共に走る
降り続く雨足は弱まる気配すら見せず、鳴り響く落雷の音と光は驚くほどに近い。午後から降り続いている雨は既に豪雨と呼ぶべき強さになり、自分だけではなく在来線の足をも悉く絡め取り、東海地方の交通網へと大打撃を与えた。
自分と弟が止まってしまえば、東西を結ぶラインはほぼ壊滅と言っていい。普段ならば商売敵である名鉄も、今回ばかりは雨には勝てなかったらしく架線故障で復旧のめどが立たないと連絡があった。なんでも雨が流れ込んでレール下の砂利が根こそぎ持って行かれた箇所があるらしく、本日中の復旧は無理だろうと告げた力ない名鉄本線の声が耳に残っている。他社とはいえ、明日は我が身だ。弟には念入りに架線状況を確認しろと伝えてある。
そんな状況下で飛び交う無線の内容は悲壮極まりなく、さりげなく様子を見てきてもらった在来線詰所の空気はまるでお通夜の如き沈痛さだったという。
こんな時にこそ自分が走らねばならないのに、雨量計のメーターは振り切れたまま戻ってくる様子すら無い。動きたくても動けない現状に、焦れて泣き喚くことすら出来ずに奥歯をきつく噛み締めた。
「兄貴、状況はどうなってる?」
「東海道……」
出入りが激しいので開け放したままのドアを軽くノックして、オレンジ色の制服を纏った長身の弟がこちらを窺っている。気にせず入ってくればいいのに、と内心寂しく思いながら、軽く視線と手振りで彼の入室を促した。
「今日はもう無理かも知れんな、明日以降に影響を残さないように最善を尽くすしかあるまい」
長い脚で歩み寄る弟の髪からは滴が滴り、制服は色が変わるほどにぐっしょりと濡れている。慌てて執務室に常備してあるタオルを取り出すと、ばさりと自分よりも一回り大きな弟の頭にそれを被せた。
「ばかもの、そんな格好のまま歩きまわるヤツがあるか!?ああ、もうこんなに濡れて……」
「ばっ、へ、平気だっつーのこのくらい!いいからアンタは座ってろよ!!」
がしがしとタオルで水気をぬぐおうとすれば、その手を弾かれてしまう。小さな頃は兄ちゃん兄ちゃんと慕ってくれたのに、ずいぶんと大きくなった弟はもう己の手を離れてしまったようでこんな時は少し寂しい。
それでもなけなしの矜持でそんな感情を表には出さず、タオルだけを弟の手に残してしぶしぶと元の場所に腰を下ろした。
「おまえの架線状況はどうだ?名鉄からの連絡は行っていると思うが」
「ああ、バラスト流されたって?アイツも大変だよな」
こっちは大丈夫だった、と告げる弟の声には疲れが滲んでいたが、言葉通りに雨さえ上がれば支障がないレベルなのだろう。あからさまにほっと息をつけば、じっとこちらを見つめる視線に気づいた。
「な、なんだ?私がどうかしたか?」
弟からの温度が見えない眼差しに困惑を隠せずに告げれば、痛みを堪えるように低く保った声が落ちてくる。
「……悪かったな、アンタ本当なら今日は東京詰めだろ?」
俺たちだけでどうにか出来たら良かったのに、と告げる声に、東海道は思わず目を見開いた。更にぱちぱちと瞬きを繰り返し、弟の言いたい事をようやく察する。
要するにこれはあれだ、不貞腐れているわけだ。不甲斐ない己への自己嫌悪で。
自分にも覚えのある感情になんだかくすぐったい思いを覚えながら、東海道はふと口元を綻ばせて弟と視線を合わせる。
「私の業務についてならば問題ない、東京ならば他の高速鉄道がうまくやるだろう。……そして此処におまえがいてくれて、助かったよ」
此処から立場上動けない私に代わって、おまえが様々なものを見聞きしてくれるからこのような非常事態でも冷静でいられるのだと、常から思っていた事を口にすれば今度は弟の口がぽかん、と開いた。
次いで、見る間に真っ赤に染まってゆく頬に『ああ、こういうところは昔から変わらないんだな』と自分たちが共に過ごした時間の長さを再確認して更に笑みを深めると、逃げるようにタオルを投げつけて出て行ってしまった。
東海在来には、首都圏の京浜東北のように明確なリーダーは存在しない。
弟のように三社というのは特異な例だが、東日本や西日本との二重籍の路線も多く、東海のみの業務に集中できる状態ではないのが現実だ。また、東海のみの路線は地元に根差しているのでそもそも詰所のある名古屋まで出てくる事が滅多に無い。
そんな状況の中でもとりあえずは弟がそれらしきものを担って上官である自分とのパイプ役を務めてくれてはいるが、結局はあらゆる判断や決済は自分のところまで上がってくる。それはJR東海そのものを己が背負っているのだという事実に他ならず、故にこういった事態の時に西に山陽、東に東北や秋田、上越に山形、長野が常駐してくれている現状は有り難い。
一人で走っていた頃に比べれば、自分の責務は随分と減った。だからこそこれほどの本数を走らせてもどうにかこなせるのであって、今ひとりきりだったころに戻れと言われたら発狂するに違いない。
「ああ……それでも、本当にひとりじゃなかったな」
ぽつりと零す言葉と同時に、脳裏に過るのは綺麗なオレンジ色の制服。
常に付かず離れず、同じような架線を寄り添って走る唯一無二の弟の姿。
彼が居るから自分が走れる。決して多くない新幹線の駅まで乗客を運び、また下車した彼らを自宅の最寄り駅まで運んでくれる弟がいるからこそ、自分は日本を代表する高速鉄道として今まで走ってこれたのだから。
窓の外の雷雨は止む気配もなく、業務無線からは相変わらず悲壮な声しか聞こえて来ない。
それでも明日を信じられるのは、己が一人ではないからだと今の東海道は知っている。明けない夜は無く、止まない雨も存在しない。
この大雨で直通を切らざるを得ず、新大阪で折り返し運転を余儀なくされているだろうあの陽気な同僚にも明日は会えるだろうか。
ちゃんと迷惑をかけた事を素直に謝れるといい、と天邪鬼な己を叱咤しつつ、東海道は次々と舞い込む報告と、それに対する対策に明け暮れるべく、愛用の机へと向き直った。
2008.08.29.
JR東海壊滅の夜の出来事。お兄ちゃんはマリモになっているヒマもなかったことと思います。
ジュニアはもっと頼って欲しいと思ってるけど、お兄ちゃんは十分頼りにしてるよ!という想いを込めて。