ナインズ・レボリューション
大抵のことには驚かないくらいの胆力を持ち合わせている自負はあったし、そもそも長らくこの国を走ってきた己だ。そう滅多なことでは根幹を揺り動かされるような事態にも遭遇することも無い。
けれど、今この瞬間に己の前に立つ人物の穏やかな微笑を目の当たりにして、非常に珍しい事ながら東海道本線は次の句を見失い、ぎしりとその足を止めた。
「アンタ……なんで、」
「会いてぇと、思っだがらなぁ」
何処か間延びしたような穏やかな声で告げるのは、己が最も会いたくなかった人物。しくりと胸の奥で痛むのは罪悪感で、背筋からぞわぞわと這い上がるのは嫌悪感。そのいずれとも選びかねた感情が渦巻く内を、けれども東海道本線が日本の大動脈の本線たる矜持で捩じ伏せて、進めた一歩は酷く重く疲労感を覚えた。
そう遠くない過去、あの雪の日。
逃げ出すように彼の部屋を辞した後、駆け込んだ宿舎の己の部屋で、剥ぎ取るという表現が相応しい勢いで着せられた服を脱ぎ捨てた東海道がまずしたことは、温もりを与えられた身体に冷水を浴びせかけることだった。痛い程に冷えた水道水のそれは、けれども今も足止めを食っている己の路線の車両たちから伝わる雪に比べれば、十二分に温度を持つ。
きしりと噛み締めた奥歯と明瞭になってゆく痛みの感覚に、覚えた嘔吐感のまま吐き出したのは、胃液とココアの混合物。これで彼からの暖かさの欠片も己の中に残らない事実に僅かな安堵さえ覚えながら、排水溝に渦を描いて消えてゆく吐瀉物の残滓を見つめる。蛇口を捻るのさえ容易く無い程にかじかんだ指先で、冷え切った身体に纏った替えのシャツと制服の感触こそが、この存在の輪郭を確かにするのを何処か客観的に感じていた。
あの日から、この人に会うことを徹底的に避けた。
兄と山陽上官に懇願してさえも、この人の姿も声も己の傍に寄せたくはなかったからだ。少し寂しそうな顔をした兄と、苦笑交じりの山陽上官は、けれども東海道の内心を問い詰めることも無く、ただわかったと一言で東京での自分たち以外の高速鉄道との接触を断ってくれた。
そもそもが兄である東海道新幹線の平行在来線としてほぼ路線を同じくする東海道だ、その籍が東日本にもあるとはいえ、関わる事は滅多に無い。今までは兄が山形の傍に居たからこそ、その姿を見かける機会が多かったに過ぎない。
そうして東京駅から足を遠ざけ、京浜東北との繋ぎも品川に重点を置いて。端目から見れば東海の案件偏重だった本来の自分に戻っただけなのだと、そう見えただろう。
けれども、今、目の前には最も会いたくなかった人物の姿。
それも東京から遠く離れた、東日本の管轄下の最西端、熱海駅のホーム。本来ならば決してその姿を見るはずのない相手に、覚えたのは理不尽な怒りだった。
だいたい俺がこれだけ酷い態度でいるにも関わらず、まだ『会いたい』ってどういう風の吹き回しなんだ?そもそもあのヒトと俺はただの上司と部下、それも直接には関係の無い、薄っぺらい関わりだ。
兄貴に遠慮してんのか、はたまたお得意の平等に過ぎる好意だかなんだか知らないが、こっちは有難迷惑だっていい加減気付いてくれてもいいんじゃないのか!?
一気に上がったボルテージを不満を爆発させる方向に持って行くことに決めた東海道は、文句のひとつもつけてやるべくもう一歩、山形との距離を詰める。何処か平坦な印象を覚えるその造作の中で、双眸に薄らと浮かんだ愉悦の光には、気付かぬまま。
「一体何の御用件ですか、山形上官。貴方の個人的見解から私の職務を妨害なされるというのなら、東日本所属の東海道線……貴方の部下のひとりとしてではなく、東海の東海道本線として貴方に対することも私には出来るのですが」
燃えるような怒りを隠すこともせず、押し殺した声の中に封じ込めた感情の色など明らかだろうに、何故か目の前の男は口元を綻ばせる。何がそんなに可笑しいのか、と更に頭の奥で理性の糸が何本かぶちぶちと千切れる音を聞きながら、今度こそ怒鳴りつけようと息を吸い込んだ、東海道の視界を過る白い残影。
何が、と認識するより早く、頬をなぞる絹の柔らかな感触に息が止まる。そして東海道が己の身に起こりつつある事態を把握するよりも先に、ぬるい吐息が唇を撫でて、そして。
「……ん、ごっつぉさま」
僅かに濡れた柔らかいものが、触れてなぞって、そして離れてゆく。
ひゅるりと二人の間を通り抜けていった温い風は、既にこの土地の季節が桜咲く初春から新緑の晩春へと移り変わろうとしていることを示していた。慣れ親しんだ東海道沿線の季節の欠片、その中で唯一今目の前に在る人物だけがそぐわない。
そして何よりも、たった今その相手に為された行為が東海道を惑わせる。
知識としてはあったし、無論過去に経験が無いわけでもなかったけれど、今此処で己の身に起こる現実としては最も縁遠い筈だったそれに、東海道は再びその身を硬直させ、処理能力の限界を超えた事態に対して、きゅるきゅると軋む音を立てた脳みそを、必死で立て直す。
何をした、何をされた、否そもそもこの人は一体己をどういう目で見て、どういう意図で此処に来たんだ。最後に白い手袋が頬をするりと撫でて離れてゆくのを、漸く取り戻した意識とぶり返した怒りのままにがしりと掴み、低い声で唸るように彼の名を呼ぶ。
「山形サン……アンタ…」
「しょっで言うたべ?『会いてぇ』って」
掴んだ手首から伝わるのは、見かけ通りの体温。そしてばくばくと不穏な鼓動を主張する自分の心臓に対して、とくりとくりと一定のリズムを刻む脈が、彼の言葉を裏付ける。
言葉の裏を探る必要がないというのなら、この人の態度も行動も何もかも、たったひとつの法則に則って現在に帰結したに過ぎない。唯一不透明さを増した要因として、これっぽっちも此方の心情や立場や困惑を考慮する気がなかった、というある意味この優しくてそれ故に酷いこの人らしさが見え隠れするものの、経てきた歴史だけは長い東海道には、理解出来ないこともない。
だが、それを許容できるかどうかと言われたならば、話は別だ。
「っ、…ざっ、けんな……!」
ぎゅっと握りしめた拳は、ぶるぶると小刻みに震える。
手のひらに爪が食い込むほどに強く握りこんだそれを、東海道は渾身の力を込めて目の前の相手の横っ面へと叩き込んだのだった。
2011.02.28.