kiss







 そっと、手を取る。
 それは、女の子の柔らかい手のひらとは似ても似つかない硬い感触。名うての打者としての彼の積み重ねた鍛錬の証だろう。
そして、そこにぬるりと伝う感触に眉を潜める。薄暗い此処では視覚での判別は難しいが、きっと赤い、赤い血の色なのだろう。僅かに鉄の匂いがする。
「…アンタ、いつか本当に死にますよ」
 思ったよりも冷たく響いた、生きる気がないのかと言外に詰る言葉。けれど、そうして手を差し伸べた相手はへらりと笑って血に濡れた口元を拭った。
「そういうわけでも、ないんだけどねー」
「じゃあ、どういうつもりだと?」
 このヒトは、自分の為に生きない。常に他人の為に生きている。
 それは、同じ夢を見た実の妹の為だったり、輝かしい未来と希望を抱えて甲子園を夢見た同胞たちの為であったりはしても、彼自身の為では決してない。
 だからこそ、猿野は歯がゆいと思う。自身の矛盾を指摘して、凪の為という言葉を免罪符にする偽善を指摘したのは彼なのに、その彼自身が矛盾に満ちた自分に気付かぬとはどういう皮肉か。
 何時だって恐れている。
 いつか、このヒトが動かなくなる日が来ることを。しゃべらなくなる日が来ることを。その心臓の鼓動さえ止めてしまう日が、間違えようもなく来るのだとこの赤を見る度に考えずにはいられない。
「俺は、生きてるアンタに勝ちたいんです」
 命を削って生きるなんて、そんな矛盾があるものかと吐き捨て、猿野は青白い顔色をした剣菱の頬をつい、と撫でた。
 まだ暖かい事に安堵しつつも、やはり常人のそれよりも冷たい。
 何処までも人を馬鹿にして、ともう少しで零れそうになった罵声は必死で奥歯で噛み殺し、なるべく穏やかな声で最後通告を突きつける。
「…アンタのそんな生き方が、結局アンタが守りたい全てを傷つけるって、何でわからないんですか」
 猿野などよりずっと出来の良いはずの頭を抱えているのに、そういうところは融通が利かない。
 この人が死んで喜ぶ人間なんているかどうか。その逆に悲しむ人間ならば、大して親しくない猿野でも容易に数えられるというのに。
「どうしてだか、わかろうとしないんですね」
 困ったように笑う剣菱は純粋だ。誰も傷つけず、誰の願いも叶えたいと望む。
 本人が望むほどに彼は悪人ではないし、他人が思うほど聖人君子でもない。
 結局、真実を知るのは彼から遠い人間なのだろうと漠然と思う。
「てんごく君は優しいけど…疲れないの?」
「アンタほどじゃないですから、別に」
 猿野の優しさはすなわち世界へのそれだ。別に個人に向けられたものじゃない。
 其処にある優しい空間の為の優しさは、ヒトの為にはならない。
一方的な好意の元に築き上げられた感情を、そうと気付かせないままに世界へのそれへとすりかえるのは慣れた擬似恋愛にも似て誰も傷つけず自分だけに跳ね返る。
 いっそ清清しいまでの自己満足、ここに在る感情を還元するのも慣れたもので。
 ただひとり沢松だけが馬鹿野郎が、と苦く笑う。
「俺はそれでいいんですよ。アンタのそれとは違う」
 本来の意味でヒトを嫌う事は、多分無理だろうと自覚している。けれどそれは、誰も好きにならないと自覚している剣菱の歪みとは根本的に異なるもので。
「アンタ、最初から自分が『居なくなるもの』だと決めてかかってるでしょう」
 ふざけるな、と小さく吐き捨て、猿野は指先を滑らせて掴むものを手のひらから手首へと切り替える。しなやかで強靭なそれは、零れ落ちていくはずの剣菱の生命と裏腹に力強く、それがまた猿野の苛立ちと悲しみを煽るとも知らずに。
「…生きようとも、してないくせに」
 それなのにこれほど優しいのは逆説的にもはや暴力だ。ぐっと噛み締めた下唇からする鉄の味を代償に、猿野は泣きそうな己の感情を必死で堪える。
 泣いてやるものか。こんな勝手な人間の為に泣くのは、優しい少女だけでたくさんだ。
そして、彼女をまるで壊れ物のように大切にしているこの馬鹿な兄は、どんなに追い詰められても必死に彼女だけは泣かせまいとするだろうから、それでいい。
だから猿野は、こんな馬鹿の為に泣いて哀れんでなんかやらない。
「誰も彼も、結局は捨てていくくせに」
 けれど、剣菱は優しい。他人に対して厳しくあれるほどに優しく、だからこそ残酷だ。
 本来かなりの思い入れと共にあるべき本気の優しさを惜しみなく与えながら、心の奥底では誰からもそれを返されることを望んでいない。
「…てんごく君、びみょ〜に手厳しいよね〜」
 へらり、と青白い顔色のまま笑って告げる彼の言葉に、猿野は心底嫌そうに眉根を寄せる。
「だからそれもアンタほどじゃないって言ってるでしょうが」
 ぴしゃり、と言い切った声の硬質さは不安の裏返しだ。
彼の最愛の妹すら置いて、簡単にどこか遠くへ行きかねないこの、生命に対する意欲が希薄に過ぎる少年への不安は尽きる事がない。
こうして幾度となく差し伸べてきた手のぬくもりが、いつか消え失せる日は確実に来るのだと雄弁に物語るから、尚の事。
「アンタは馬鹿だ」
 誰もが愛しているのに、誰もに愛されているのに、それすら打ち棄てて自ら奈落へ落ちずとも良いのに。この一時苦渋を味わったとしても、その後に約束された未来は輝かしく優しいはずなのに。
 それでも鳥居剣菱は、間違った優しさを振りかざして一時の安楽の為に何もかもを投げ捨てる。
 それはいっそ小気味良いほどに愚かで、同時に羨ましい行いだった。
 キャプテンとして一人背筋を張り立つ己の先輩のように、また敵として見えた事がある華武高校の孤高のピッチャーのように、鳥居剣菱もまた絶対的なところで孤高の人だった。
彼の内に踏み込みたいと思う人間は山ほどいるだろうに、その笑顔と柔らかな立ち居振る舞いこそをバリケードとして近寄らせない。
 猿野に対して多少それを緩めたのは、彼の最愛の妹に猿野が寄せる好意と妹自身の淡い想いを知ったからこそだ。そうでなくては、こんなところまでこの人が他人を入れさせるものか。
 そして、知ってしまったからこそ猿野がこの人を切って捨てなくてはならない。それが実の妹にも彼の優しい友人にも出来ぬ以上、偶発的に矛盾に気付いてしまった猿野が、やらねばならない恩返しでもある。
「俺はアンタに借りがある。
凪さんのことを抜きにしても野球に向かい合ってもいいと、認めてくれたアンタに対する恩がある。だけどそれは、アンタが生きてなきゃ返しようもないんだって…本当にわかってます?」
 最後通告のような硬さと冷たさを含んで投げつけた言葉にさえ笑う彼に、もう何も通じないのかと投げ遣りになりながら告げる言葉にさえ返るのは、屈託のない笑顔。
「あはは、てんごく君のことは、俺でなくてもみんなちゃんとわかってるよ〜」
 そうしてアンタだけが理解しないんだ、という言葉はようやくの事で飲み込んだ。
本当は弱い折れそうな背中を伸ばして十二支を率いる彼も、絶対の孤独の寒さに俯かず王者の眼差しを崩さない華武の彼も本質的なところでは理解しているというのに、のほほんとした仮面の下でセブンブリッジを支える彼はちっともわかっていない。
 その、彼が背負ったものの重さと暖かさをどうしてか理解しようとしていない。
 好意も敵意も彼にとっては意味がないのなら、どうして飲み込んだままの言葉を口に出来よう?
「酷いのはね、アンタの方なんですから」
 凪への優しい気持ちは多分、剣菱が抱えるそれと同じ種類なのだと気付いた。気付かされた。
勝ちたいという欲求が何処から来るのか理解してしまったら、もう、世界へ向ける優しさだけで満足できるほど猿野は達観した人間ではなかった。
 優しい世界への反射的優しさではなく、苛烈なまでの熱情で以って語られる言葉が辛辣なのは当然だ。そこに本来の感情を転写するつもりがなくても、いやだからこそ。
 さらり、と凪と同じ色の髪を撫でると、薄っすらと汗ばんだ額の感触に溜息を落とす。苦しいなら苦しいと言えばいいと誰もが思っているし猿野はそう罵りさえするのに、緩い笑顔を絶やさぬままこうして命を削り落とすような真似を剣菱は平気でしてくれる。
 もう慣れ切った状況にもう一度落としそうな溜息を飲み込んで、ぱきりと錠剤のパッケージを割って彼の口中に押し込み、ミネラルウォーターを押し付けた。
 素直にそれを傾け、こくりと喉が動くのを確認して漸く安堵するのももう日常化した。それでも自分に弱ったところを見せるのは、開き直りなのか、それとも。
 荒い呼吸が落ち着いて、それが穏やかな寝息に変わるのを沈黙のまま見届けて、猿野はぽつりと呟いた。
「…何時になったら気付いてくれるんでしょうね、アンタ」
 小さな呟きは、猿野の心の軋みであり剣菱の歪みそのもの。この感情が行き着く先はシアワセとはほど遠いのに、止められないのはきっともう狂っている。
 猿野が望むのは、彼が死に急がない事だけ。それ以外は想いの成就も自身の幸福も何も願ってはいないのに、見当違いの優しさで本来の望み以外を叶えようとしている。これが酷いことでなくてなんだというのか。
「ホントに酷い人ですね、アンタ。…だけど、それでも俺は」

 あなたが好きです、と囁いて。
静かに眠る彼の額に、泣き出しそうな心を堪えて優しく口付けた。





2005年1月の大阪シティにて配布した
お年玉企画剣猿小冊子収録の一本を再録です
表紙はやけにらぶりーだったのに、中身はそれを裏切る薄暗さがお気に入りです(ええ!?)
酉年だから兄猿、という安易な企画でしたが結構貰っていってくれる方がいらして良かったですv
2005.05.18. Erika Kuga