シュガーポット
どうもおかしい。
絶対に何かがおかしい。
自分よりも一回り以上大きな男に抱きすくめられる形で固定されてしまった自分の姿に、東海道は困惑を隠し切れない。
決して苦しいわけではないけれど、抜け出せない絶妙な力加減で囲われた腕の中は、居心地が良過ぎて逆に居たたまれない。背中から伝わる他人の体温がやけに肌に馴染むのも、余計に動揺を大きくしている気がする。
時折頬を掠める吐息の感触にさえびくりと身体を揺らす自分の動揺はこの男にはどのように捉えられているのだろう、と考えれば考えるほどにわからなくなってゆく。
そもそも、この男とは昨夜まで単なる同僚でしかなかったはずだ。
互いに憎からず想っていた事は知っていたけれど、それはあくまで共に走る盟友の領域を超えるものではなかった。まあ、それにしてはずいぶんと甘やかしてくれると思ってはいたけれど。
「どしたの、とーかいどー」
「い、いや、その、俺たちはいつまでこうしているのかと……」
抱き締められた姿勢にもぞもぞと身じろぎをすれば、少しの距離も許さないとばかりに改めて腕の中に囲われてしまう。耳にかかる吐息の熱さえわかる距離に心臓の鼓動を跳ね上げる東海道に気付いているのかいないのか、山陽はくすりと笑って首筋に顔を埋めてくる。
さらりと落ちる髪の毛がはだけたうなじを擽って、ぞわりと背筋を駆けあがったものの正体なんて考えたくない。
「オマエは俺とこうするの、嫌か?」
「い、嫌とかそういうことではなくてだな!」
「じゃあいーだろ、今日は休日なんだし」
直接肌に伝わる低い振動に、昨夜から許容量を大幅に超えた思考回路は摩耗する寸前の状態だ。どろりと甘ったるく溶けたようになった頭の中身はマトモな考えを導き出す事は出来ないままに、山陽の些細な言動に右往左往するしかないのが現実だった。
『き、聞いてない!こんな甘い奴だとは聞いてないぞ俺は!?』
分かりにくくはあるけれど、最後のところで自分にだけは甘い男だと知ってはいたけれど。触れる指先も、零れる吐息も、選ぶ言葉の欠片すらも甘いようなこんな状態は知らない。
山陽という得難い同僚は、いつだって東海道が倒れても転んでも自力で起き上がれる事を信じていてくれる男だった。それはつまりはある意味では誰より優しくなど無い所作に繋がっていた筈なのに、昨夜から箍が外れたように甘ったるい態度を向けられて、東海道は困惑する以外に何も出来ないまま流された。
その指先が肌を辿るのも、唇がそれに倣うのも、互いの汗の匂いすら混ざるほどに近くで触れ合うのも、全てが心地よく心と体に馴染み過ぎたのかも知れない。
会いたい理由を話すには一晩かかる、と告げた山陽の言葉通りに、ただ言葉を紡ぐばかりで無しにあらゆるすべてを使って告げられたのは、東海道が今まで向けられた事のないような、目の眩むような欲求だった。
それに飲まれて、流されて、最後の最後でそれを心地よいと思ってしまった時点で東海道の負けなど確定していた。否、それを言うなら最初から、自室のドアを開けてしまった時点でもうこうなる事は予測してしかるべきだったのに。
誰よりも近くに居たいのだと、そう願う己を自覚してしまったならばもう受け入れる以外に何が出来たろう。あるいはそれすらも言い訳で、こうしたかったのは自分の方ではなかろうかと眉をハの字に寄せた。
触れ合う意味は既に此処にあって、共に走るそれと何ら変わる事はないだろう。だからこそ、それが下世話な意味での接触、つまりはキスだろうがセックスだろうが、自分たちの関係の本質が何も変わる事は無い。
預ける背中が己のすべてになったところで、彼に何もかも委ねられるわけでもないし彼が委ねてくれるわけでもない。
だからこそ何も変わらない、そう信じていたのに。
……この甘ったるい空気はどうしたことだろう!?
「なんで……こんな」
もう、何をしていいのか分からずに困り果てて呟けば、ついばむようなキスが頭頂部に落ちてくる。慈しむ、という単語がこれほどふさわしいものもないような優しい腕の中で暖かい体温に包まれて、己がぐずぐずに溶けてゆくような錯覚さえ覚える。ぎゅっと握りしめた手が僅かに震えているのは、或いはこの状況への不安の代弁かも知れない。
「こんな、優しいのは……困る」
ようやくのことでそれだけ呟いた東海道の冷たい指先を、暖かい山陽のそれが絡め取る。昨夜シーツに縫い止められたのと同じ感触に頬に血を上らせたが、それ以上の接触には進む事無く静かに、宥めるように体温だけを共有する。
まるで毒のような優しさと甘さに、泣きたくなるのは東海道の咎ではないはずだ。
閉じ込められた腕の中に、ずっと居たいと願ってしまったら、それは裏切りではなかろうか。己という存在を此処に位置づけるすべてへの背信行為だと知りながら、それでももう知ってしまった温もりを、甘い優しさを手放す事はどうしたって出来ない。
「おまえはいつか後悔するぞ!俺はそんなに強くもなければ立派でもない!!」
ひたすらに注ぎ込まれる優しさに、思わず叫んだ内容は極論に過ぎる。けれども、それは確かに心の奥にあった本心の欠片だ。
ぎゅっと目を瞑って背筋を強張らせた東海道の様子に、ゆるりと回した腕を更に狭めて、山陽はそっと耳元に囁く。
「ばかだなあ、おまえ。俺がおまえ以外の誰にこんなことするっていうんだよ」
他の誰でも埋められない。
ただ、その傍らに永久に自分を置いて欲しいのだと、それだけが願いなのだと告げる声に迷いは無い。
まるで甘い毒のように染み込む山陽の低い静かな声に、東海道はゆるゆると瞼を持ち上げる。僅かに涙に濡れた睫毛がふるりと震えるのさえ間近に見られている事実に羞恥を覚えながら、それでもやはりこの腕を撥ね退けることだけはどうしたって考えられなかった。
「おまえさんが信じられないんなら何度だって言ってやるよ。俺にとっての東海道って存在が、どれだけ大きくて重いのかを」
甘い言葉。甘い熱。
昨夜というボーダーラインを超える前に知っていたものががらがらと崩れ落ちるほどに、山陽から向けられる全ては東海道の中の空虚な部分を埋めてゆく。
「他の誰が何を言ったって、俺は、俺だけは知ってる。
東海道新幹線がどれだけのものを背負って走って、どれだけの期待に応えてきたのかを。それが強さでなくてなんだっていうんだ?」
だから、俺は強くて弱いおまえが好きだよ。
昨夜と同じ言葉。熱の中にぼやけたそれを一字一句違える事無く静かに告げられて、東海道は今度こそどうしようもなく顔を火照らせて、ぎゅっと繋いだままの山陽の指先を握りしめた。
ばかもの、と呟いた最後の強がりは音になったかどうかもわからなかったけれど、それでも必死に身体を捩って山陽の腕の中で姿勢を変えて、此方を見つめる優しい眼差しを正面から捉える。
いつだって此処にあるべきものだと思っていた。
誰よりも近くに、確たるものなど何一つなくても。それでも彼と共に走る事は彼の開業からずっと自分たちの『日常』で在り続けた。
「……おまえみたいな物好き、きっと他に居ないぞ」
するり、と伸ばした指先で頬を撫でる。柔らかく甘い苦笑を浮かべる山陽の唇にそっと自分のそれを重ねて、東海道はぎゅっと目を閉じた。
巧くないキスは自覚済みで、それでも触れる事に意味があるのなら、この甘さに理由をつけられるのなら、それは自分の手で始めてみたいと思ったから。
「俺も、おまえが好きだ」
囁くように告げた一言の後に、山陽がこれ以上ないほどに幸せそうに破顔する。その首筋にかじりつくように腕を回して、力を込めれば同じだけのものが東海道の背に回る。自然密着する形になった自分たちはさっきよりもずっと接触率が高いけれど、あのどうしようもない困惑と居心地の悪さはきれいさっぱり消え去っている。
ゆったりと過ぎる休日の昼下がり。
二人だけの部屋で秘め事のように交わすキスの回数を数える事も忘れて、東海道はようやくその毒ではない甘さに無邪気な笑みを零した。
2008.09.23.
ホリデイ+ボーダーラインの後日談。ひたすら駄々漏れに甘い。
正直ちょっとやり過ぎた気がしないでもないが後悔はしないよ!