甘い熱量


 目が覚めると、傍に誰かが居る。
 それはこれまでの数十年間と同じようでいて、耐えきれずに想いを告げた日からほんの少しだけ意味を違えている。
 触れないギリギリの距離を保って寝具を共有していたあの頃とは違って、今は心地よい重みを与える腕が東海道の腰の辺りにゆるりと回り、逆に自分の腕は山陽の胸に縋るように添えられている。
 さらさらとしたシーツの感触と、夜明け前の薄い闇がカーテンの隙間から垣間見える、この瞬間が東海道にとっての至福だった。
 どんな夜の後でもいつか訪れる朝の証明のように、彼の気配は東海道の心を慰めてくれた。触れる事を、言葉を交わす事さえ躊躇っていた頃であっても精神安定剤だった彼の温もりと感触は、もう甘い毒のように東海道の中に染み込んで失うことなど考えられないほど根幹に根差してしまっている。
 泣いても喚いても時には残酷なほど陽気に突き放して、東海道が己で立ち上がるのを待っていてくれた彼が、どれだけその背を撫ぜる事を躊躇っていたかと聞いた時は赤面ものだったが。

 東海道新幹線と山陽新幹線は対等だった。常に肩を並べ、優劣など無く本州の半分を走り続けた盟友だった。今は恋人と名を変えていても、関係の意味と在り方を変えるようなものではない。
 だからこそ、山陽は東海道のダメージを誰よりも正確に見極めていたのだろう。東海道が自力では立ち直れないと判断できるギリギリまで手を出さず、その態度も殊更にふざけたものへと保っていた。自他共に認めるほどそういった感情に疎い東海道が気付くはずもなく、表面上の態度だけで詰った事も何度もあった。
 想いを交わした今でもなお、いやだからこそ、きっと完全に彼に寄り掛かってしまうような事は永久に出来ない。何もかもを預けられる日が来るとするならば、どちらかがその名前を失う時だ。それはリニアの実現によってゆるゆると価値を失う自分であるかも知れないし、突貫工事の架線が老朽化の一途を辿る山陽であるかも知れない。それでなくとも災害の多いこの国で、それは明日かも知れないし永久に来ない日かも知れない。
 そんな日が万が一来たとしても傍らにある事を疑わずに済む事が、関係性を変えた事に対する最大の利点だったかも知れない。
 尤も、利点云々以前に既に限界ギリギリだった事は間違いないので、たとえ待ち受けているのが先の見えない闇だったとしても、あの告白をしないという選択はなかったろうけれど。

 僅かに伝わる相手の鼓動に、東海道はゆるりと不明瞭な視線を巡らせた。
 時計の針が示す時刻は普段ならばとっくに起きていなければいけない時間だけれど、本日は互いに珍しくマトモに取れた休日だ。とはいえ実際には何かあれば直ぐに呼び出されるし、今まで平穏無事に丸一日取れた休暇は長い東海道新幹線の歴史の中でも両手に足りるほどしかない。
 しかし、流石に朝早くからどうこうということは滅多にないので少なくとも普段は不可能な朝寝を楽しむことくらいはできる。
 とろりとした眠気を纏わりつかせたまま、もぞもぞと居心地の良い場所を探して身じろげば、目の前には表情が消えた端正な山陽の顔がある。下から覗きこむ形になったので、僅かに生えた不精髭があごのあたりに見てとれた。
 東海道は一般的な成人男性に比べて体毛も髭も薄いので、こういう男として目に見える差は正直少しばかり癪ではある。以前『あんまカリカリしてっとハゲるぞ?』と目の前の男にからかわれた時に常ならば多少は手加減をするところを本気でぶん殴ったこともある。髭と髪に因果関係は無いと分かっていても、言われて気分の良いものでもあるまいに。
 思い出したらムカついてきた東海道は、未だ気持ちよさそうに眠る相手に意趣返しをすべく、そっと右手を山陽の顎へと伸ばす。髭の一本でも抜いてやれば痛くて起きるだろうと踏んだのだが、流石に付き合いが長いだけはあるということだろうか。目的が果たされるその前に、山陽の長い指が東海道のそれを絡め取った。
「……ナニしてんの、とーかいどー」
 ふああ、と寝ぼけた声ではあったけれど、確実に意識を目覚めさせたそれに内心舌打ちをする。こういう時に本能的に察知するらしい山陽は、東海道のごくごく珍しい悪戯心を満足させてくれた事は一度もない。
 僅かな不服が顔に出ていたのだろうか、眠気にぼやけた視線でじっと腕の中の相手を見つめていた山陽は、前触れもなくその額、正確には眉間に唇を押しあてた。
「――んなっ!?」
「なんでまた朝っぱらからそんなツラしてっかなおまえさんは……それじゃまるで昨夜の山陽サンが下手でした、って言われてるみてーで嫌でしょーが」
 ちゅ、と今度は絡めた指先にも口付けられて、ほんの僅かな不服は甘い羞恥に上書きされる。明確な言語を綴れなくなった東海道は、己の頬が熱を持つのを自覚せざるを得なかった。
 最も新しい相手との記憶は、浮かされるような熱と甘い痛みと、溺れるような夜。過ぎた時間の中に置いてきたと言い切るには新し過ぎるそれは、未だに東海道の中に余韻として残っていて、単純な接触でさえその呼び水には十分だったのだから。

「……東海道?」

 ふと、目を細めた山陽の呼ぶ己の名前、そこに込められた熱が上がる。
 昨夜散々に耳元に吹き込まれたそれに近しい響きに、東海道はぎゅっと絡め取られたままの相手の指先を握ることしか出来なかった。

 嫌ではない。拒否という感情自体が、この男に対しては存在しない。
 互いに抱える矜持から相手のすべてを背負う事を許されざるとも、それでも長い間二人は背中を預けて走り続けてきたし、これからもずっとそうして過ごしてゆく事を疑ったことは一度も無い。
 手を伸ばせば触れられる距離にある僥倖を、既に形にしてしまっているのだから、躊躇うものは何処にも無い筈だ。此処にある素直でない己の心だけが障害だというのなら、それはあまりにもさびしいと思い知ったのだから。

 絡め取られたのとは逆の手を伸ばし、山陽の首筋にかじりつく。触れた素肌から伝わる熱と鼓動がたまらなく嬉しくて、泣きたいような気分を覚えるのだと知ったのはそう遠くない過去の話だ。

「さんよう、」

 その名を呼べること、此処に共にあること。
 それにどれだけの歓喜を覚えたかなど、きっとこの男だって知らないだろう。
 呟いた名前の意味を取り違える事無く落ちてくる山陽のキスの優しい温度に、東海道は僅かに唇を薄く綻ばせた。




2008.08.31.

山陽上官の魅力は分かりにくい優しさだと思います。
ギリギリまでは突き放して、最後の最後に手を差し伸べてくれる、みたいな!