午前零時のシークレットコール
「いらねえっつってんだろ!!」
何時もの如くの二人の喧嘩。最初は些細な事から始まったそれは既に二転三転角度にして180度を軽く越える程に転がり、本人たち以外誰も今の会話の流れはわからない。
というか、これほどわけのわからない会話を二人だけ理解してやってるくらいだから実際は相性が良いのではなかろうか。全くもって傍迷惑な。その場で着替えていた部員全員の、それは心のツッコミだった。
尤も肝心の二人には毛の先ほども届いてはおらず、声を荒げた猿野が睨みつけるように犬飼を見据えてまくし立てている。
「俺は今のままで何も困ってないからいーんだよ!」
「だからそれは俺が困るって言ってるだろう!?」
「何でオマエの為に俺がそんなもん気にしなきゃいけねーんだよ!」
筋が違うだろう、と猿野が犬飼を蹴り飛ばす。それを間一髪で避けた犬飼だったが、既にそれを予想していた猿野の下方から抉るような黄金の左のアッパーカット、続いて右ストレートを顔面に食らい、撃沈。ヘタレのヘタレたる所以だろうと辰羅川は眼鏡を押し上げ溜息を落とした。
頼むから怪我人だけは出してくれるなよ、と牛尾は天井を見上げ、子津と司馬は不安そうに視線を巡らせている。けれどそんな皆の反応など何処吹く風、猿野はもはや殴り倒した犬飼の方など見向きもせずに手早く着替えると荷物を纏め、お疲れでした、と一礼して部室を出て行ってしまった。
あまりの素早さに呆気に取られ、それをみすみす見逃してしまった皆は一様に気の毒なものを見るような眼差しで猿野に殴り倒された犬飼を見遣った。
今も尚床にオチたまま小さく痙攣を繰り返す犬飼は、起きる兆しもない。無理もなかろう、かなりの事見事に決まったあのアッパーカットは、ボクシング部からスカウトが来ても可笑しくないほどに強烈だった。本当に猿野が野球をしているのはいろんな意味で間違っている気がしないでもない。
「チェリオ君は、どちらかというと格闘技系向けな気がするけどねえ」
「尤も也」
溜息を落としつつ未だ床に這う犬飼を見遣り、ほう、と牛尾は再び溜息をひとつ。これだけのパワーがホームラン級のバッティングを生むのだろうが、明らかにバットを振るよりも素手で殴り倒す方が効率的なような気がする。何が、とは考えたくないが。
そんなことをつらつらと考える牛尾の隣で隣で数珠を構える蛇神は…ひょっとしてこのまま彼岸の彼方に行ってしまったら読経でもあげてくれるつもりだったのだろうか。まだ犬飼君は死んでません、と辰羅川に突っ込みを入れられている。
「相変わらず…お猿の兄ちゃん口説くのは命がけだねえ。まあ好き好んでやってんだからいいんだけどさ」
「程ほどに加減はしてくれているはずだけどNa…」
以前全くこちらを意識していない無防備な猿野に対してちょっかいを出して現在の犬飼の如くに彼岸を見た虎鉄が遠い目で視線を反らした。ある時あんまり無防備だったのでついついちょっかいを出してしまった虎鉄に対して、これまた猿野もいつものように手加減や意図など全く気にせず反射的に殴り倒してしまったらしい。その日虎鉄はお空の上のひいじいさんにご対面する羽目となった。殆ど泣きそうになりながらこちらをゆさぶる猿野の様子に、もはや怒りも呆れもなくただ生きててよかったと噛み締めるのみだった。あまり思い出したくない記憶ではあるが。
本気の猪里のボディーブローもかなり効くが、二度と食らいたくないと本気で思うほどにはそれに匹敵するものがあった。だからといって猿野へのちょっかいをやめないのは虎鉄が虎鉄たる所以ではあるが。
「さっき見てたけどしっかり急所は外してたのだ。心配いらないのだ」
さっさと起きないのはデカイくせに体力ないのがいけないのだ、と、鹿目は喉を鳴らして笑った。実際どちらがおもちゃなのかは不明だが鹿目は猿野と意外と仲が良い為、犬飼のヘタレ具合には同じピッチャーということもあって採点が辛くなるのだろう。
「でも…マズイっすよ〜、犬飼君ホントに起きないっすよ!?」
おろおろと周囲を見回ししゃがみ込んで犬飼を揺さぶる子津は本気で泣きそうだ。同じように救急箱を探して慌てる司馬もある意味この野球部の良心であろう。
「心配いりませんよ、子津君。こういうときには、こう」
言いながら、どこからともなく水を詰めたペットボトルを手に辰羅川が、おもむろに犬飼の丁度真上でそれをくるりと引っ繰り返した。ざばざばと落ちた水は犬飼の後頭部へと流れ落ち、半瞬の後にがばりと犬飼が起き上がる。
「辰…テメエ、何しやがる」
「いつまでもそんなところでノビてられては、迷惑ですから。
…そんなことよりも」
くい、と眼鏡を押し上げ、辰羅川はすいとドアを示した。次いでからっぽになった猿野のロッカーを示して唇を吊り上げる。
「猿野君、帰っちゃいましたよ」
「…!!!」
そこからの犬飼の行動は素早かった。濡れた髪を拭こうともせずにユニフォームを脱ぎ捨てYシャツを羽織り、釦を留めるのもユニフォームを鞄に突っ込むのも煩わしいとばかりに釦は半分以上留めずまたスニーカーの踵を踏んだまま、慌てて部室を出て行った。ヘタレのクセにこういう行動は素早いんですから、と溜息混じりの辰羅川の声が沈黙した部室に響く。
「…辰羅川君、床水浸しなんだけど?」
にっこりと微笑む牛尾キャプテンに、辰羅川はやれやれと肩を竦め、雑巾を手に取る。
「片付けますよ、まあ犬飼君への負債ということにしておきますから」
にやり、と笑い押し上げた眼鏡の奥の眼差しが非常に楽しそうだったが、それを唯一見た子津は美しい友情だなあと見当違いのことを考えていた。
「待てよ、猿!!」
後ろから追い縋るように駆けて来る犬飼の様子に、猿野はちっと舌打ちをする。あと一時間は目が覚めない程度に殴ったつもりだったのに、意外としぶとい。仕方なく立ち止まって振り返り、その散々な様子に目を見張る。
「オマエ…何、ソレ」
「…殴った本人がよくもまあ…」
じんわりと赤くなった頬。インパクトの瞬間に手を緩めたからさほどの威力にはなっていなくてせいぜい平手打ち程度だろうけれども、それ以外にも。
例えば、雫が零れるほどに濡れた髪だとか。中途半端に留められたYシャツの釦だとか。ユニフォームがはみ出た鞄だとか。
笑える。無性に格好悪い。けれどもそこから零れたのは、爆笑ではなくて本当に零れるような苦笑だった。
「ナニ、ソレ…そんな格好してまで、俺を追っかけて来るんだ?」
「当たり前、だろう…とりあえず」
話は終ってない、と低く唸るように告げる犬飼の声に、猿野はぷっと耐え切れずに吹き出した。可笑しい。これが可笑しくなくてなんだっていうんだ。痴話喧嘩以外の何モノにもならなくなってしまう。
「俺、もー携帯いらねえって言ってんじゃん…それ、覆す気はさらさらないぜ?」
合宿のクロスカントリーのドサクサに、壊してしまった携帯電話。元々親が入学祝いとかで勝手に契約して勝手にくれて寄越したものだったから、ないならないで一向に構わないのだが。
目の前の犬飼は新しいのを買えと五月蝿いわけで。
「家には電話があるし、俺メールはモバイル持ってるから拾えるし。あ、アドレス新しいの送ったよな?
通話料とか基本使用料とか勿体ねえから買う気ねえんだよ」
「…だから、ないと俺が困ると言っている」
こんな調子でここ数日繰り広げられている会話。全く噛み合わないけれども、双方それ以上の己の意見を出そうとしないのだから仕方のないことかも知れない。
いい加減苛々としているらしい犬飼の眉間の皺を眺めながら、仕方ないなあなどと思ってしまう。
大体、言いたいことはわかっている。
けれど猿野は、それを犬飼の口から聞きたいと思う。だから気付かないふりをしている。
答えは、俺が言うんじゃない。
おまえの口からそれを聞きたい。
ふと、にこやかな笑みを向けてやると、犬飼はぽたりぽたりとアスファルトに水滴を垂らしながら躊躇いがちに口を開く。
「…俺が、オマエの、声を…聞きたいからだ」
それだけの一言を随分と長い時間をかけて言い終えて、途端に真っ赤になって顔を伏せた様子に、猿野はもはや耐え切れないと言った様子で笑い出す。
ああ、もう、ヘタレのクセに。
そんな台詞言うのにこんなに時間かけてるクセに。
「しょうがねえよなあ…俺がおまえがいいんだから」
くつくつと笑いながら、猿野はとん、と犬飼の胸を叩いた。少し濡れた冷たい感触に、更に唇が綻ぶ。
「それに、別に俺が携帯持たなくても夜なら直接電話かけてくれば?」
俺の部屋、母屋とは回線別にあるんだから、と首を傾げる猿野に、犬飼は呆気に取られて固まった。そういえば、何故か子機ではなく親機が部屋にあったような気はしていたが…
「知らなかったっけ?」
電波状況が悪くて子機が使えないからいっそのこと新しい回線を引いたのだ、と告げる声に、いよいよの事力が抜ける。
「…初耳だ…」
力尽きたようにがっくりと肩を落とす犬飼に、心底可笑しそうに猿野が笑う。
本当に、よく笑う猿野。その笑顔が、犬飼はけれど好きだったから。自分がどんな馬鹿をしても、猿野が笑っているのならそれでいいと思ってしまう。末期だ。
猿野が耳元で囁く。その言葉に目を見張り、次いで照れを隠すように手のひらで目元を覆った。これが、これだから、コイツを好きで居ることをやめられない。
そのまま目を押さえた手で濡れた髪をかきあげると、満面の笑みで笑う猿野に向けて、犬飼も小さく笑う。
囁かれた、午前零時に鳴る電話の約束が胸に灯す炎。
それが案外に暖かい事が、犬飼は何故だか酷く嬉しかった、から。
三月ハツカ様のリク、犬猿で電話ネタ、ということでした。
しかしここでひとつ問題が。
玖珂さん電話が心底嫌いなので、今時携帯すら持ってません。
…ネタの探しようが…ないのでわ…?
困った末に猿野に己を投影してみました。苦肉の策という奴です。だから電波状況が悪くて子機が使えないのは玖珂さんちです。ラジオも満足に聞けません…
ああ、ヤケに少女漫画くさい辺りが泣かせます。ていうか流石に出てきた早々アッパーカットと右ストレートに沈んだ犬飼さんが哀れになりました。合掌。
何はともあれこんな感じに。スミマセン三月様…(汗)
2002.10.13. Erika Kuga