シクスス・エンカウント
ずぶ濡れの衣服の感触など、慣れていると思っていた。
ぱりぱりと凍りついたそれさえも、やはり慣れていると思っていた。
けれど掴んだ腕の冷たさと重さと硬さが、己の浅はかさを思い知らせる。彼の兄を容易に抱え上げたこの腕は、彼を引き上げる事さえ覚束ない。
薄く開いた唇が紡いだその名前を、何処か痛みを覚えて聞いた己の心を、山形は漸く理解せずには居られなかった。
衝動的に部屋を飛び出し、ドアを閉めるのもそこそこに廊下を走り階段を駆け降りる。リノリウムの廊下に革靴が接地して立てるスタッカートと、荒くなる呼吸が酷く耳につく。握り締めた拳は手袋越しに爪が手のひらに食い込む痛みと同等でありながら、それすら意識出来ぬほどに先へと視線は向かったまま。
途中、面倒になって階段の手すりに手をかけ、ひらりと数段分をショートカット。己の車両に与えられた愛称『つばさ』の名に相応しく、軽々と空を泳いだ身体は、危なげなく階下の床へと爪先を落とした。
その勢いすら前へと進む力に替えて、駆ける足を止める事は無い。末端とはいえ高速鉄道に名を連ねる山形のそれは、余人の脚力を遥かに上回る。ヒトが見たなら一陣の風にしか捉えられぬ東海道や山陽のそれに及ぶべくがないとしても、触れるものを許さぬ速度は己に『山形新幹線』の名と共に贈られた寿ぎだ。
正面玄関のガラス扉が開くのを待ち切れずに無理矢理にこじ開け、足を向けた先は木々が植え込まれた僅かな緑地だ。天気が良い日には山形も其処で一時の休息を取る野鳥たちを愛でることもあったが、何せこの荒れ模様だ。人の気配どころか生命の気配すら薄いそこを横切って、辿り着いたのは駅へと続く職員連絡通路の一端だった。
制服が塗れるのも構わずに背の低い植木を掻き分け、開けた視界にまず映ったのは、紺色。それが上階から見た傘だと認識するのと、その端を掠めた橙色に気付いたのは、どちらが早かったか。
足元に吹き溜まった溶けかけた雪が、しゃり、と靴底と擦れて音を立てる。こくりと飲み込んだ息の重苦しさに、知らず眉を顰めた山形の目の前には、その長身を冷たく凍えたアスファルトに横たえ、降りしきる雪とその溶けた水にぐっしょりと濡れる彼の姿があった。
「……東海道、本線…」
そうだ、それが彼の名だ。
山陽が面白がって付けたのだと言う『ジュニア』という名称。本人もそれを否定する事なく、今では誰もが呼ぶのだというその名が、どうにも山形の中ではそぐわなかった。そしてそれは、恐らくは今の彼と関わりのない旧国鉄路線たちの全てに共通する認識でもあるだろう。
東海道新幹線の弱い面は、山形はその名を、地位を、路線を持つ前から知っている。それは山形――『特急・蔵王』のはじまりの日に、終わりの様をまざまざと見せつけた『特急・はと』の姿は鮮烈に過ぎた。
けれども、その弟はどうか。かつては東京以西の大本線として、そして今は東海道新幹線の平行在来線として。山形が知る彼は飄々として泰然、何ものにも動かされず、さりとて頑迷でもなく、山河のような印象を与えていた。
そう、彼の兄である、東海道新幹線に関すること以外には。
呟いた名の響きに己でも新鮮な驚きを覚えながら、山形は開業から幾度も彼の兄に対してそうしてきたように、己の手を伸ばした。掴んだ腕から伝わるずぶ濡れの制服の感触は、色こそ違えども彼の兄のそれと酷似している。その事実に僅かに目を見開いて、慣れた仕草でそれを強く握り引き上げようとして、ずっしりとした重さと硬い筋肉と骨の感触に、思わず奥歯を強く噛み締めた。
流石は明治の昔よりこの国を背負ってきた大本線、東海道本線だ。オレンジ色の明るい制服の生地の下には、山形に劣らない、否或いは勝るほどの実用的な体躯が秘されている。
その彼を引き起こすには、半分凍って滑りやすくなっているアスファルトに対して実用的でない己の制服の革靴に僅かの逡巡を覚えたのも一瞬。躊躇いなく濡れるのも、未だ新しい制服が痛むのも構わずに膝を付き、布地という布地に水を吸わせた腕を己の肩に回させると、山形は倒れ伏した彼の体躯を、どうにか伏した地から引き揚げた。
ずしりと重い感触は、彼の兄の触れただけで不安を覚えるほどの薄さとは対照的で、けれども逆にこのまま彼を構成する全ての如く、地に同化して鋼になってしまうのではないかと危惧するほどに冷たい。容赦なく己の制服に沁み込んでくる冷たさに、山形は零れかけた吐息を無理矢理に飲み込んだ。
かの地は温かいと聞いていた。
沈み込むような東北の冬とは縁遠い、温暖な地であるのだと。
早い桜は今頃から既に蕾を綻ばせ、芽吹く新緑を予感させるのだと、遠い地への憧れを込めて語り合ったかつての同僚たちの大半は、今はもう遠い。
けれど今、この手に肩にずしりと重みを伝える彼の冷え切った体躯は、そんな幻想を打ち砕いて山形の全てにのしかかる。耳元にほど近い位置にある血の気の失せた唇が、小さく何某かを呟いた。
聞き覚えがあるようなその響きに耳を欹てた山形は、拾い集めた欠片の音に思わず足を止める。
「……、」
幾度も聞いた。幾度もそう泣いて蹲る相手を慰めてきた。
それと同じ言葉が良く似た彼の口からも零れ落ちたことに、山形は純粋な驚きを以てまじまじと抱えた相手の顔を覗き込む。
今は血の気が失せてやや白いが、常ならば精悍さが勝る顔立ち。黒い髪は兄のそれと良く似た、けれどすこしくせの少ない短髪。閉じられた双眸の奥の色は、果たしてどんな色だったか。
知りたいと願うその感情がどのような色合いで己の内に広がっているかなど、もはや解析するまでもないことを、薄い微笑みを浮かべることで山形は静かに認てゆく。他人に興味を持つと言うことは、突き詰めれば強い感情の発露に他ならない。
「おめさも、走んのが好きなんだずなぁ……」
走れないと、走らなければと、音とさえ呼べないような吐息混じりに吐き出されたその声は、彼の兄のそれと良く似ている。ならば同じようにこの手が慰めになるだろうか、と思い至った瞬間の心情は、東海道の薄い背を撫ぜた時よりも大きい。その事実に、山形は懐かない野生動物が傍近くにあるような充足を覚える。
冷えてゆくばかりの体温とは対照的に、心臓の辺りに宿った柔らかな温もりを確かめるが如く、彼を抱えた腕に力を込める。
この冷え切った彼を温めなければ、と手順自体は慣れたそれと変わらぬ行程を経るべく、ほど近くに在る高速鉄道の宿舎へと、雪氷に滑る革靴の底をしっかりと踏みしめて足を進めた。
2011.02.20.