あなたと私の小さな秘密
東海道・山陽新幹線、とひとくくりで称される事からも明らかなように、東海道と山陽がばらばらに行動する事は滅多に無い。常にべったり張り付いていなければならないわけでもないのだが、その密接に繋がった業務上、少なくともある程度は共に行動しなければ効率が悪い。
共に走り始めた当初は衝突も冷戦も何度も繰り返したが、結局付かず離れずの空気を保ったまま行動する事が一番楽なのだと思い知らされる結果になっただけだった。
互いにそれぞれ別の場所で別の仕事に従事していたとしても、一日の最初と最後には共に居なければ明日以降の業務に差し障りが出る。無論あの当時なら兎も角現在では自分たちも相手がいない場合の状況にも慣れたから一日や二日のイレギュラーには対応も出来るが、それはあくまでイレギュラーだと認識しての事だ。
そして営業距離が東京以西の本州を縦断する自分たちにとって、その距離は相当なものになる。自然と互いにスケジュールを合わせ、それぞれの業務を行うにしても互いの行く場所を合わせるようになった。運行中や東京駅以外での事務処理中に共に居る事は滅多に無いが、それでも同じ建物の中に居るのがほぼ常になっていた。
けれども、本日本社での会合が予定されていたため新大阪まで足を伸ばした山陽の傍らに東海道は居ない。
本来ならば彼も同行してこちらでの書類を片付ける予定だったのだが、東海在来線で何かあったらしい。名古屋駅の新幹線ホームで待ち構えていた関西本線に怒涛の如く泣き付かれ、気押された東海道は半ば強引に引きずられ東海本社へと走って行ったのだ。
一体何が起こったのかと気が気ではないのも事実だったが、現在まで事故や遅延、運休の連絡は入っていない。最悪の事態は起こっていないのだろうと推測するけれど、どこかもやもやとしたものが残るのも事実だった。
「――どーしたんだろな、とーかいどー」
ぽつり、と呟いた言葉はホームの喧騒に溶けて直ぐに消えてゆく。自分以外に聞き取るものもないだろうそれに小さく頭を振って、山陽は西へと走る車両を見送った。車体が煽る風が前髪を揺らし、熱を含んだそれに目を細めて瞬きをひとつ落とすと、山陽は小さく息を吐き出した。
今夜は此処に留まって、明日の始発で二人揃って東京に戻る予定だった。
アイツは此処に来るだろうか。それとも明日の始発に合わせて名古屋から東京に戻るだろうか。……或いは、戻る時も俺一人だってこともあり得る。
未だ連絡のひとつもない携帯をじっと見つめ、もうひとつ吐息を落としてそれをポケットに滑り込ませた。鳴らない電話はきっと息災の合図なのだと、何度繰り返したか分からない自己暗示を言い聞かせて。
乗客の流れに逆らうようにして、ホームから構内へと足を向ける。慣れ親しんだ駅は今さら迷うようなことがある筈もなく、職員通路へと抜けた山陽は真っ直ぐに上官執務室へと向かった。
尤も、大層な名前がついていても単なる事務室以外の何物でもない。使うのは自分と東海道だけだし、その頻度も東京に比べれば随分と落ちる。しかも東海道が『使えるものは壊れるまで使うべきだ』という主張の元に古い事務用デスクや少し錆びたスチール棚を使い続けているので、まるでその部屋だけ昭和に戻ったかのような有様だったりする。
そう考えてみればあの東海本社の東海道の執務室があれほど上質かつ品の良い様は驚嘆すべきだが、どうやらツインタワー建設+本社引越しのどさくさに東海在来線一同が結託して古い備品を根こそぎ処分し、上官に相応しい威厳ある部屋に…!と努力した結果らしい。
確かに昔入った事のある東海本社の執務室はいつから使い続けているのかわからないような古いものが平気で転がっていたような気はするが、山陽とて敢えて暗部に触れる覚悟は無い。そう言えばあの頃遠い目をしたジュニアが『黒電話はもう時代の遺物ですよね、そうですよね…』と呟いていたのは笑えないジョークの類だったと信じたい。
ふるふると頭を振って恐ろしい記憶を脳内から追い出すと、山陽は人気のない通路を右に折れた。煌々と蛍光灯が明るい廊下だが、通る人間は少ないので物音ひとつせず静かなものだ。こういう時に一人だと気が滅入るんだよな、と溜息をまたひとつ落としかけて、山陽は自分のものではない足音に気付いてぴたりと足を止めた。
ぺたっ、ぺたっ、ぺたっ。
「……ん?」
かつかつという自分の靴音や、職員のそれとは異なる足音。敢えて言うならば子どものゴム靴のそれに似ている音に、山陽は思わず首を傾げた。
何せ此処は新大阪駅でも最も奥まった、関係者以外立ち入り禁止の職員通路。それも上官執務室に通じる最も人気の少ない場所だ。
こんな場所に迷ったとしても入り込む方が難しいだろうに、と困惑を覚えながらも足音のする方へとつま先を向けた山陽は、ドアふたつ分を通り過ぎて角をひとつ曲ったところで足音の主を発見する事になった。
ぺったんぺったん、と水かきのある足を器用に動かして、二足歩行する水色のカモノハシ。それが何やら慌てた様子で此方に向かって歩いてくる。
「……イコ?」
JR西日本のICカード・ICOCA、そのマスコットキャラであるところの『カモノハシのイコちゃん』。何とも言えないユルさと糸目が愛嬌のあるカモノハシで、山陽も何度か顔を合わせた事がある。東日本のどこかの誰かを彷彿とさせるツンデレペンギンとは正反対に誰にでもすぐ懐く社交的な性格のせいか、西日本の在来線や私鉄ともさほどの軋轢もなくやっていると聞いている。
こんなところにいるなんて、しっかりしているコイツにしては珍しくも迷い込んだのだろうか、と視線を合わせるためにしゃがんだ山陽を見上げて、ぺたぺたと更に足を速めて此方へと向かってきたカモノハシは、躊躇いなくくいくいと山陽のスラックスの裾を引っ張った。
「お、おお?なんだなんだ俺に用なのか?」
くわ、と喉を鳴らして、どうやら同意を示しているらしい。通路を先を短い手で示されて、山陽は彼を抱き上げるとそちらへと足を向けた。仕事が残っているのも確かだが、小動物を見捨てるわけにもいくまい。
先日居合わせた際に遭遇した慌てる東海道とTOICAのひよこじゃないけど、俺もコイツに甘いなあと苦笑しながら足を進めた先には。
「……マジかよ」
まさしく先ほど思い浮かべたばかりの東海箱入りのひよこ二羽が、揃って目を回して転がっていたのだった。
「ああもう、何処へ行ったんだあいつらは……!?」
苛々と爪を噛みながら、東海道は室内を行ったり来たりを繰り返す。
錯乱した関西に名古屋で呼び止められ、というか泣き付かれ、引きずられるようにして向かった東海本社で告げられたのはTOICAひよこ二羽が行方不明、という事態だった。
なんでも本日のひよこ当番であるところの関西がちょっと目を離した隙に姿が見えなくなっていたらしい。それでも名古屋から繋がるTOICAエリアはそう選択肢があるわけでもない。多少は慌てていたものの、他の東海在来線に連絡を入れて捜索を開始した関西の行動は間違ってはいなかったはずだ。東海道でも同じ立場ならそうしただろう事は明らかで、『僕の所為なんです、僕が目を離したからっ……!』と落ち込む関西を柄でも無いのに必死に宥め、とりあえず戻った武豊に任せてきた。
TOICA利用エリアからJR東海エリア全域へと広げた捜索の手は未だ空回りしていて、ひよこの足取りすら掴めていない。全体の情報を整理する為に上官執務室に詰めているのもそろそろ限界で、東に捜索に向かった弟と反対方向、本来ならば本日の業務の為に向かう筈だった新大阪方面に行ってみるかと考え始めていた。
そんな矢先、ドアの向こう側からばたばたと忙しない足音が聞こえてくる。
ひょっとして何か新しい報告でもあるのだろうか、とぴたりと足を止めた東海道は、逸る気分を宥めて自ら執務室のドアを開く。そして、その先に見えた予想外人物ともう一匹の姿に、ぽかん、と口を開いて立ち尽くしてしまった。
「――さんよう?」
「とーかいどー、良かった居たな?!」
すれ違いになったらどうしようかと焦った、と笑う山陽の額には薄く汗が浮いている。どれだけ急いで此処に来たんだ、と純粋な疑問を告げようとしたその瞬間、山陽の小脇に抱えられていた水色のカモノハシが東海道を見上げて挨拶のようにくわ、と一声鳴いた。
「へ……あ、おまえ、確か」
「おー、ウチのとこのカモノハシ」
名前は知ってるよな、と問われた声に、こくりと頷いた東海道の様子に満足したように、カモノハシはばたばたと短い手足としっぽをばたつかせている。山陽がそっと床に下ろしてやると、彼は東海道のスラックスの端をきゅっと掴んで、もう一声高く鳴いた。どうやら、彼なりの挨拶なのだろうか。
呆気に取られてそれを見ていた東海道だったが、はっと現状を思い出して再び眉をハの字に歪める。西のカモノハシと戯れている場合ではない。
「悪いが、今は緊急事態だ。急ぎの用件でなければまた後日……」
「ああうん、だろうと思って急いで来た」
ごそごそと空いた両手で己の制服のポケットを漁っていた山陽の大きな手が、東海道の両手を取って何かを乗せる。いったい何だと口を不機嫌そうに曲げた東海道だったが、覚えのある温もりと柔らかさにはっと気付いて己の手の中を覗き込んだ。
「TOICA!!」
ぴい、ぴっ!
呼応するようにすぐさま揃って上げられたひよこの鳴き声に、へなへなと東海道の膝が崩れ落ちる。ぺたり、と床に座り込む格好になった彼の心情を知ってか知らずか、相互利用もまだだというのに見事にJR東海そのものとも言える彼に懐いたひよこたちはぴいぴいと機嫌良く囀っている。
「は、はは……ははは、そうか、無事だったか……」
万が一の事があったらどうしようかと思っていた、と呟く東海道の肩は落ちて、声には僅かに涙の気配が交じっている。それとなく背後のドアを閉めた山陽は、へたり込んだ東海道の傍らに膝を付くと、苦笑交じりにその背を撫でてやる。
「新大阪の職員通路で目ェ回してるところをイコが見つけてな。きっとおまえさんが心配してるだろうと思って急いで連れてきたんだが……」
「ああ……助かった。他の連中にも急いで知らせねば」
ひよこを床に下ろし、ぐい、と袖口で目じりを拭った東海道は、先ほどまでの揺れた気配を欠片も残さずに淡々と業務無線でひよこの無事を各部署と在来線に知らせてゆく。無線の向こうから安堵のためか、やっぱり泣き叫ぶ関西本線の声が聞こえたが今回ばかりは大目に見るつもりらしい東海道は、苦笑ひとつで責めるでもなく無線を切った。
最後にこちらは携帯で東京駅にいるらしいジュニアに発見の報告を簡潔に済ませた後に、そっと床の上で大人しくしていたカモノハシの小さな手を取った。
「ありがとう、こいつらを見つけてくれて。JR東海所属路線を代表して礼を言わせて貰う」
滅多にないほど柔らかい表情でそう告げる東海道の顔をじっと見つめていた水色のカモノハシだったが、その手できゅっと東海道の人差し指を握りしめる。気にするな、と言わんばかりのその仕草に、山陽も東海道も苦笑を零して顔を見合わせた。
「おまえも悪かったな、わざわざ名古屋まで足を運ばせてしまって」
この埋め合わせはそのうち必ず、と続けられた東海道の律儀さは相変わらずで、多少融通が利かないところはあるが、遅延や運休が無ければそれほど扱いにくい男でも無い。
「べっつに構わねえよ。晩飯のひとつでも奢ってくれりゃあチャラにするさ」
窓の外から、オレンジ色の夕日が差し込んでいる。
ひよこの行方不明を発端に慌ただしいまま終わってしまった一日は、けれども意味がないものでもなかったと山陽は思う。
少なくとも、自分とこの水色のカモノハシにとっては。
「……イコ、またそいつら見つけたら俺かコイツに、な」
了解、と言わんばかりにばたばたと振られる水色のしっぽに、東海道と山陽は顔を見合わせ、揃って破顔する。その傍では不思議そうに二羽のひよこが揃って逆方向に首を傾げて転げているのもご愛敬だ。
その後、この騒動を反省する筈もないひよこ二羽の脱走劇は何度となく繰り返されることとなる。
そのうちの何度かは東海道上官お手製の小さなリュックサックを背負った水色のカモノハシが名駅を訪れることで終息するのだが、その真相は今なお上官二人と水色のカモノハシだけの秘密だ。
ぺたっ、ぺたっ、ぺたっ。
今日も上機嫌に新大阪駅を闊歩する彼の足音に、東海道と山陽は顔を見合せて小さく笑った。
2008.08.11.
イコちゃんはマスコットキャラの中でも男前だと信じています。
そんでひよこは傍若無人、ペンギンはツンデレ。カエルは…まだわかりませんが。