくも、現在実力テスト三教科が終了。
定期テストより切羽詰った様相が非常にユカイではあったが、猿野にはどうでもいいことだった。
こんなもの、多少悪くとも成績に影響するわけでもなんでもなし。
多少進学の材料になるだけだと思っていればイベントみたいなものだ。
そんなことよりもコレの所為で部活が中止になった事の方が一大事だと言える。
何せ、クラスが離れた凪さんには部活がない限りは廊下ですれ違うことも難しい。
ぼんやりとこの空いた時間を何に使うか、と考えている間にホームルームも終了していたらしい。クラスメイトの半分は既に教室に無く、残りの半数も鞄を手に談笑している程度で、あと数分ぼけっとしていたら取り残されること請け合いだったろう。
「…沢松…は、そういや用事があるとか言ってたか…」
アイツの好きなインディーズバンドのCDの発売日のはずだ、確か。
予約も受け付けてくれないと嘆いていたから、これから3つ先の駅前まで買いに走るのでは少々気の毒ではあるが。
何はともあれ、今日の下校は一人きりということ。
テスト後ということで酷く軽い鞄を肩に引っ掛け、かたりと猿野は席を立った。
誰もこちらのことなど気にも留めない。騒いでバカをやって注目を集めるのも得意だったが、それと同じくらい目立たずに行動することも得意だった。
表情を映さないようにして、できるだけ静かにその場を後にする。
たったこれだけで誰も気付かない。からりとドアを閉めたところで教室内のクラスメイトが猿野が消えた、とか騒いでいるのが聞こえたが、口元を押さえてそのまま歩き出す。
何時もいつも、騒いでるなんて決め付けるなよ、アホウ。
悪戯じみた行動すらも、どこか空虚で、寂しい。
ああ、それは『独り』だからかと納得すると同時に反発も覚えて、猿野は思わず立ち止まる。
外は、快晴。
部活があったなら絶好の練習日和。
窓ガラス越しにも眩しい光に目を細めて、唇に刻むのは、苦笑。
運動部なんて、大嫌いだとか言ってたのにな、自分。
大体ガラじゃなかったんだ、スポーツマンなんて。
身体を動かすのは嫌いじゃなかったが、それよりも夜の街角を歩く方が性に合っていた。
今は…どうだろう。
「わかんねえ…な…」
ぼんやりと思い出すいろいろなこと。ほんの少し前まで鮮烈で褪せることなど考えられなかった記憶が、この頃少しづつ曖昧になっている。
良いこと、なのかどうか。
それはわからない。ただ、この胸に去来する痛みが薄らいでゆく事は、とても心地が良かった。
からり、と鞄の中のシャープペンシルが転がる音が聞こえて、猿野はゆっくりかぶりを振った。
下駄箱の中の薄汚れたスニーカーに履き替えて、慣れた下校路を辿る。
雨上がりの道路は薄く濡れて、片隅の雑草も何時もより瑞々しい。
本当に、部活があればよかったのにと溜息を落とした瞬間、背後からタックルにも似て抱きつかれ、思わず息が詰まる。
「兄ちゃーん!今帰りー?」
勢いに任せて倒れかけた猿野は、ここで転んだら流石に怪我をする、という必死の思いで踏みとどまり、咄嗟に振り返る。
予想通り、そこには野球部の同輩、兎丸比乃が己の腰に縋りついた滑稽な状況が広がっている。
その少し後ろにはどうしたら良いのかわからずおろおろと視線を惑わせる(とは言ってもサングラス越しにそれがわかるのは兎丸と猿野くらいだったが)司馬葵の姿があった。
「司馬…そこにいたんなら、頼むから兎丸の暴走を止めてくれ…」
「…」
謝罪の意味をこめたと思しき頷きひとつに、まあ見かけはアレだが常識人の司馬に止めろってのは無理な相談だよな、と溜息を落とし、猿野は腰に抱きついた兎丸を引き剥がす。
そのミニマムな外見同様軽い兎丸は無論のこと軽がると剥がされ、何時も通りの笑顔でこちらを見上げる。
「ひっどー!僕の親愛の表現を、兄ちゃんはそうやって無視するんだねー?」
「オマエな!アレのどこが親愛だ!?グラウンドならともかくアスファルトで転んだら洒落になんねーぞ!」
しかも現在は雨上がり、よく滑る。
自分ひとりならまだしも、軽いとはいえ高校生男子一人を余分に支えきれるほど猿野は己の運動神経に自信はない。
「こんな事で大事な足に怪我でもしたらどーすんだよオマエ。俺は丈夫だからいいけどよ」
兎丸も、猿野の言いたいことが理解できたのだろう、急にしゅんとなってぺこりと頭を下げる。
「…ごめんなさい」
「次、しなかったら許してやるよ」
くしゃり、と何時も被っている帽子ごと頭を撫でてやると、ぴこんと音がしそうな勢いで顔を上げ、今度は正面から猿野に抱きつく。
「うわーい!兄ちゃんだから大好きーっ!!」
「ちょ、兎丸!正面だからいいってことにはならんだろ!?…司馬ーっ!!」
しかし、助けを求めたサングラス+MD+イヤークリップ装備の外見だけは派手な純粋かつ人の良い少年は、おろおろと兎丸の肩を叩くくらいしか出来ぬらしい。
まあそこが司馬らしいと言えば司馬らしいのだが、現状においてはあまり慰めにはならない。
本気でどうしたもんだろうか、と悩んでいると、その小柄な身体がべりっと剥がされた。
まるで猫の子でもつまむように兎丸を剥がしたのは、誰あろう猿野の天敵、犬飼冥その人だった。
背後に苦笑する辰羅川とはらはらとこちらを見守る子津がいるのも認める。
…何でこんなトコに野球部一年が揃うんだ?
確か家の方向もてんでバラバラだったはずだと場違いに首を傾げると、決して低くは無い猿野を見下ろして犬飼がぼそりと呟く。
「バカ猿は礼も言えんのか…まあ仕方ないな、猿だし」
「は?…あ、え…あ、ありがと…」
ぼうっと考え事をしていた所為で何時もの喧嘩腰の言葉ひとつ出てこなかった。
思わず素直に礼を言ってしまったことに気付いた時には、何故か真っ赤な顔をした犬飼と、それを一見丁寧に、実のところ額に青筋でも浮かべかねない勢いで皆の目から遠ざける辰羅川の姿があった。
「だ、大丈夫っすか、猿野君!」
「へ?いや、兎丸に抱き付かれてたくらいで、なんともねえけど…?」
よかったっすー、と笑う子津は本当にいい奴だな、と思う。
些細な事でも本気で心配してくれることは、くすぐったいけれどもどこか嬉しい。
狂犬の処分が終ったと思しき辰羅川も、眼鏡を押し上げながらこちらに笑ってみせた。
「ああ、すみませんね猿野君。助けるのが遅れてしまいました」
「いや、別にいいけど…オマエ等どったの?家こっちじゃねえだろ?」
確か、コチラの方角に帰るのは自分だけだったはずだ。
そこに犬の手から逃れた兎丸がぴょこっと顔を出し、ぴらっと数枚のチケットを広げる。
「コレ!カラオケの割引券!ねーねー兄ちゃん、テストも終ったし部活もないしさ、兄ちゃんも行かない?」
「あー…」
確かに、このチェーンの店舗なら一番近いのは駅前だ。納得と返事の迷いに曖昧な返事を返すと、猿野は思わず顎に手を当てる。
財布の中身は少し侘しいが、5割引となれば多少の無理は利く。
回りの面子をぐるりと眺め、ふと笑みを零して肯定の返事を返した。
とりあえず、辰羅川のお仕置きに打ちのめされた犬飼は見なかった方向で。
店を出たときには、既に日は落ちて街灯がぼんやりと灯っていた。
段々と街中にも人通りが増えていて、電車も込んでるんだろうなあとぼんやりと考える。
きゃあきゃあと騒ぎながら通り過ぎる少女たちの声すらも聞き流して、見上げた空は満天の星空。
「うわあ!兄ちゃん兄ちゃん!スゴイ星、キレイ!」
「んー、ああ、そうだなー」
感動が薄い、と膨れる兎丸をなだめるように笑って見せて、ふと呟く。
「…月齢、14」
ぽつりと呟いた言葉に真っ先に反応したのは司馬だった。ほんの少しサングラスをずらして、先ほどのカラオケで初めて聞いた低めの声でそうだね、明日は満月だよと囁く。
子津も明日も晴れるといいなと続き、辰羅川は来月ヒマがあれば花火でも見に行きますか、と笑う。
そこで、一人ではないことに気付く。
返ってくる答え。確かな、ぬくもりと言葉。
ああ、ここに自分は確かに存在している。
見渡した視線が、唯一声を返さなかった犬飼と重なる。ふと、微笑んでいたように見えたのは、気のせいだろうか?
「…ありがと、な」
聞こえるか聞こえないか、ギリギリの声で呟いた言葉は、誰の耳にも届かなくていい。
これが学生、などというタイムリミットの中の幻でもいい。
今が痛くないならそれでいい。
駅前で別れを告げながらも、その心はほんの少しのぬくもりを、失うことはなかった。
[後日談]
「絶対、兄ちゃんって鈍いよねー!そう思わない、司馬君?」
どう返答して良いのかわからず、司馬は曖昧に首を傾げた。
折りしも現在は放課後。昨日の実力テストの間違った部分を己で修正して再提出、というキツイ課題が提出された為に部活が短縮されており、未だ日は高い。
ぴらぴらと赤いバッテンまみれの答案を眺めながら、兎丸は大仰に溜息を落とす。
「僕があんなにアピールしてるのにさー、きっと弟くらいにしか思ってないんだよー」
まあそれもポジション的には美味しいけどねー、と笑う兎丸に、笑ってる場合じゃないんじゃないかな、とはとても言えず、司馬は参考書片手に黙々と己の答案を埋めてゆく。
教室にはそんな人々がたくさんたむろっている。
理由は単純明快、わからないから間違っているものを持って帰ったところでわかるはずがないからである。
そうなれば正解していた連中の答えを写した方が楽に決まっている。
しかしこうして向かいに座っている兎丸の答案があてにならない以上、己で調べるしかないわけで。
「あ、子津君だー!」
兎丸の声に顔を上げると、誰かを探していると思しき子津の姿が廊下にあった。
呼ばれたことに一瞬ぎょっとしたようだが、兎丸の無邪気に手を振る姿に教室の戸を開け、空いていた椅子を引き寄せて座った。
「兎丸君も司馬君も、例の課題っすか?」
こくり、と頷いて見せると、僕もなんすよー、と苦笑しながら答案を広げて見せる。
どうやら彼も努力したらしく、試行錯誤の末9割近く埋まった答案用紙に見違えて兎丸が目を輝かせていたが、見なかった方向で。
「でも、どうしてもコレだけがとっかかりもなくてわからなくて…司馬君、兎丸君、わかるっすか?」
子津が示したのは今回の数学の難問中の難問。無論の事二人にもわからず、首を傾げることになる。
「子津君、こーゆーのは辰羅川君に聞いた方がいーんじゃないのー?」
「ええ、そう思って探してたんすけど…」
見当たらない、という言葉に三人三様に溜息を落とす。
一番頼れる存在がいないというのは酷く酷なことだ。
誰からともなくがたりと立ち上がると、教室を後にした。
わからないものはわからないのだ、仕方あるまい。
うろうろと学校を歩き回る連中も今日に限っては少なくは無く、目立たずに済んだのは幸いだったが。
こうなったら、と最後の望みをかけて普段は滅多に足を踏み入れることのない各教科の準備室が並ぶ階に足を踏み入れた、その時だった。
「だからさー、小野っち、いくらなんでもコレはやべえって」
「そうかなー、いけると思ったんだがなー」
向こうから、答案とノートを片手に歩いてくる男子生徒と教師。
聞き覚えのある声にまさか、と思いながらも階段のすみに身を隠すと(思えば別に隠す必要はなさそうだが)三人はその男子生徒、誰あろう猿野天国と数学教師の小野塚の会話を見つめた。
「そうかなー、じゃねえよ。いくらなんでも教科書にも載ってねえ、5月のGW前にちょびっとやっただけの公式なんぞ誰が覚えてるんだよ。小野っちテストに出るなんて一言も言ってなかっただろーが」
「いや、分かる奴はわかるかなーと」
「いや分かんねえって。何か嫌な予感がしてノートに書き留めた俺みたいな一握りの物好きだけだって。
正解率1割にも満たねえ問題作るなよ数学教師歴12年」
「少しはこの退屈な教師という職にスリルとサスペンスを求めた気持ちを理解してくれよ」
「したくねえっつーの」
大体スリルとサスペンスってなんだ、生徒の人生を弄ぶなこの不良教師、とかいう掛け合いが続いていたが、もはや三人は聞く気も起きなかった。
こうなったらできることはただひとつだ。
三人は視線を交わして、同時に頷く。
「兄ちゃーん!」
「猿野君!」
「…!」
教えてvと酷く切羽詰った様子で縋りつく三人に、猿野はジト目で数学教師を見上げ。
元凶の原因を作った数学教師は乾いた笑いを漏らすだけだった。
そしてその頃辰羅川はと言えば。
「だからそこはこの公式なんですよ…ってそこはマイナスとプラスが間違って覚えてると何度言わせる気ですか犬飼君!」
狂犬改め駄犬及びクラスの愚民ども相手に臨時講師の真っ最中だった。
「…ああ、この生徒どもが猿野君だったならばもう少し教えがいがありますのに…」
猿野、という単語を耳ざとく聞きつけた犬飼が本物の犬よろしく耳をぴくりとさせて素早く突っ込む。
「…何か言ったか、辰?」
「いいえええ何もっ!言ってませんよ犬飼君!…ってそこも間違ってるでしょうが!」
すぱこーん、と数学の教科書を丸めたモノで犬飼の脳天を直撃する一撃。
落ちた溜息は、二人ほぼ同時だった。
猿総受っぽい日常話で。
タマにはよかろーと思ってさ。おまけは書いてて楽しかった…
でもコレ、猿視点じゃなくて犬視点とか兎視点とかでも楽しかったかも。
しかし自分の中ではどうも馬と猿は同類項な気がしてカップリングになってくれぬ。何故?
そういや自分も定期テストより実力テストの方が得意でしたねー。暗記嫌いだったからなー。
2002.06.16. Erika Kuga