セブンス・シンパシー
ふわり、と香ったのは杜の匂い。
目を閉じたままの脳裏を過る緑と大地と樹木の光景は、馴染んだ沿線のそれよりも深く広く己の輪郭を見失わせるほどに、大きく。
己の知る限りには思い当たらないその香りに困惑しながらも、どこかしっくりとそれを受け入れる己を自覚する。じわりと滲み沈み込んでゆく感覚は、新鮮な驚きを以て東海道の意識を覚醒させていった。
「……ここは…?」
己と繋がっている路線の状況悪化は、そのリンクを切らない限りは延々と己の中に蓄積され続ける。無論改善すればそれは昇華するものだが、大抵の場合自然災害における復旧というのは容易ではないのも事実だ。
季節外れの降雪は、春先特有の強い季節風に乗って嵐の様相を呈し、己の路線では関ヶ原辺りでしか、しかも一年のうちのほんのわずかな期間しか見られない光景を、全域に渡って齎した。
そうなってしまえば、元より温暖な気候で降雪対策など皆無に等しい自分たちなどひとたまりもない。東海道もその兄も、ご多分に漏れずあっという間に遅延、そして運休を余儀なくされた。
降りしきる雪は半分以上溶けかけて、制服をぐっしょりと重く冷たく湿らせてゆく。奪われていく体温の感覚すら麻痺しながらも、仕事を続けたのは半分は意地と、もう半分は責任故のことだ。
西で兄がもう一人の上官と共に足止めを食っている以上、在京の東海路線No.2として、兄に代わって己が動かねばならない。国鉄時代、未だ特急が華やかなりし昔に取った杵柄は今も錆ついてはおらず、否、錆つくことなど己が許さず、制服を着替える暇も惜しんで運転指令所に貼り付いていた。
そうしているうちに兄の方が新大阪まで辿り着いたのか、やや不明瞭ではあれどそれまでとは比べ物にならない情報が入ってくるようになり、ようやく肩の荷が下りたと席を辞したのは何時のことだったろうか。心配する職員の制止をやんわりと退け、それでもと渡された紺色の傘を苦笑しながら差して、本来の職場である己の路線に戻ろうと建物を出て、そして。
「……覚えてねえし」
左半身だけが僅かな痛みを訴えるところを見ると、力尽きて何処かに倒れでもしたのだろうか。しかし今己が身を横たえているのは、柔らかなベッドマットと白いシーツの寝台だ。誰かが拾ってくれたのだろうか、京浜東北辺りだったなら小言を食らうだけで済むが、これが宇都宮辺りだったら今後延々と恩を着せられるに違いない、と想像しただけでげっそりする。
けれどもそんな東海道の耳に届いた声は、最悪の想像をはるかに上回る、予想外のものだった。
「ああ、気ぃ付いたんだず?どごが痛いどこねえか?」
びくり、と背筋が震えるのを抑え込み損ね、見開いた眼に映る穏やかな笑みに思考が停止するのを自覚せざるを得ない。その姿すら見ることがどうにも出来ず、延々と避け続けた相手が今、東海道の目の前に立っている。
何故、と叫ぼうとして、先ほどの問いの答えを示されていることに気付き、目の前が真っ暗になるような絶望を覚えた。よりにもよってこの人に拾われるなんて、宇都宮の方が万倍マシだった、と頭を抱えたい衝動に駆られながら、東海道は努めて穏やかに詰めた息を吐き出す。
「此処は…貴方の自室ですか、山形上官」
「医務室でも良かったけんど、着替えばどうすっかなと思ったら、なぁ」
自分の部屋の方が都合が良かった、と告げながら、山形は手にしていたトレイから淡く湯気を立てるマグカップをひとつ取り上げると、ことりとベッド脇のサイドボードへと置いた。そうして自分はもう片方を手にすると、空いたトレイを少し離れたテーブルへと退ける。
「執務室の窓から外ば見つたっけら、おめさの姿が見えたからここに連れてきたんだず。あのまんまだと風邪ばひいちまうがらなぁ」
「それは……ご厚意、痛み入ります」
す、と視線を僅かに逸らした此方の意図など、恐らくはこの上官は把握していることだろう。けれども無表情に僅かに刷いた穏やかな笑みを崩す事なく、ただ眼差しと僅かな仕草で傍らのマグカップを手に取ることを促した。
かじかんだ手は思ったよりも自由に動かない。おそるおそる伸ばした指先に触れた陶器の温かさは毒のように回り、彼の厚意を素直に受け取れない理性を裏切って口元へとそれを運んでいた。
「あまい……」
ふわりと香るのは、少し香ばしさを伴った甘い香り。舌先に柔らかく伝わるまろみを帯びた甘さは、東海道にも覚えのある味だった。葛湯やら柚蜜やらが出て来そうな山形の外見を裏切って、手にしたマグカップに満たされていたのは、ミルクが多めのホットココアだった。
けれども、この冷え切った身体にその温もりは有難い。舌先で舐めるようにちびちびとそれを啜る間も、何が嬉しいのか傍らに坐した山形は笑みを浮かべて此方を見つめている。居心地の悪い沈黙を打開する術も見つからぬまま、それだけが逃避であるかのように嚥下するココアの甘さが、更にむず痒さを植え付けていった。
窓の外は未だ荒れ模様の天候が続いているようだ。同調を切っていない東海道の中でも、影響を被った沿線の状況は逐一伝わってきている。焦りと不安と緊張感と、掛け違えた釦のような座りの悪さを知ってか知らずか、山形は穏やかな表情を崩さぬままに、そっと東海道の手から空になったマグカップを取り上げた。
「疲れた時は甘いものがええんだず。もうすこす休んでいくとええよ」
山形がそうして近づいた拍子に、ふわりと香った森林の只中のような香りが鼻腔を擽る。決して主張しない、例え在ったとしても探ろうとする意図が無ければ空気のように気に留めることもないだろうそれは、この上官の存在そのものを表しているようにも思えた。
或いは兄にとっては、この上官の希薄さこそが得難いのかも知れない。マグカップを取り上げる時も此方を気遣ったのだろう、その手が東海道に直接触れることは無かった。今も風雪に悲鳴を上げる車両や線路や駅舎から伝わる冷たさの中で、ただひとつ嚥下したココアの甘い温もりだけが、身体の奥から己を暖めている錯覚に奥歯を噛み締めた。
なるほど、この人は酷い人だ。
優しくて温かくて実直で、だからこそ誰よりも残酷な人だ。
かつての己がそうなるべくして成ったように傲慢でなく、今兄がそう在るように孤高でもなく。ただ彼がそうあるべきそのままで、特急で在った頃も廃止された後も、そして今も変わらず在ると言うのなら、それは無自覚であったとしても残酷に過ぎる。
今の彼は高速鉄道だ、例え彼を彼として定義する区間が在来線の間借りであったとしても、彼を称する名前は誉と共に在るべきものだ。だというのに誰に対してもこうして優しくすることに躊躇わないというのなら、それは怖ろしいことなのだと東海道は誰よりも知っている。
少なくとも自分には出来なかった。無論兄もそうしようとはしなかった。抱え込んだものが多過ぎて、大事なものを守る為にはそれ以外に向ける優しさなんて持っている余裕は欠片も無かったからだ。
だから、そう。この人のように、誰にも優しく在れるのは。
ごくり、と息を飲み込む。息と一緒に言葉も飲み込む。
それ以上は言ってはいけない、恐らくは、この人には通じない。否、ただ悲しみだけを感じ取り、困ったように笑うだろう事が容易に想像出来てしまうから、余計に東海道は口を噤むより他に無かった。
これ以上、此処に居てはいけない。兄が何を思って彼の手を受け入れたのかは知らないが、自分にはその手はあまりに痛みを伴い過ぎる。己と彼を無関係と切って捨てられないならば、この人の手は受け入れるべきではない。
ばさり、と掛けられていた布団を撥ね退ける。途端に染みる外気の冷たさに眉を顰めつつも、剥ぎ取ったそれに未練は無い。着替えさせられたと思しき部屋着の上下は使い込まれていて、恐らくはこの部屋の主のものだろうと思えば直ぐ様に剥ぎ取りたい衝動すら覚える。
「ジュニア」
「仕事に戻ります、上官」
ご面倒をおかけしました、と早口で、視線を合わさぬままに告げる。呼ばれた名前は山陽上官が呼び始めたものだが、己の本来の名前でないことを、密かに東海道は感謝する。己の兄と混同することを避けたものであるとは分かっていても、この声でその名を呼ばれて尚、彼に向き合わぬことを選べるほど己は弱くも強くもなれはしない。
「……気ィつけてなぁ」
「ご心配、痛み入ります」
ぺこり、と頭を下げて、山形が渡してくれた制服を受け取る。ぐっしょりと濡れた冷たいそれは、本来ならば今も己が背負っていなければならなかったものだった。それをいとも簡単に拭い去ったこの目の前の人は、それがどれだけ刃や拳に勝る暴力なのかを理解していない。
それでもせめてもの救いは、彼の温もりを知らずにここを辞せることだと、東海道は同じように濡れた靴の感触に息を詰める。またそれを悟られぬように背を向けたまま、扉の閉じるぱたりという音に、安堵の溜息を零した。
雪は、まだ止まない。
2011.02.22.