ストロベリー・オン・ザ・ショートケーキ


 ふわり、と鼻腔を擽る甘い香り。

 たまたま通り過ぎようとしていた構内の短期出店の売店から甘いバニラとバターの香りが漂っている。女子供が好きそうな菓子だな、と山陽は気にも留めずに視線を引き剥がしたが、傍らの相棒はそうでもなかったようだ。
 ふい、と向けた視線に合わせて、普段はキツイ印象を与える東海道の表情が僅かに和らぐ。職務中だという事もあるだろうが、少し名残惜しそうに視線を引き剥がしはしたものの、眉間に寄せた皺が消え、子どものように甘い香りに表情を崩す様を傍らで目撃してしまった山陽は、同僚の意外な一面に僅かな驚きを以て目を見開いた。
「山陽?」
 先ほどまで軽い調子で喋っていた同僚が黙り込んだことに、不審を滲ませて呼ばれた名前にも生返事しか返せなかった。その東海道の表情が、就業中には今まで見た事がないほどに柔らかいものであったから。
 己の開業から数年、融通が利かないこの先輩とも、相容れない部分も多いが互いに妥協できる部分も見当がついてきた。此方の軽口もいちいち噛みついていた頃よりは、受け流されたり笑ってくれたりする回数も増えたように思う。
 けれどもそれはあくまで業務上のものであって、互いの私生活まで干渉するような親しさまでは到達出来てはいない。この面倒な男にプライベートでまで干渉する気は元より無かったから、それでもいいと思っていた。
 思っていた、はずだったのだけれど。
「おい、山陽?」
 きょとんとした顔で此方を見上げる東海道の表情は、先ほど消えた険が戻らぬままで何処か無防備で幼い印象を拭えない。
 こんな顔も出来る男だったのか、と驚きを隠せない自分の心にじわりと浮かんだ何かには、この時は気付きようもなかったのだけれど。
「いや、なんでもねーよ」
「……そうか」
 苦笑と共にひらひらと手を振って見せれば、軽くあしらわれたように感じたのだろう。むっとしたいつもの表情に戻り、足早に先を急ぐ様子はもう山陽のよく知る東海道と変わらない。それに安堵しつつも、どこか物足りないものを感じていた。

 笑って欲しい。
 あんな柔らかい表情で、今度は自分に向けて。

 覚えた欲求は当時の自分には意味不明で、トチ狂ったとしか思えないそれを頭を数度振って振り払うと、遠くなった背中を追う為に大股で先を急いだ。
 ただ、振り切るように置いてきた甘い香りの残滓だけが、絡みつくように山陽の心に残っていた。



 それは、ずいぶんと昔の話。
 まだ自分と東海道しか高速鉄道というものが存在しなかった頃の話。まだ、互いの事を表面しか知らなかった頃の話だ。


「とーかいどー、挟むの苺と白桃とどっちがいい?」
「……イチゴ」

 かしゃかしゃと銀色のボウルの中の生クリームを攪拌しながら問いかけた言葉には、少し平坦なものではあったけれど確かに選ぶ返答を返されて笑みを深くする。
 問われた東海道はキッチンスケールを目の前に、パラフィン紙の上にさらさらと慎重な手つきでグラニュー糖を載せている。既に計測済みの粉やバターも同じようにパラフィン紙の上に乗っかっていて、まるで化学実験でも行うかのような状態だ。
 ある意味『適量』とか『少々』という言葉が通じない東海道には、明確な数量を計測して加熱時間や反応状態を誤らなければ程々に成功する製菓は通常の調理よりは適正があるらしく、こうして共にキッチンに立つ事が両手の数を超えた現在であっても、それほど無残な状態になった事例は無い。
 ただし、基本的にデザインセンスが壊滅しているのは明らかなので、飾り付けや盛り付けという一面においては注意が必要なのは事実だったが。
 角が立つ程度に生クリームが泡立つ頃、オーブンが電子音と共に調理完了を知らせている。ボウルを一旦置いて扉を開けると、ふわりと甘い香りが周囲に漂った。甘いバニラとバターの香りは、過去のそれと同じように山陽には『甘い香り』としか認識出来なかったけれど。
「ああ、良かったちゃんと膨らんだな」
 ひょい、と此方を覗き込む東海道の表情は、あの時と同じ様に柔らかく無邪気なものだった。過去の一幕と異なるのは、その瞳が此方をきちんと捉えて口元をほころばせてくれていること。東海道の素の部分を、垣間見るのではなく共有しているということ。
「あとは冷ましてデコレートな。次にオーブン入れるのどれだっけ?」
「シュークリーム。……流石にこれは少し不安なんだが」
 思わず、といった様子でハの字に下がる眉に、苦笑を隠し切れない。数年前にオーブンの温度が思ったように上がらず、膨らまない生地に肩を落とした過去は東海道にとっての汚点に違いない。
「大丈夫だって、おまえさんは心配し過ぎなんだよ」
「……おまえには私の気持ちは分からないっ」
 からからと笑って生地の乗った天板を押し込めて扉を閉めれば、むくれた東海道の足がげしげしと山陽のそれを蹴りつけている。いつもならば先に出る筈の拳が出なかったのはその両手が粉まみれだったからだろうか。
 最初の数発は素直じゃない東海道からの愛情表現だと高を括って受けてやる事にして、山陽はくすくすと笑みを零す。

 遠い過去、甘い香りに相好を緩めた東海道の様子から山陽は彼を注意して観察するようになった。仕事以外の顔を見せた事の無かった彼の見せたプライベートの片鱗、それを捕まえたいと思ったのかも知れない。
 コーヒーが少し苦手な事、ちょっと猫舌な事。
 対人関係に不器用で、部下が可愛いのについ厳しくしてしまう事。
 すぐ下の在来線を走る弟を何より大切に思っている事。
 そして意外と甘党で、煙草も酒も飲むけれどそれよりもクリームとあんこが好きな事。
 己の対面的に相応しくない、と隠そうとはしていたようだけれど、お茶菓子やお土産に僅かに緩む表情はかなり分かりやすかった。
 確認の為に適当に理由をつけて出した某有名店のショートケーキに、ほにゃりと崩れた東海道らしからぬ表情は今も山陽の脳裏に焼き付いている。

 その次の年から、東海道へのお祝いはケーキ、というのが通例になった。
 数年後にはそれを自分で焼くようになって、更に数年後には二人でキッチンに立っていた。互いに忙しい身の上だからそれは年に一度くらいが関の山だったけれど、それでも楽しい時間だったのは間違いない。
 更にそれが長野という小さな同僚を迎えるのを機に東海道と長野の二人分の開業祝いに変わった。東海道と山陽の二人で食べる分だけの小さなケーキを焼いていたのが、総勢7名分の菓子を開業日前日に作るようになって既に十年以上。

「ほらみろ、ちゃんと綺麗に焼けたじゃねーか」
「む……」

 再び鳴り響いた電子音におそるおそるオーブンを開けた東海道の目の前では、綺麗なキツネ色に焼けたシュー生地が綺麗に膨らんだ状態で並んでいる。ふわりと香るバターの香りは普段なら胸やけしそうなくらいなのに、この日ばかりは山陽の心をも温く甘く包み込むようだ。
 甘いものは嫌いではないけれど、特別好きなわけじゃない。
 だからこの甘さは自分の為じゃなく、何より誰より大切な、この不器用で素直じゃない同僚の為のものだ。
 先ほどキッチンスケールを前に真剣な表情で計測していた時と同じように、取りだしたシュー生地に不器用な、けれど慎重な手つきでカスタードと生クリームを詰める横顔に思わず苦笑が零れる。
 何度繰り返しても慣れる様子が無い東海道の強張った薄い肩がどうにも愛おしい。こわばる東海道とは対照的に山陽は手慣れた様子で冷めたスポンジを三段に割り、先ほど泡立てた生クリームと苺を挟み、表面にもクリームを塗って仕上げてゆく。
 最初の作品と比べれば随分と自分の製菓の技術も上がったような気がするけれど、必ず作るのはこのストロベリーショートケーキ。

「やはりケーキは生クリームとイチゴだな!」

 毎回変わり映えのしないシンプルなそれに満面の笑みを浮かべて喜ぶ東海道の顔を見た時から、もうこれを作らないという選択肢は山陽の中に存在しない。
 あの日願ったように、自分に向けられる笑顔の屈託のなさにこそ山陽は歓喜する。
 彼が彼として生まれ直した日に焼くケーキ。
 彼が今もなお走っているということ、その笑顔が変わらないことが愛おしくて嬉しくて、甘いクリームよりもずっと甘い何かを山陽の中に落としてゆく。

 何をどうやったのかほっぺたにクリームを付けて奮闘する東海道の姿に、浮かぶその笑顔も東海道のそれと同じように柔らかな笑みになっていることには気付かないまま。
 山陽は今年も巡る彼の記念日に、感謝を込めて赤い苺をケーキの上に並べていった。




2008.10.01.

東海道上官開業記念日おめでとう!
辛気臭くないの…と頑張ったら甘くなり過ぎた。いいよねお祝いだし!