Rainy Day,Sunny Days [SAMPLE]
呟く声をかき消すように降りしきる雨の音が、重苦しい部屋の中を更に深く冷たい何かで満たしてゆく。窓に当たる雨が波のように文様を描き、まるでブラインドのようだと冷めた脳髄のどこかが口走った。
止む気配もなく降り続く雨。
昨夜から続くそれは、もはや『天からの恵み』などという可愛らしい表現を通り越して天災の領域へと変貌しつつある。既に安全な運行が不可能である事を示す雨量計の数字と、今後の不安定な天候を指し示す予報の内容に、無意識のうちに眉根が寄るのは己の弱さを知る故だ。
ダイヤを順守し、全ての乗客の安全を守り、目的地へ運ぶこと。
それが自分の存在意義であり、一度失ったものであるからこそわかる、何よりも大切なもの。
それを守れないかも知れないこの天候は歯痒く、そして己の無力は度し難く屈辱を覚える。名前が変わっても立場が変わっても、所詮お前などその程度のものなのだと嘲笑する幻聴が耳から離れない。
降り続く雨にすら掻き消されないその幻を振り払うように、そっと窓ガラスに触れる。打ち付けるような雨のブラインドを被ったそれは、予想以上にひやりと冷たく、指先の僅かな温もりを瞬く間に奪い去っていった。その冷たさは苛立ちと無力感に苛まれた心には酷く不愉快だ。けれども、それよりも強いのは己の中の何処かが訴える、痛みに近いような感覚。
きしり。
思わず触れたガラスに爪を立てる。激務と不摂生にお世辞にも整えられているとは言い難いそれがガラスの冷たさと相俟って奏でる不協和音は場所も定かでない幻痛を誤魔化すには至らず、むしろ余計に苛立ちを募らせた。
更に己の眉が顰められたのを自覚しながらも、その手を引くことすら思い付かずに更に指先に力を込める。いっそこんなガラスなど雨ごと砕け散れと言わんばかりに。
そんな苛立ち紛れの些細な現実への反抗は、いつの間にか背後から回された腕が柔らかに、けれど有無を言わさずに封じ込める。
慣れた温もり、慣れた感触。
これは己が良く知る、もうひとり。
「……何してんの」
「おまえには関係ない」
ガラスに立てた指先を絡め取る手は、己のそれよりも大きくて温かい。背後から回された腕が肩を抱く、強引とも取れるような所作でさえ当然のように受け流して、ただ真っ直ぐにガラスの向こうを見据えた。
「そんな顔して外見てても、こればっかりは俺達じゃどうにもならねーって」
自分よりも大柄な体格の男は、絡め取った指先をそのままに首筋に顔を埋め溜息交じりに呟く。耳元で聞こえるくぐもったような声が無性に煩わしく、けれど払い除けるほどの強烈な拒絶も湧き上がることは無い。
この男の軽薄な物言いややけに馴れ馴れしい態度にももう慣れた。ただ、今こうして紡がれた言葉の、その内容だけは到底受け入れる事は出来ないものだ。
「どうせ今日は俺もおまえも動けねーよ。たまにはのんびり羽でも伸ばせば……」
「黙れ。おまえが休みたければ勝手に休め、私は走るぞ」
降りしきる雨は激しく、窓にそれを打ち付ける風はいよいよ激しさを増している。どう考えても無理だ、と呆れたように肩口に顔を埋めたままの唇から溜息が零れるのを感じたけれど、その言葉を認めてしまったら己の価値を失ってしまうことと同義でもある事を知っている。
無言のまま、けれど言葉とは裏腹に温もりを分け与えるかのような彼の腕がたまらなく不愉快で、消えてゆく冷たさがもたらした痛みなど大した事は無かったのだと思い知る。
彼と引き会わされてから、数か月。
これからは彼と共に走るのだと告げられた瞬間の感情は、決して漏らしてはならない。自分一人でも構わなかったのに、と嘯く己の事を知ってか知らずか、目の前で嘘臭い笑顔を浮かべて手を差し出す人物の存在は複雑ではあったけれども、仕事として区切るならば自分のすべき事など今までと何一つ変わる事はない。
そう、何一つ変わる事は無いのだと、そう思っていたのに。
「……離せ。時間だ」
「動かせねーってわかってるのに?」
揶揄するような響きの声が苛立ちを募らせる。それは幾度となく彼に感じた齟齬、同じ言葉を喋っているはずなのに、同じ立場にあるはずなのに、彼は時々異国の言葉のように訳のわからないことを口にする。
今もそうだ、何故貴様がこの焦燥を分からない。俺と同じように走る貴様が、何故この状況を理解しない……!
「――わかったよ、センパイ」
ぎり、と歯を食い縛る音を、背後から抱き竦める腕の主は気付いたろうか。苦笑交じりに触れた時と同じように唐突に離れてゆく温もりに、思わず零れそうになった吐息を意志の力だけで飲み込む。踵を返す靴音を振り返る事もないままに、じっと窓の外だけを見据えた。
窓の外は変わらぬ激しい雨が続いている。遠くで雷鳴のような音さえ響くのが聞こえるに至っては、確かに通常通りの運行は不可能かも知れない。けれど、完全に動かせないとは思わない。
窓ガラスに突き立てたままの爪が、きしり、と僅かな音を立てる。そこにあった冷たさは既に自分以外の体温に溶けて消えて、残ったのは毒のような皮膚の感触だけ。
否定される事には慣れている。蔑ろにされる事にはもっと慣れている。荒れた指先、そこから零れる熱を拾い上げるような浅ましい真似が出来るはずもない。
此処に在るのは『新幹線』。より速く、より正確に、より安全に走るべきもの。
たとえ誰が嗤おうと蔑もうと、それでも出来る事はひとつしかありはしないことを知っている。
肩口に、指先に、背中に。纏わりつくように残る体温の残り香にあからさまな嫌悪の表情を浮かべ、振り切るように窓の外から己の視線を引き剥がす。
こんな熱は想定外だった。
いつか終わる日は必ずやってくる。けれど、だからこそ今は誰も文句が付けられないように走らなければ。走り続けなければ!
ぎりり、と奥歯が軋む音が聞こえたような気がした。
握りしめた拳の奥で僅かに欠けた爪が食い込む痛みすら忘れて、ひたすらに前へと歩く。
纏わりつく他人と言うには近すぎる男の体温を振り切るように後にした部屋の中には、ただ雨の音だけが空しく響いていた。
2009.08.16.発行予定