ピヨピヨと兄と弟と


「こらピヨピヨ、書類の上はダメだ」
 PCが普及してから随分減ったとはいえ、それでも業務上紙の書類はそれなりの量が存在している。またそれが集積してゆく東海道新幹線の机の上は積まれた書類が山を形成しているのが常の事で、片付けた端から増えてゆくのもまた日常茶飯事だ。
 とあるきっかけから東海本社の上官執務室に入り浸るようになったtoicaのひよこ二羽は、何故か特に構った覚えもないのに東海道に懐いてしまっている。一番面倒を見ている弟ではなく自分に、という辺りが不可解だが、弟も東海在来線たちもこの事態を『ああ…』と一目で納得してしまった。
 結局本人だけが良く分からぬままに、小動物を無下にも出来ずに入り浸り転げまわるに任せている状態だ。少々行動力があり過ぎてはらはらさせられる事も多いが、それなりに利口であるらしい彼らは東海道が本気で叱った事は二度と繰り返さない。こちらの仕事の邪魔をするでも無し、居場所がはっきりしているだけ問題はなかろうと室内を動き回るに任せている。
 そんな彼らがちょこちょこと机の上によじ登って書類が積み重なった上を見上げたのを見て取って、指先で軽く弾けばぴい!と了承なのか抗議なのか分からない声が上がった。
 山を成す書類の隙間からじっとこちらを見つめる視線に溜息をひとつ落として、東海道はそっとペンを置いて二羽のひよこを掬い上げる。
 己の目の高さまで持ち上げた彼らに向けて、普段は滅多に見られないような柔和な表情で幼子に言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「この机の上はダメだ、ピヨピヨ。遊ぶなら他のところで遊びなさい」
「ぴい、ぴっ!」
 返事のつもりなのか高く鳴いた二羽は、じゃれるように東海道の指先に羽を擦りつけている。しばらく好きなようにさせた後、そろりと床に下ろせばちょこちょことソファのある方へと歩き出す。
 このひよこたちが入り浸るようになってから、東海本社の上官執務室にはひよこ用のクッションが置かれていて、よくそこで昼寝をする二羽を見る事ができる。どうやらもう机上に上る事はあるまいと判断し、東海道は溜まった書類に再び意識を向けたのだが。
「――何やってんだよ、兄貴……」
「東海道」
 ひよこが出入りするので開け放したままのドアから、呆れたような声が聞こえる。顔を上げて確認すれば、そこにはどこか渋い顔をした弟がファイルらしきものを抱えて此方を見ていた。
 毎度の事ながら、ドアが開いていて来客があるでもないのだから入ってくればいいのに、と弟が示した上官と部下の距離を寂しく思いながら、入室を許可する一言と軽い手招きで彼を呼び寄せる。
「どうした、何かあったのか?」
「いや、単なる定期報告の書類だけど……アンタtoicaたちの事そんな風に呼んでんの?」
 ファイルケースから数枚の書類を差し出され、ああもうそんな時期か、と瞬きをひとつ。
 東日本と違ってそう路線も多くない東海在来線の月末報告書は、まとめ役が不在な事もあって各自が上官に提出する事になっている。とはいえそれも建前で、多くはこの弟が周辺路線の分までまとめて提出するのが殆どだった。
 一旦弟が目を通しているのならばさほどの問題もなかろう、と決済するだけの書類の山へとそれを追加した。
 書類についてはそれで良しとして、気になるのは弟の最後の一言の方だ。
「そんな風とは?」
「……自覚ナシかよアンタ」
 げっそりとした表情に低く落ちた溜息。全く以て理解しがたい弟の所作に、きりりと己の眉が釣り上がるのがわかった。
 兄に向ってその言い草はなかろう、と続く予定だった東海道の言葉は、ジュニアの心の底から痛ましいものを見る眼差しに飲み込まざるを得なかった。何だ、私が何をしたというんだ。
 予想外の反応に狼狽を隠せない東海道をじっと見据え、弟は殊更に真剣な表情でソファの上、クッションに埋もれているひよこ二羽を指差して口を開いた。
「あのな、兄貴。あれはtoicaだ、JR東海在来線の主軸事業なんだ。頼むからピヨピヨなんて可愛い呼び方で呼ぶのはやめてくれ」
 せめてひよこと呼ぶなら兎も角、と告げる弟の声に、東海道は目を見開いて瞬きをひとつ。
「――ピヨピヨではマズイのか」
「少なくとも威厳は欠片もないぞ」
「でも、アレは可愛くないか?」
「この場合可愛く見えるのがアレだけじゃないのが問題なんだ」
 最後のセリフは意味が良くわからなかったが、弟の言外の圧力に負けてこくりとひとつ頷きを返すのがやっとだった。
 どうやらあの二羽を親しみをこめてピヨピヨと呼んでいるのは上官としての威厳に関わるらしい、という事だけは理解できたので、少しばかり納得がいかないのも事実だが人前ではちゃんとtoicaと呼ぶ、と約束させられることとなった。

 首を傾げる兄に対して、弟が心中胸を撫で下ろしていた事など、気付く事もなく。





 ふらふらと足取りも重く廊下を歩くジュニアは、何度目かわからない溜息を落として先ほどの光景を頭から振り払った。
 たぶん本人は毅然として対応しているつもりなのだろうが、基本的にちいさいものや幼いものに甘い兄がひよこと戯れながらあまつさえそれを「ピヨピヨ」と呼ぶ光景は心臓に悪過ぎる。
 社内だけで済んでいればまだしも、アレが東海の外に漏れたら、などと考えただけで恐ろしい。ある意味高速鉄道たちだけで済むならばまだしも、首都圏在来や九州にまで漏れたら何が起こるかなどと考えたくもない。
 対外的なイメージ上の『JR東海高速鉄道・東海道新幹線上官』を維持すべくどれだけの努力を自分たちがしているか、などと兄は知る由もないだろう。
 否、知る必要はない。彼は彼が目指す完璧だけを見ればいい。
 それを支えるのは自分たちに出来る数少ないことなのだから。
 ふう、と溜息をもうひとつ落として、ジュニアは在来線詰所のドアをがちゃりと開けた。
「あ、東海道!……その、大丈夫だった?」
 がたり、と椅子から立ち上がって此方を窺う関西本線の声に合わせるように、室内に居た数人の視線がこちらに向けられたのを感じる。
 彼らの問いかけるような眼差しに応えるべく、ジュニアはぐっと親指を立ててミッションコンプリートを示して見せた。
「良かったぁ……上官、怒ってらっしゃらなかった?」
「よくわかんねえみたいな面はしてたけど、怒ったり不機嫌になったりはしてねーよ。自分だって少しは自覚があったんだろ」
 どすり、とソファに腰を下ろした東海道の直ぐ横、関西が安心したように吐息を零した。次いで此方を労うように身延が煎茶を目の前に差し出してくれる。一口啜れば熱くもなく温くもなく、丁度良い温度で無自覚に乾いていた喉を潤してくれる。
「あ、コレ美味い。牧の原?いや、川根か?どっちにしろ俺の沿線だよな、おまえんとこの沿線のヤツとは香りが違うような」
「磐田だ。最近はあちらも良い茶葉が出回っている」
 何よりあそこの茶畑は上官の架線の直ぐ傍にあるのが良い、と呟く身延の視線は天井近くの壁に向けられているが、誓ってもその網膜上の映像はそんな無機質なものではないだろう。己の兄に向ける彼らの崇拝具合は相当なもので、首都圏在来にブラコン呼ばわりされる自分などとはレベルが違う。
 こうなったら戻ってこない事は長年の付き合いで熟知しているジュニアとその他東海在来線はおぼんを抱えたままトリップした彼をナチュラルに放置したまま、今回の事の次第を語り合う。
「でも良かったよね、早めに気付けて。あんな可愛らしい上官が社外に漏れたらそれこそ大変な事になるところだったもの」
 茶菓子の煎餅を齧りながらしみじみと告げる高山の声に、うんうんと皆が同意を示すように頷く。出された煎茶を飲み干したジュニアも菓子皿に乗ったそれに手を伸ばし、ばりん、と噛み砕いて肩を竦めた。
「あのバカ兄貴、こっちの心配は余計なくらいする割に自分の心配をこれっぽっちもしやがらねえもんな。自分がどれだけ目立つか自覚しろっつーの」
 事更に己の立場を強調してトップである事を内外に知らしめる割に、そこに付随する感情にはどうにも疎いところがある上司である。これまでどれだけ上官に不埒な感情を持って近づこうとする輩を排除してきたか、数えることさえ億劫になるくらいだ。だがしかしそういうところも身近に感じられてより一層慕う要因になっているので、この件に関する東海在来線の思いは強固になるばかりなのだが。
「今回は未然に防げた、という事で良かろう。犠牲になるものがなければそれに越した事はあるまいよ」
「……君が言うと洒落になって無くて怖いよ飯田……」
 落ち着いた外見に反して以前上官にちょっかいをかけようとした名鉄羽島線をもう少しで愛刀の錆にしかけた飯田の言葉は重みが違う。どっと疲れた、といった表情で中央が視線を斜めに過らせ、同じように視線を逸らしたジュニアのそれと絡んで溜息がひとつ。

 果たしてこの秘密はいつまで秘密として保てるだろうか。
 一歩間違えば危険な方向へと総出で足を踏み外しかねない上官親衛隊のような同僚を前に、一応少しは冷静な二人は揃って天井を仰いだのだった。




2008.09.08.

良いネタを頂いたので小ネタのつもりで書いていたら長くなったのでアップ。