会いたい。





 会いたい。
 理由なんてあやふやで、ただ衝動だけが支配する感情。
 会いたい。
 時間も何もかも意味をなくして、ただその声と、その感触と、熱と。
 飢えるほどに求める心だけが先走る。
 …会いたい。
 こんなに会いたいと願ってしまうのは、どうしてなんだろうか?




「…バカじゃねえの、俺…」
 もう、慣れるほど通った高校への道を猿野は急いだ。
 早朝、中学時代には考えられなかったほど早い時間に急いたように足を進める。
 教科書なんぞ机とロッカーに置きっぱなしだから鞄は軽いはずなのだが、もうひとつのスポーツバッグ、部活の道具が入ったそれはずしりと重い。
 高校に入って、女の子の為に始めた野球。
 けれど始めてみれば苦しいことばかりで、けれども、楽しくて。
 そう、楽しいと感じた。
 今までこれほど真剣に何かをしようとしたことなんて、一度たりともなかったから。
 そうでなければこんな時間にわざわざ好き好んで学校なんぞに行ったりするものか。
 しかし、今の時間は朝練にしても早い。
 何故そんなに早く学校に行くのか。
 そこで冒頭の一言に帰結するわけだ。
 ずしりと重いスポーツバッグすら、足を止めるなんの理由にもなりはしない。
 早朝眠気にボケているはずの頭も妙にクリアで、余計に忌々しい。
 ホント、バカじゃねえの、俺。
 会いたい、と思うことに問題はない。ないはずだ。
 ただ問題なのはその対象なわけで。
 もどかしげに未だ空いていない正門ではなく通用口に身体を滑り込ませ、ほぼ駆け足でクラブハウスへと向かう。
 昇り始めた朝日がアスファルトを力なく照らして、その照り返しに思わず目を細める。
 近くなる、グラウンドの土の匂い。
 つい先ほどまでまったく縁のなかったはずの、けれど今は何より落ち着く匂い。
 それを朝の少し冷えた空気と共に思い切り吸い込むと、勢いよくドアを開ける。
「やあ、おはよう」
 予想通りのその姿に、猿野はがっくりと肩を落とした。
 最近10分刻みで登校時間を早くしているというのに、この何より野球とグラウンドを愛する部長よりも先に辿り付けた試しがない。
 今日は自信があった。わざわざ始発の電車に乗ってきたのだ。
 今日こそ既に練習を始めながらこのキャプテンににこやかに「おはよーございます」と言ってやるはずだったのに。
 牛尾御門、侮り難し。
 しかしこれ以上早く、となるとかなり遠い地区から登校している猿野には学校に泊まりこむほどの覚悟が必要になってしまう。
 小学校のキャンプで使った寝袋はまだ使用可能だろうかと本気で悩み始めた猿野の顔を無敵の鉄壁スマイルで覗き込み、牛尾は問い掛ける。
「…チェリオ君?どうしたの?」
「うぇ!?いいいいいいえ!何でもないっす!」
「そうかい?じゃあ僕は一足先に練習を始めてるよ」
 明らかに動揺した声と態度であったが、牛尾は動じずににこやかにグラウンドへと去っていった。
 相変わらず謎の人だ、とその朝っぱらから無駄に爽やかな後姿を呆然と見送り、次いで慌てて学生服をロッカーに放り込む。
 スパイクに履き替えてグラウンドに駆けつける頃にはもう随分日は高くなっていて、その朝日をバックに牛尾が相変わらず楽しそうにバットを振っていた。
 ああ、この人は野球を好きなんだなあと思う。
 同時に覚えた、ちょっとした寂しさは見なかったふりで。
 まだ、覚えたての野球は楽しい、とか好き、とかそういったレベルにはなっていなくて。
 毎日少しづつでも上達すれば嬉しいし、凪さんの笑顔を見るのはもっと嬉しい。
 嬉しいことは、いいことだ。少なくともその逆よりかは、ずっと。
 笑っていてくれればいい。誰も悲しい思いなんて、しなければしない方がいい。
「…キャプテンは」
 ん?と上機嫌な笑顔のまま振り向いた牛尾の表情に陰りはなくて、そこに安堵と焦燥という相反した感情を抱く。
 それを無理矢理噛み砕いて飲み下して、猿野は慣れた笑顔を顔に貼り付け呟く。
「本当に、野球が好きなんですねえ…」
「そりゃあね、グラウンドは僕の恋人だからねえ」
 ちくり、と痛む胸。会いたいと願った時も会ってからも消えないその痛みは、けれども不愉快なものではなかった。
 絶対に純粋な日本人ではないと猿野が確信する彫りの深い端正な顔立ちと光を透かす金髪。
 そして何より、野球をしている彼はとてもとても綺麗だ。
 それは彼が何より野球を愛しているからなんだろう。
 彼が3年間かけてようやく手をかけようとしているところに、少しでも力になれたら、と思う。
「キャプテン」
 痛みが胸に広がる。言いたいのはこんなことじゃない、と心が叫ぶ。
 けれど理性と感情が指し示した言葉を、偽者の笑顔と共に猿野は告げる。
「甲子園…絶対行きましょうね」
「無論、だよ。チェリオ君」
 僕等が新しい伝説を作るんだ、くらいの気概じゃないとね、と悪戯っぽく笑ってみせて、牛尾はぽんぽんと猿野の頭を撫でた。
 土で汚れ、皮が硬くなった手のひらは見かけほど繊細なものでは在り得なかったけれども。
 何より優しい手のひらだった。
 野球の次でも、何だったら一番末席だっていい。
 この人の「好き」の端っこにでもいられたら、それでいいんだ。
 撫でてくれる手のひらの温もりに自然と零れた微笑みは、けれど伏せた顔の為にグラウンドくらいしか知る者はないだろう。
 それでいいんだ。
 会いたい、と願って、こうして毎日会える。
 今はそれだけでいい。
「おや…みんな来たね」
 気がつけば朝練の始まる時間は近づいていて、ぱらぱらと皆が集まり始めていた。
 慌てて牛尾から離れようとすると、今までで一番優しくくしゃりと髪を撫でられる。
「…大丈夫、野球と同じくらい…」
 囁くような小さな声。けれども不思議に真っ直ぐに、心に届いた言葉の欠片。
『君が好きだよ』
 かあっと熱くなった頬に手を当てて、照れ隠しのようにばたばたと走り去った猿野の背中を、牛尾はくすくすと笑いながら見送った。
「ああもう…可愛いったら。
だいたいいくら僕が野球ラブでも、毎日日が昇る前、始発の電車よりも早くからわざわざ学校で練習なんて目的がなければしないっていうのに…」
 くすくすと笑い続ける牛尾のことを見ることもできず、猿野は必死でグラウンドの端へと駆け去っていった。
 そのいつでも必死で我慢強くて天邪鬼な少年が、野球を好きになってくれて。
 自分のことも好きになってくれたらいいな、なんて。
 大それた望みかなと思っていたんだけれど。
「これは…望みあり、かな?」
 他の部員の己を呼ぶ声に今行く、と振り向き、駆け去った背中にくすりと笑う。
 大丈夫、夢は現実にするためにあるんだ。
 第一歩は僕等の手で刻む。
 とりあえず、会いたいと口にしてみること、からかな?
 始まったばかりの今日が昨日と違う色を見せ始めたことに、牛尾はほんの少し心を浮き立たせた。






<おまけ>
 辰羅川信二は困惑していた。
 目の前にあるはずのないものがあることに思わず眼鏡を押し上げたまま固まるほどに困惑していた。
「…犬飼君」
「なんだよ…辰」
 寝起きがすこぶる悪い同級生に振ると、案の定非常に眠そうな声が返ってくる。
 また8割以上寝ていて本能だけで足を動かしている状況なのだろう。しかし現在の状況においてその程度は何の驚きにもなりはしない。
「犬飼君…僕の目の前にあるのは、どこをどうみても『馬』なんですが…僕の目はそんなに悪くなりましたかね?」
 一瞬の沈黙。
 眠そうに視線を泳がせていた犬飼が面倒くさそうに視線を向けた、その先には確かに。
 馬。
 しかも白馬。
「…馬だな」
「馬…ですよね…」
 二人バカみたいに立ち尽くしながら、辰羅川は視線を微妙にずらしながら、ぼそりと呟く。
「キャプテンが馬で登校って…アレは本当の話だったんですか…アンビリバボーですね…」








最初は犬猿のつもりで書き始めたんですが。
部室で「おはようv」とそりゃあにこやかに笑いかけるキャプが…あああ。
しかし牛キャプ!キャプは結構書くの大変でした!
何をどう書いてもコメディにしかなりませんヨキャプっ!!
おかしい…犬の時には切ない系のはずだったってのに…
2002.05.11. Erika Kuga