恒例行事と赤い悪魔


 七月。
 月末に一年に一度のイベントを控え、定期点検以外ではなるべく近寄りたくない場所に立ち寄る事が増える月である。
 何せ予定外で此処に来るということは予想外の故障やトラブルを抱えているということであり、定時運行という目標の為には大変よろしくない事態だと言えるからだ。未だ記憶に新しい米原での事故が脳裏を過り、芋づる式に蘇る様々な悪夢を振り払うように頭を振った。
 そういった突発事項は兎も角として、一番の憂鬱は滅多にないことではあるが、此処に来ると会いたくない奴に会うかも知れない、ということだった。
 今日は自分が来る事はここの職員たちもわかっているはずだ。自分たちの相性がすこぶる悪い事は彼らも承知しているから、まさかあれは居ないだろう、と希望的観測を胸に秘め、東海道は無意識に重くなる足取りで工場の敷地へと足を踏み入れた。のだが。

「やあ、こんばんは上官さん」

 ……居やがった。
 予測とは往々にして裏切られるものだと骨身に染みている筈の東海道でさえ、思わず口元が引き攣るのを止められなかった。
 中肉中背、顔立ちも十人並み、純日本人の外見と、特に容姿に目立つものがあるわけではない。けれども彼が人目を引くのは、その色鮮やかな赤の制服のせいだろう。
 制服にしてはあまりに奇抜なその色は悪目立ちをしてもいいだろうに、それが当然であると思わせるのはこの男の特性と言えるだろうか。
 JRのものでない、他の大手私鉄とも全く似ていないその制服は、いつまでたっても見慣れる事は無く、この男との相性の悪さも変わる事はなかった。
「……何故貴様が此処にいる」
「やだなあ、そういう勘繰りは。今日は定期点検の日なんだよ、ちゃんと貴方のとこと契約してるでしょ?」
 くすり、と小さく笑みを零す様子からはこの男が何を考えているのかは読み取れない。

 遠州鉄道。
 新浜松駅から西鹿島駅まで、北へと延びる一路線を営業しているだけの男だが、車両の輪軸検修を浜松工場に委託していることもあり、時折ここで顔を合わせる間柄だ。
 浜松、とは言ってもJR浜松駅と彼の駅舎はそれなりに離れている。普段は自分のみならず弟でさえ顔を合わせる事は滅多にないらしいから、或いは自分の方が出会った回数は多いのかも知れない。
 営業規模や路線の規模から言っても、JR東海を支える路線であると自負する東海道がまったく歯牙にかける必要もないような中小私鉄だ。首都圏の大手私鉄にも及ばず、また路線も重ならない為に商売敵ですらない。にも関わらず、この男に東海道がここまで苦手意識を持たざるを得なかった理由とは。

「旅客鉄道としては、頑な過ぎるのも考えものだと思うけど。貴方のそういうところって、国鉄だったころからちっとも変わらないね」
「……余計な御世話だ、零細私鉄。貴様如きに何がわかる」
「あっはっは、相変わらずだなあ上官さんは……貴方がそんなだから嘉延君に嫌われるんだよ」
 ぴくり、と東海道のこめかみが引き攣る。
 その名前が意味する問題は、今ここいら辺りで抱えている一番の懸念事項だったからだ。今は彼……当該県知事が推進してきた新空港が開港するということで有耶無耶になりかけているが、その空港絡みでもひと悶着はあったりしたわけで。
「新空港駅の誘致、ばっさり断ったんだって?嘉延君がどれだけ入れ込んでたか貴方だって知ってるだろうにねえ。今度こそ自慢ののぞみに本気で通行税をかけられるよ?」
「それこそ余計な御世話だ!!」

 暖簾に腕押し。糠に釘。
 こちらが痛いところを確実についてくるくせに、こちらの嫌みはまるで通じない。だいたい高度な経営方針に基づく判断をこちらの我が儘のように言ってくる辺りが気に食わない。
 記憶に焼きついた悪夢のような「つばめ」の言動と異なるのは、この男がこちらの状況も言い分もすべて理解しきちんと聞いた上で、的確なダメージを与えてくるところだろう。尚且つ、それはギリギリでこちらへの侮辱とイコールでは結ばれないラインを守っている。現在の同僚の一人、上越新幹線のそれに近いものがあるかも知れない。
 正論ではあるとは思う。彼の地元の住民にしてみれば、止まりもしない高速便が何本も通過だけするというのは理不尽に思うのだろう。
 しかし現状で東京⇔大阪間の最短時間を維持する為には停車時間のリスクに対するメリットが薄すぎる。新空港最寄りの新駅についても同様で、もしも実現するのならば掛川への新幹線停車を廃止するより他に無い。
 これらの件についての県とJR東海の言い分は常に平行線で、強気に振舞ってはいるが胃が痛い思いは何度もしてきた。この男如きにどうこう言われる理由は無い、と断言できるのに、それでも今まで培った苦手意識と飄々とした相手の様子に、ぎりぎりと奥歯を噛み締めたくなる衝動を必死で抑え込む。

「……下らん。私は忙しいんだ、戯言ならば壁にでも言え」
 努めてフラットになるように抑えた声色でそう告げれば、にこり、と遠鉄の笑みが更に深くなる。脳裏を過った嫌な予感は、今まで重ねた経験が告げるレッドアラーム。
 足早に通り過ぎようとした自分の努力を嘲笑うように、楽しそうな声が追い打ちをかける。

「ああ、月末にここでイベントするんだっけ?妹が言ってたよ」

 妹。奴の妹。
 ここいら一帯を網羅するバス路線。それを統括し、全国初・そして最大規模のオムニバスタウンの肩書きを誇る彼女の、記憶の底に封じ込めたはずの姿が蘇る。
 銀地に緑のライン、という兄に負けず劣らず目立つ制服の彼女の高笑いは、これまた出来れば二度と聞きたくない。聞きたくないが、一般的な駅からここまでの交通手段はタクシーか彼女しかないのも事実なわけで。例えシャトルバスにここいらから撤退して久しいJRバスの車両を引っ張り出すにしても、あの数の人々を捌く為にはこの土地で膨大な数の車両を抱える彼女の協力は不可欠だった。
「計画書は確認したから面会は割愛するけど当日はよろしく、って伝言を預かってるよ。あの子のターミナルにも案内出すし、もうだいぶ僕らも慣れたからね。大丈夫、ウチの子たちは名古屋の市営なんかよりよっぽど安全運転だから」
「……。」
 それは比べる対象がアレだ、と喉元まで出かけた言葉を飲み込む。
 全国初、を数多く関する彼女は、技術面では新しもの好きで革新的だが、確かにそういった安全面や運行の基本に関しては律儀であり信頼はおける。……だが、それが彼女という人格と己が相容れられるか否か、という問題はまた別だろうとも思う。
「ふふ、今年も楽しみだねえ、上官さん」
 赤い制服の遠鉄の表面上は穏やかな頬笑みが、これほど物騒に見えるのはなぜだろうかとちょっとだけ悲しくなった。

 月末は刻々と近づいてくる。やるべきことは山積みで、考えることだっていくらでもあるというのに。
 シャトルバスを全部JRバスで賄えたらいいのに、といつになく弱気な事を考えながら、東海道はしくしくと痛み始めた胃のあたりをそっと押えた。




2008.07.15.

遠州鉄道と東海道上官。
たぶん宇都宮か上越上官並みに天敵。そんな遠鉄の普段の餌食は天浜線。
そして妹は苦手ってか同族嫌悪じゃないかなあ。お越しの際はぜひ駅前バスターミナルをご覧下さいませ、帝国を実感できるよ!