edge
その先にあるものが未来だなんて、一体誰が決めたんだろう。
ゆっくりと目を開ける。
頬に触れるコンクリートの感触は決して優しくも暖かくもなかったけれど、居心地はそう悪くはなかった。
五月蝿い外の騒音は、壁一枚隔てたことで酷く他人事めいていて薄く笑う。
どうでもいいじゃないか、そんなこと。
口の中が不味い。鉄の味。少し痛む頬の裏側が特に強くて、少し切ったようだ。
殊更慎重に右腕を上げる。
軋むような違和感と少々の痛みの他は目立った傷もなくて、猿野はほっと胸を撫で下ろした。…気分だけだけれど。
持ち上げた右腕を打ち放したコンクリートの床について支え、軽く息を止めて身体を起こす。
あらゆるところに走った痛みは散漫で焦点が合わず、どこかぼやけて不確かだった。
その事実にこそ、怒りを覚える。
「痛いんなら…痛みってのは、もっと強い方がいい」
こんな、投げ出すことが許されそうなか弱いものではなくて。
だらだらと続く慢性的な疾患の如きものではなくて。
もっと、鮮烈な。
「…足は、上がんねえか」
服の上からでも腫れが分かるほどに痛めた足は、腕ほど言うことを聞いてくれはしなかった。
確かに、酷使はした。
ここまで役に立ってくれたのだ、仕方のないことなのかもしれない。
それでもようやくのことで身体を起こし、床と同じくコンクリートが剥き出しになった壁に背をもたせかけてずるずると座り込んだ。
待つのは嫌いだ。
寒いのはもっと嫌いだ。
お盆もあけて外気は滅法涼しくなった。秋の匂いすら漂わせるそれは、こんな場所に居る人間にとってはちっともありがたくなどはない。
背中からじんわりと冷たさが染み入って来る。
それが何か良くないもののような気がして、猿野は乾いた唇を舐めて吐息を漏らした。
逃げ出したくて。
逃げる場所などどこにもなくて。
彷徨い続けられるほど強ければよかったろうか。
「…わっかんねえ…」
ぼんやりと見上げた天井は白く薄暗い。
コンクリートの灰色が、外の街灯を弾いている為だろうか。
きゃあきゃあと騒いで通り過ぎていく女の子の声が五月蝿い。
何ももう聞きたくはなかったし、聞こうとする気力もなかった。
真実と事実と理由はいつも残酷で、猿野のほんの少しの希望すら打ち砕く。
諦めればいいのに、捨ててしまえばいいのに、みっともなくしがみ付くことしかできないからだ。
少し曖昧な視界の中に、己の手のひらを入れてみる。
びっくりするぐらいに血の気がなくて、きっと顔色も酷いことになっているんだろう。
投げ出したままの足の痛みは猿野が望むほど酷くはなくて、けれども逃避するための眠りに落ちることを拒むほどには強くて。
苛々する。
大切なものはさほど多くない。
例えばそれは好きな人の笑顔だったり優しい人の手のひらだったり、傍らにある人の声だったり。
ささやかで得難いものばかりだ。なのに。
決して多くないけれど、それ故に取り零す。二度と盆の上には戻らない水。
こうして街の片隅に転がってそれらを懐かしんでも還ってくることだけは決してないのに、未練だけが心の奥にべったりと張り付いて、取れない。
「それでも」
いけない、と頭のどこかが警鐘を鳴らす。
じわりと滲む暗い赤。
ああ傷口が開いたのだ、と冷静な己が呟いた。
途端に強くなる痛みに、不釣合いな笑みを猿野は唇に頬に刻む。
コンクリートの灰色を染めてゆく血の色はとても黒くて、まるで己の心根のようだと思った。
一呼吸ごとに強くなる痛みは、強くて酷くてそして楽しい。
「痛いのも苦しいのも辛いのも…俺だけでいいから」
どうか、大切な人にまで及ばないように。
優しい人を悲しませないように。
傍らにある人に気付かれませんように。
願わずにはおれない。
コンクリートは相変わらず冷たくて、硬くて、まるで何某かの悪意のようだ。
けれど居心地は、そうだ、悪くは無い。
うっすらと最後に閉じかけた網膜に、焼き付いたのがそれなら、悪くない。
「よう…犬コロ」
面白いところで会うじゃねえか、と笑って見せると、一言「バカか」と返ってきた。
ああそうだな、バカだろうと思うよ。
こんな人気の無いところで無意味に死にかけてる俺がバカ以外の何かに見えたらそいつを尊敬するだろうさ。
言葉と一緒に口の中の不味さは増えてゆく。
そのうち、唇の端から溢れ出すだろうと思うくらいには。
ずるずると足を引き摺って、猿野は差し出された犬飼の手を拒んで立ち上がった。
一呼吸ごとに身体を削り取られるような錯覚を覚える。
「バカでもいいさ…痛いのは嫌いじゃない」
明らかに不快の意志を以って、犬飼の眉間に皺が寄る。
元から不機嫌そうな面してやがるから、余計に笑えるんだが。
「痛いのが俺だけなら…嫌いじゃない」
とん、と再び背をコンクリートに預ける。
短くは無い時間背をもたせかけた個所とは異なって、酷く冷たいその感触にぴくりと肩が跳ね上がる。
「…俺はどうなる、バカ猿」
ぎゅっと、犬飼が己の胸元を掴んだ。
しわくちゃになるシャツの色は白い。制服のYシャツだ、と見当違いのことを思う。
その指先が震えて見えるのは、俺の視界がぶれる所為かな?
「おまえが痛いと俺も痛い…俺はどうなる?」
「…さあ」
わざと上目遣いに犬飼の夕焼け色の瞳を見据えた。
奇麗な色だと、漠然と思う。
じわじわと滲んでくる血の色が、きっと犬飼にも見えているんだろう。
でも、駄目だ。焦るにはまだ早い。
「…どうする?
それが見たかったって、言ったら」
どうするよ?
くっ、と喉で笑って、猿野は今度こそずるずると壁に背中を擦りつけるように床に落ちた。
膝はとっくにガタガタで、もう一度立ち上がろうと思っても今度は無理だろう。
余計に開いてしまった所為で見づらくなった犬飼の顔にそれでも視線を合わせて、晴れやかに笑う。
「いっこだけでよかったんだ。いっこ手に入ればそれだけでよかった。
そのいっこがオマエだって言ったら」
オマエは、どうする?
問われた言葉はこれほど明瞭ではなかったけれど、犬飼には十分すぎるほど意味を持った言葉となった。
反芻するように言葉にならない言葉を何度か口の中で呟いて、次いで盛大に眉を顰めて溜息を落とした。
「…おまえの愛情表現は、分かりづらい」
呆れたような物言いだったが、浮かんだ笑みは優しく柔らかいそれで。
「病院行くぞ」
「行きたくねえ」
我が儘言うな、とひょい、と軽く担がれて猿野はじんわりと伝わる体温に安堵する。
暖かい。
まるで注射針のように短絡的で冷ややかな、刃を思わせるコンクリートの冷気と相対するそれに、自然頬が綻ぶのを感じた。
実際には運ぶ犬飼の歩く振動でさえキツかったのだけれど、そんなことくらいどうでもいいと思えるほどには、多分。
「…猿」
ぶっきらぼうに犬飼が呟く。何だ、と声を返す前に、夜の雑踏に紛れるくらい小さな声が猿野の鼓膜に響いた。
「オマエの逃げ場所くらいには、なってやる」
「…上等。犬にしちゃ、いい返事じゃねえか」
傷が治ったらご褒美くれてやらあ、と笑う猿野のシャツに滲んだ血の色に、犬飼はそれでもぎこちなく、笑って見せた。
痛みは、嫌いじゃない。
できるなら、刃で裂くような鮮烈なそれがいい。
ここにいることを、位置付けるように。
けれど。
柔らかく優しく暖かいものの方が、きっと好きなのだと。
犬飼の熱に触れて揺られながら、猿野は睡魔に身を委ねながらぼんやりと考えていた。
犬猿祭に投稿したお話その3。そろそろ諦めた(早っ!?)
連載のお話をぼんやり考えながら書いてたら、設定が被った。しかし断じてバトミスではない。
猿は「死んでもいいや」と思ってたわけじゃないですからね。
痛い、という感覚が己を現実に縛り付けてるのが心地よいだけですもん。
だから後は犬飼さんのヘタレ脱却に全てがかかってるんだ…多分…
連載予定のお話のサイドストーリーかプロローグが習作か、そんな位置付けでよいと思います。
Erika Kuga