リスタート・ゼロ
「……えーと、山形サン?」
アンタ何したの、と引き攣った顔で問いかける山陽に、思わず反射的に右頬のガーゼをするりと撫でる。盛大に腫れあがったそれは見ているだけでこっちが痛い、と呆れ顔の上越に今朝方貼られたのだが、結局のところ腫れた頬も白いガーゼも同じくらいに人目は引くものだ。
何せ今は東海道新幹線の付属物のように扱われている東海道本線だが、元を辿れば牛馬の昔に黎明を辿り、明治・大正・昭和とこの国の隆盛と共に在った路線だ。あの雪の日にようようと抱え上げた重さに違わぬ実用的な体躯を明るい橙色の制服の下に持つ彼の一撃は、一晩を経過した今であっても、否、時間を経たからこそ山形の顔を見るも無残な状態に変えていた。
正直喋るのも辛い状態だったので、そもそも首都圏では東海道に『山形弁で喋るな!』と厳命を受けていることもあって、朝から一言も口を利いていない。おかげで周囲からの奇異の視線は突き刺さるが如く山形に寄せられたが、無言を貫いたおかげで今頃有象無象の噂話が回り巡っているに違いない。
とはいえ、それは山形を『上官』として扱ってくれる面々の話だ。
同僚である山陽は無言のままでいても見逃してくれる事はなく、じいっと此方を胡乱な眼差しで見据えて出方を窺っている。少し口角を動かしただけでじわりと痛む頬に眉根を寄せつつ、これは話さない限りは解放されないか、と腹を括った。
「おめさが、東海道にされてんのと、同じだべ」
「ああうんとーかいどーちゃんはちょっと暴力的過ぎるっていうか――って、え?」
へらり、と少し困ったような、けれども本音のところでは東海道との関わりを示されたようで嬉しかったのか、喜色が滲み出たような山陽の声に、以前は奇特な事だとしか思わなかったことを思い出す。
だがしかし、とんでもないことを聞かされた方はたまったものではない。
「え?あれ?おまえさん彼女いたの?!」
はて、彼女。
女性ではないが、示す意味合いで言ったら間違ってはいない。但し今のところ山形の願望であって、相手にどう思われているかは不透明なままなわけだが。
どう答えたものだろう、と首を捻る山形の様子をどう思ったのか、ひとり自問自答を繰り返す山陽は、じいっと山形の顔を凝視している。
いや、顔、というか、頬を。
「つか、こんだけ見事に腫れあがるってどんな彼女なのよ、相当無理強いして抵抗されたにしても此処まではなかなか……」
流石は普段から東海道に些細な事で殴られている山陽である、負傷具合から当時の状況まで推察できるとは恐れ入った。まあ東海道の拳は彼の見た目通りのへなちょこパンチなので、そう大したダメージは残らない、というのもあるのだろうが。
実際に付き合うどころか恐らくは相当に嫌われている状態で、「したいと思ったからしてみたら殴られた」という前提とネジを数本ふっ飛ばしでもしない限りは辿りつかない相手までは察せられることはないだろうと、山形は目の前で唸る山陽、という面白いものを観察することを決め込んだ。
他人事でこれだけ真剣に悩めるとは山陽も難儀なことだなあ、と正しく他人事のようにその百面相を見守りつつ、卓上の湯呑にお茶を注ぐ。無論自分が飲んだら大変な事になるのはわかっているので、熱いそれに直ぐに口をつけることはせず、そっと山陽の手元へと片方をことりと置いた。
「ぬぐいうちに飲むとええよ、山陽」
「あ、悪ィ。……じゃなくて!」
流石は西の人間、とても山形には出来ない見事なノリツッコミだ、と内心拍手を送りつつ、立ち上る湯気に果たして口に出来るのはどのくらい後だろうか、と目を細める。そんな僅かな表情筋の動きですら傷に響き動きを止めた山形と、何かに思い至ったのだろうか、湯呑に口をつけた山陽の手が止まるのは、ほぼ同時だった。
「……ちょっと待て、山形」
俺は今非常に怖い想像をした、と一気に顔を青褪めさせた山陽が、おそるおそる、という表現がこれ以上無い程にしっくりと嵌まる様子で山形の名を呼ぶ。
「ええと、山形サン?おにーさん否定されるの前提で言うんだけどね?」
まさかそれって、とーかいどーちゃんには絶対に言えないような相手……じゃ、ないよ、ね?と限りなくぼかして告げられた言葉は、けれど彼と兄である東海道を知る相手ならば、誤解のしようのない表現でもある。
「――すげえなあ、山陽」
まさかこれだけの情報量で相手を特定するとは、流石は山陽新幹線。長年東海道新幹線の女房役を努め、基本融通が利かず二心を察することに疎い東海道の補佐を務めてきた経歴は伊達ではない。
純粋に感心する山形の目の前でがくりと崩れ落ちた山陽は、酷く重苦しい溜息をひとつ。
「うん……そりゃね、あの子に食らってその程度で済んでるなら可愛い方だけどね……」
山陽が東海道に殴られている場面は良く見かけるが、そもそも一発の重みが全く違う。かの本線の本気の一撃を食らって、奥歯の一本犠牲にするでも、頬骨やらが砕けるでもなく打撲だけで済んだなら幸いと、肩を叩く山陽の声には何某かの実感が籠っている。どうやら山陽も山形同様に、彼の拳を食らったことがあるらしい。
「絶対同意貰ってないよね?つか相当本気のを食らったよね?――なんでそんな幸せそうな顔してるか、山陽さん聞きたいような聞きたくないような……」
「ん?そうけ?」
柔らかい感触を思う存分堪能した後に、叫び声と共に食らった拳は確かに痛かった。いや、その瞬間には痛みとすら判断出来ず、意識が一瞬空白になり、気付いたら少し離れた位置にあるホームのアスファルトに転がっており、眼前をばたばたと走り去ってゆく革靴の黒が視界の端に映った。
今思い出してもフィクションの類だとしか思えないくらいに吹っ飛んでホームを転げた一連の記憶を思い返しながら、じわりと痛む頬に思わず手を添える。無論少し触れただけで痛むのでガーゼの縁をなぞる程度で、実際には触れてはいないのだが。
「次はもうちっとばかし上手くやるべなあ」
「……っ、俺は何も聞いてない、聞かなかったんだからね!」
震える手で掴んだ湯呑の中身を飲み干し、山陽はそう言い捨てて逃げるように執務室を出て行った。そうは言っても貧乏くじを引きやすい、もとい面倒見の良い彼のこと、骨くらいは拾ってくれるだろうが。
流石に少しばかり欲求に素直に行動し過ぎた自覚はあったので、もはや待っていても彼と遭遇することは、いくら東海道の傍らに在っても難しいだろう。
さてこうなると次はいつ会いに行こうか、或いは東海道や山陽辺りに乗せて貰って、首都圏から離れて油断している彼、という貴重なものを見るのもいいかも知れない。多少ほとぼりが冷めた頃なら、彼の警戒心も緩んでいるだろうし丁度いいかと、山形はひとり楽しげに目元を緩ませた。
「っくしゅっ!!」
「どうした、東海道?」
風邪か、と眉をハの字に寄せて心配そうに問いかける兄の声に、なんでもない、と苦笑を返してみせる。実際に単にくしゃみがひとつ出ただけで、体調が悪いわけでも埃っぽいわけでもない。
「いや、誰かが噂してんじゃねーの」
なんともない、と笑って見せれば、あからさまにほっとした様子の兄がそうか、と再び手元の書類へと視線を落とす。
とんでもない人からとんでもないことをされた翌日。
これは恥も外聞も取り繕っている場合ではない、真剣に貞操の危機を覚悟せねば、と決意を固めた東海道は、さっくりと東日本の案件をすべて放り投げて熱海以西に逃げ出した。
無論投げ出した案件の行き先である京浜東北にはこれでもかと胡乱な表情をされたが、何せ長い付き合いの上にあれやこれやの過去を知る相手である。
真面目に俺の貞操が危機だ、と何一つ隠さずに告げてみれば、腹が捩れるという表現が似つかわしい有様で大爆笑して下さった。下さったが、どうにか笑いを収めた後にはそういうことなら仕方ない、と承諾してもくれたので、持つべきものは付き合いの長い頼もしい同僚だと、東海道は西の地からこっそりと京浜東北が走るだろう東の地に向けて拝んだ。
流石に兄にあらいざらいぶちまけるほどの勇気はなかったので、これまたこっそりと東海上層部に手を回し、こちらの仕事を増やして貰った。兄に内緒でこれらを実行するのは骨が折れたが、下手に兄に山形とのいざこざを件の事件を伏せて告げれば仲直りしろと気を回されるのがオチだ。そうなったら今度こそ流血沙汰か、或いは己の貞操が危ない。
当分は互いに近づかないが吉、と決め込んだら、少しは腹も据わってきた。
『ああそうだ、山陽サンにも手を回しておかないと……』
漸く本来の冷静さを取り戻してきた頭脳をフル回転させながら、己のダイヤに関わる書類に目を通す。かつての特急全盛時の己のダイヤとは比べるべくもない隙間だらけのそれを、けれども東海道は口惜しいとも嘆かわしいとも思わない。
ちらり、と覗き見た硬質な横顔。良く似ていると称される兄のそれに、己のそれも似ていたなら嬉しい。心の奥、衝撃的な出来事で空いた隙間を暖かく埋めてゆく感覚に、東海道は無自覚にその唇に笑みを浮かべた。
この一連の激動の出来事で、ひとつだけ知った喜ばしいこともある。
おのれにとんでもないことをしてくれたあの東日本の上官は、兄と付き合っているわけではない、という事実だ。
或いは誠実とも呼べるくらいに己の心に正直な人だということは骨身に染みたので、己と兄に二股を掛けられるほどに器用ではあるまい。また、そんな事態に陥っていたならば、そもそも兄がこんなに平常通りのはずがない。
「兄さん、ちょっと疲れたろ。俺、お茶いれてくるよ」
「ん?ああ、すまないな」
ふわり、と身内であるが故の飾らない態度で感謝を告げる兄の声に気を良くして、東海道は給湯室へと足を向ける。兄の好きな紅茶はまだ残っていたはず、と足取りも軽く向かう。
だから、この時は気付く由もなかった。
この後しばらくして、兄はとっくの昔から山陽と付き合っていることを知り、真っ黒いなにかを背負って西の上官に抉るようなボディーブローを食らわせることも。
そして地元だからと油断しきっていたところに、再びの山形来襲で脱兎のごとく全力で逃げ出す羽目に陥ることも。
今この時ばかりは知らず幸福を噛み締める東海道本線は、鼻歌交じりに紅茶の缶を手に取ると、慎重な手つきで愛する兄の為に心尽くしの一杯を淹れるべく、真剣な眼差しでティースプーンを手に取った。
END
2011.03.01.