サード・フィーリング
避けられている。それも、かなりあからさまに。
そう気付いたのは、果たしていつだったろうか。そう接点のあるわけでもない彼と直接話した事など一度きり、それもごくわずかな時間、些細なやり取りでしかないけれど、それでもなんやかやと己の兄に気を配る彼の姿をこれほど長い間見ない、という事は無かった。
「……山形?どうした?」
それまで背後など省みる事もなく前を向いて歩いていた東海道が、不意に振り返る。この強くて弱くて脆くて意地っぱりで、けれど本当は優しい王様は、結局のところ自分たちを含めた国鉄の名を冠する路線の全てを愛している。
だからこそ、不意に立ち止まって窓の外を見つめる自分が不可解だったのだろう。何か不都合でもあるのだろうかと雄弁に語る眼差しに苦笑を刻み、ふるり、とひとつ頭を振った。
「ああ、東海道。なんでもねえよ」
ただ空気が春めいてきたと思っただけだと、嘘ではないけれども真実でも無い答えを返せば、東海道の双眸が僅かに細められる。
「そうか。なら、いい」
一瞬気分屋なところもある男だけに、口に出してから己の言の拙さにひやりとしたけれど、彼は特に気分を害した風もなくくるりと踵を返した。
特に興味を引かれなかったのだろう、今度こそ此方など気にも留めずに歩き出すその真っ直ぐに伸びた背中を見つめながら、山形は彼に良く似た彼の弟の事を思い出していた。
存在自体は、よく目の前の彼から聞いていた。
それでなくとも兄弟揃って日本の主要交通を担う彼らの事を知らない輩は国鉄内部には存在しない。良く似た容姿の、喧嘩もするけれど仲睦まじい兄弟。時に連れ添い時に離れながら、それでも同じようなルートを走り多くの駅を共有する東海道という同じ名を与えられた二人。
その距離が近すぎる故か、はたまた兄弟という血の絆の為せる業か。山形の目には、その不器用なやり取りは微笑ましく映ったものだった。
山形が知る彼は、少し不貞腐れたような表情をしながらも相対する兄を特別に想っている事は容易に見て取れる素直な青年だった。その愚直なまでの想いは、山形が東海道を想うのとは意味を違えた特別なもので、けれどもその温度の差異を傍らから見て取るには、きっと彼は若過ぎた。
初めて彼と言葉を交わしたあの時の、取り繕った無表情の中に必死に押し隠した驚愕と拒絶を覚えている。
恐らくは彼にとっての絶対だったもの、それに触れる山形という存在そのものを、かの青年はどうしたって許せなかったのだろう。
けれどもあの弟が思うほどには、東海道と山形の関係に付いた名前は特別なものではない。それは他ならぬ山形が一番良く知っている。
東海道という気難しい同僚を宥めるのは、山形にとってそれほど困難な事ではなかった。それは彼と己の中にある過去の記憶と現在の立ち位置に起因するもので、さほど奇異なものでもない、単なる巡り合わせの妙だ。
山陽や上越に言わせれば魔法のようだと言われるこの手は、彼らが思うほど東海道の中で特別ではあり得ないのだから。
否。特別ではないからこそ、東海道はこの手を慰めの言葉を、触れる優しさを許容する。東海道新幹線という要素を変質させる要因を僅かたりとも含まぬ故に、かの孤独な王様は山形という他者の干渉を許容したのだ。
不器用なやり方だ、と山形は思う。
彼が望むならそれを叶える輩はいくらでもいるというのに、わざわざ山形である必要性は本来ならなかった。かつての無様を見られているという諦観と、彼と己の間に関連性が殆ど存在しないという現状。故にこの手がこの言葉がもたらす優しさを躊躇いなく受け取る事が出来るというのなら、それこそ気休めにしか過ぎない事は承知しているだろうに。
ぴんと伸びた背中、高らかな靴音。
後方から見る自信と威厳に満ち溢れた東海道のその背が、丸く縮こまり震えていた過去を知っている。あの日を以て不要だと断じられた路線の悲哀、それを始まりの日から見せつけられた己は幸運だったのか、不幸だったのか。
けれどあの背を、廃止だと嘆く声を忘れられぬままにこうして傍らにある現在があるというのなら、それは決して不必要だったというわけではないと信じたい。こうして傍らにある事に意味があるのだと、いつかの誰かが断じてくれるだろう。
傍に在るのは居心地の良い微温湯に浸るようなものだった。それは周囲が思うように彼にとってだけでなく、山形にとっても同じことだ。
過去は優しい。既に過ぎ去った時間であるが故に。
それを省みることで現在の痛みを一時忘れる事が出来るというのなら、常に傷だらけで矢面に立つ高速鉄道の王様に、手でも言葉でも差し出そう。それが山形に出来る精一杯であり、山形なりの好意と忠誠の表れだ。
……むしろ互いの間にあるものが色恋であるならば、山形自身も、そして東海道も楽だったろうか。
それは或いは、めっきり姿を見なくなってしまった彼の弟にとっても。
「埒もねぇなあ」
良く似た兄弟。彼らが共に在る時、僅かに緩む表情が端から見ていても仲の良さを知らしめた。だからこそ、彼に避けられ悪感情を持たれたままのこの状況は、山形にとっても不本意であり寂しくもある。
目の前の濃緑色の細い背中に重なるのは、震える黒いそれと、もうひとつ。
兄に良く似た綺麗な背筋の橙色の制服、その鮮やかな色を思い出し、山形は静かに瞠目する。
彼の兄と同じく、山形の知らぬ地を走る路線。彼の沿線は温かいと聞くから、もう桜は花開いたろうか。風も温くなったろうか。
想像と伝聞でしか知らないそれに想いを馳せながら、再び足を前へと動かす。
先を歩く東海道が指し示す場所へ、未来へ。
今日の運行も快調であるようにと願いながら、漸く慣れ始めた高速鉄道執務室へと先を急いだ。
2009.03.31.