茨の朝
息をすることさえ苦しくて、目覚めた瞳に差し込む朝日さえ苦痛で。
そんな朝など来なければいいと、願う事は叶えられなくて。
ただひとつ、もうあきらめればいいと思っていた事は手に入るだなんて、人生は本当に馬鹿げている。
そんな皮肉を脳内に巡らせて、犬飼は薄く溜息を落とした。力のないそれは存外に大きなものとなっていたが、誰も気に留めないのは幸か不幸か。きり、ととっくに直ったはずの癖だったのに親指の爪を噛んで、微かに触れる視線をやり過ごす。
諦めたはずだった。
確かにこの心で望みはしたが、そんなものを手に入れることで失われてしまうものはあまりにも多すぎたから、誰にも望みを口にする事無く態度にあらわす事無く奈落の底へと葬り去ったはずだったのに。
何故かその、単体として以外薬にはならず毒にしかならないものを諦めて手に入れたはずの平穏だとか安堵だとかそういった感情を跳ね飛ばして、ようやく犬飼が諦めたはずのものだけがここに転がり込もうとしている。
なんの冗談だ。
これはどういう了見なのか。
痛みだけがそこにある。それ以外は何もない。
真っ直ぐにこちらを見る、その茶水晶の瞳さえ苦痛だ。
「…だから、テメエは嫌いなんだ」
無遠慮にヒトの中にずけずけと入り込んでおきながら、自分を晒す事は決してない。薄皮一枚隔てたオブラート越しに、犬飼の中を掻き荒らす。
無遠慮で不躾で、どうしようもなく無軌道なその感情的かつ本能的な彼の全てに、いったいどれほど希望と絶望を抱えればいい?彼から与えられるひょっとしたら愛情と呼べるかも知れない欠片だけを掻き集めて、いったい俺に何をさせるというのだ。
それでも、その笑顔に一点の曇りすらなく、ただ真っ直ぐに過ぎる瞳で此方を見る。その全ては全身全霊を傾けたものであり、少しのごまかしもありはしない。
彼が誤魔化すのは、いつでも彼の痛みだけだ。
それだけでしかないから、犬飼はこの差し出された手を拒むことも受け入れることも出来ずにいるのだというのに。
「…ムカつく」
答えはとうに出ている。
ただ、そこに投げ出されたままのそれを答えだと認めたくないだけで。
何の努力もせずに、むしろ捨て去ろうとしてさえいたものを躊躇いすらなく拾えるほど愚直には出来ていないだけだ。
笑う。遠くからアイツが馬鹿騒ぎする声が聞こえる。数人の笑い声と悲鳴めいた叫びと、交じり合った歓声。
そうして大勢に混じって馬鹿をやっているのがお似合いなのに、どうしてそれほど真摯で真っ直ぐで揺ぎ無い眼差しで俺を見るのだろう。透明に過ぎるそれに透ける想いに、答える言葉など何処を探っても出て来たりはしないのに。
迷惑だ、と言い切るにはこの心の内にあるものが複雑過ぎて、手放しで受け入れるには纏った外面が邪魔だ。どっちつかずのその状態を、アイツはそれでも薄く笑って受け入れたまま、それ以上の言葉は何もない。
いっそ、切り捨ててくれたら良かったのに。
迷う理由はいくつもあるのに、迷わない理屈は千切れて散らばったまま所在すら知れない。思わず見つめた手のひらにこびりついた土の匂いは、慣れ親しんだそれだというのに。
落ち着かない。何もかもが言葉にならず、かたちにならないこの不快感。
わざとそらした視線の彼方で、けれどもやはりアイツは笑う。
その笑みが、痛みさえ含んでいなければいいのだろうかと、思わず己に問うた犬飼の額を、つうと汗が流れ落ちていった。
明日も来る、茨の朝のその色を示すように。
やはりそれも不快しか呼ぶことはなかった。
リハビリ小話犬→←猿。
犬飼さんがヘタレ過ぎて何も言えない…
構って欲しいの丸わかりなのにみんなの輪に混ざりも出来ない辺りがまた
そして笑って何も言わない猿野さんの男前具合にまたどうしたら
ぼちぼち復活したいですよー…
2004.07.02. Erika Kuga