セカンド・インプレッション


 意図的に、接触を避けているとの自覚はあった。

「東海道、……東海道!」
 少し苛立ちが混じったような声で、同僚である京浜東北が己の名を呼ぶ。空色の制服が重苦しい曇天の中で唯一晴れ渡る空の色を思わせる彼の眼鏡の奥の眼は、きつい色を滲ませて東海道を見据えていた。
「ちょっと東海道、また何かあったの?」
「何かって……何が?」
「はぐらかすのはよして、聞いてるのは僕の方だよ」
 努めてフラットな音域を心がけた声は、己でも驚くほどに硬質で冷たい。音になった瞬間に拙い、と感じてはいたが、流石に見た目を裏切る年長路線・京浜東北は眉ひとつ動かさず、東海道の決して巧くないはぐらかしの話術をばっさりと切って捨てる。
「別に……はぐらかしてなんか」
 ふい、と反らした視線。それだけでこの言葉が嘘であることくらいは京浜東北に悟られるだろう。いい加減この男との付き合いも長く、他の在来線よりは身近にあるだけに東海道の表層的な部分はもはや彼には隠しようもない。
 とはいえ、それはお互い様ではあるのだけれど、大抵後ろめたいものを抱え込むのは東海道の方だというのはもう長年の恒例というヤツだ。
「東海道上官が心配なさってたよ。君、東海の定例にも顔を出してないらしいじゃない」
「そりゃ、宇都宮やオマエがたまには会議にちゃんと出ろってうるせーから」
「今まで僕らが何言ったって、東海と被った会議は問答無用でボイコットしてたくせに何言ってんのさ。……お兄さんと、喧嘩でもした?」
 呆れたように肩をすくめた次の瞬間には、心配そうに問いかける京浜東北の読みはある意味正しい。ただ、これは喧嘩なんて呼べるような温度のあるものではなく、一方的に東海道が噛み砕く事が出来ない感情を持て余している、というだけで。
 何を言っても形にならないだろうもやもやとした気持ちを抱えたまま、そっぽを向いた視線を戻すことすら出来ずに、溜息のような声を零した。
「……そんなんじゃねーよ、だから何でもねーって」

 何か、なんて聞きたいのは此方の方だ。この形の無い何かが何であるのか、なんて。
 ……違う、本当はわかっているのだ。どうしたって認めたくないだけで。

 先日見た光景が、瞼の裏に焼きついたまま離れてくれない。
 あの兄が、自尊心はべらぼうに高くて心を許す相手なんて数えるほどしかいない兄が、信じられないくらい弱い姿で他人に縋る姿が今もなお鮮やかに記憶の中に留まったまま離れてくれない。

 ずっと長いこと、東海道にとって兄は絶対の上位者だった。
 背を追うことしか考えることさえなかった、完全無欠の存在。常に東海道の行く先に兄の姿があり、それは僅かな苛立ちを伴いはしたけれど殆どの感情は誇らしさと崇敬に満ちていた。
 兄のする事に間違いは無く、兄が示す未来に疑問を持ったことさえ無い。兄と比べられる事に拒否を覚えても、結局のところ帰結する感情はその相似への幸福なのだからどうしようもない。
 だからこそ、実の弟であるはずの東海道でさえ、あそこまで弱った姿なんて見た事はなかった。それが己が良く知らぬ人間を相手に、というところもまた癪に障る。

 気に入らない。

 どこか硝子のような虚ろを抱えた双眸の、穏やかな訛りのキツイ言葉を繰る上官の顔が脳裏を過ぎる。山形の名を持つ彼の事を、東海道は殆ど知らない。
 兄の同僚であり、新在直通のミニ新幹線。口を開く事さえ稀だから、あんな喋り方をすること自体先日初めて知ったくらいだ。
 東西に長い距離を走る東海道にとって各地の方言が多種多様な事は今さら省みるまでもない事だが、残念ながら東京以北の方言への造詣は深くない。あの時山形が喋った言葉もなんとなくのニュアンスを汲んだだけで、本当に正しく理解できているかと言えば非常に心許ない。
 けれど、東海道にとって彼の存在を拒否するには、兄が縋った膝を兄の背を撫ぜた白い手袋だけで十分すぎる。
 ずっと追いかけるだけだった兄、それを更なる上位者として触れるあの手の存在を許してしまったら、己は何処に行けばいいのだ?

 ふるり、と頭を一つ振って、東海道は僅かに低い位置にある京浜東北の瞳を硝子越しに見つめる。真っ直ぐなそれは、時に無軌道な感情に流されがちな東海道と異なり常に合理性と道理を説いているようで、東海道は決して嫌いではなかった。

「……ホント、何でもねーから」
「そう。なら聞かないでおくけど」

 強がりなのが自分でもばればれな台詞に、けれども京浜東北は僅かに首を傾げただけでくるりと踵を返す。さらり、と肩口で揺れる髪は、僅かに色素が薄くて陽光を透かすと茶色に見えた。
 それは、兄とずっと一緒に走ってきたかの上官の色を彷彿とさせて、東海道はぎゅっと眉間に皺を寄せて叫びだしたい衝動を堪える。

 自分はもう、兄に手を引かれるだけの小さな弟ではないというのに。
 この背はとうに兄を越し、兄よりも長い距離を走り、一路線としては破格の三社所属というその肩書きこそが一人前であると信じたいのに。
 それでも、最も認めてほしい人の中ではずっと己は子供のままだ。あの兄は同僚として部下としてだけではない甘さを己に向ける。
 そんなものは要らない、欲しいのは兄の信頼、兄の助けとなり得る力。ただそれだけだというのに。
 半分は自分たちと同じ高速鉄道、山形新幹線。
 彼はそれを叶えたのだろうか。ある意味自分たちと同じように兄の庇護下にありながら、その兄が頼り、兄を支えるに足る何かを手に入れたのだろうか。

 ぎりり、と奥歯が軋む音がする。

 やっぱりあの人は嫌いだ、と呟いた声が、妙に空々しくホームに響く。
 東海道は苦々しい気分で、それを振り切るように走りだす。東から西へ、遠く遠く、兄と同じ道のりをただひた走るために。



2009.02.05.