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 共に走るということ。
 そういえば、意味を考えたことなどなかった気がする。

 東海道の一日はすこぶる忙しい。
 本来の業務である東海道新幹線の運行だけでも骨が折れるだろうに、更にはJR東海の全路線を統括し、その正常な運行に関わる様々な部署との折衝を一手に引き受けている。
 のみならず、JR高速鉄道のトップとして全社に対しての窓口にもなっており、報告書や意見書が山のようにその机の上に積み上げられる光景を、山陽は何度もこの目で見てきた。

 そして、今もまた何度も繰り返した情景が目の前に広がっている。

「……無理すんなよって、言ったのになー」

 JR東海の稼ぎ頭、名実共に日本一の高速鉄道の執務室に相応しく簡素でありながら上等なもので纏められたその部屋の隅。やわらかいソファの上でぐったりと横になっている物体に肩を竦める。
 それでも床ではなくソファに移動する気力が残っていただけ褒めてやるべきだろうか。
「おい、とーかいどー?」
 生きてるか、と声をかければ、返事とも言えないような唸り声が聞こえてくる。とりあえず息はしていることに安堵して、丸くなったそれの傍にどっかりと腰を下ろした。
 ぴくり、とわずかに腕が動いたような気がしたが、じっと見つめてみても動く気配すら無い。喋ることなど余計に無理だと判断した山陽は、そっと手袋を外した右手を伸ばして散った髪を梳いた。
 癖っ毛があるわりにはさらさらとした感触の東海道の髪は、ひっかかりも無く指先から次々と零れ落ちる。文句がないのをいいことに、そうして数度指を滑らせ感触を楽しんでいると、唸るような声と共に冷たい指先が山陽のそれを掴んだ。
「いつまで……やってる、山陽……」
 それでも起き上がるまではいかないのだろう、視線だけでこちらを見上げる東海道の顔色は相当に悪い。冷たい指先と相俟って、本来ならばそのままベッドに放り込みたい状態だ。
「やっとお目覚め?起きられるか?」
 手を貸してやれば、何時もならば撥ね退けられることがほとんどのそれにそっと縋る指先。どこかぼんやりとした瞳に、うっすらと汗ばんだ額。
 どう取り繕ったって病人だ、と溜息をひとつ落として、起き上がろうとして自力ではそれも出来ないでいる東海道の腕をわずかに引く。
「っ、さんよ……!」
「いいから」
 ぽすり、と東海道の頭が落ちたのは山陽の膝の上。
 まあ、女の子でも無いので硬くて寝心地はあまり良くなかろうが、この際は勘弁してもらうしかない。そっと上を向いた東海道の双眸を手で蔽って、囁くように静かな声で休め、と呟いた。

 ずっと共に走ってきた。
 傍らには必ず互いがあって、それはもう当然のように思っていた。
 仲間が増えて、車両は充実した。
 かつて夢だった速度で乗客を運ぶ新幹線の意義は、あの頃よりもずっと重いものになっている。

 山陽にとって、今までもそしてこれからも、東海道の存在は特別なもの。
 けれどもそこに意味を考えた事は無かった。意味を求める必要すらなく、互いにとって互いの存在は大きかったからかも知れない。

 いまさら、この感情に名前など付けられない。
 陳腐なひとことで片付けられるその理由を、けれども口にしたくはなかった。

「……おまえは、私に甘い」
 ぽそり、とくぐもった声で告げられた言葉に、思わず苦笑が零れる。
 それをおまえが言うのか、というのが正直な感想だ。東海道こそ、己が身内と認めた人間にはすこぶる甘いくせに。
 自分と同程度東海道に甘やかされているのは、せいぜい彼の弟くらいのものだという自負はある。特別であることに疑いを持てるほど、二人で過ごした時間は短くは無いのだから。
 そうかよ、と笑いながら頭を撫でる指先に、拒絶の意思は見受けられない。
 視界の端に入る机の上の書類はちょっと恐ろしい量になっているけれど、こんな弱った東海道に仕事をさせるほどJR東海も落ちぶれてはいないだろう。
 また、高速鉄道の業務ならば、最悪東日本だけでも回せるはずだ。
「いいから……寝とけよ。なんかあったら呼び出し入るだろ」
「ん……」
 疲労と睡魔に判断力が低下しているのかも知れない。憎まれ口の一つもなく、素直に目を閉じた東海道の無防備な表情にまた苦笑が零れる。

 強くて弱くて優しくて、真っ直ぐに前を見て走り続ける俺の自慢の相棒。
 おまえも俺の事を少しでも頼ってくれればいい、と願いながら、山陽は愛おしむようにそっと汗ばんだ額に張り付いた髪の毛の筋を払う。

 昨日も今日も明日も明後日も、そしてその先も。
 共に走ること、共に在ること。
 理由は単純明快で複雑怪奇、けれども違えない意思だけは此処にあるのだと、山陽は眠りに落ちた東海道の左手に、誓うようにそっと唇を落とした。



2008.07.05.