追う背中、縋る指先
あとはもう車庫へと向かうだけの最終列車を見送って、東海道は深く息を吐き出した。
昨日から続いた小田原〜熱海間の豪雨により、この二日間は散々な有様だった。ここのところはご無沙汰だった『新幹線ホテル』をやる羽目になり、朦朧とした意識の中でそれでも責任感とプライドだけを頼りに走り切った二日間だが、覚えているのは疲れ切った乗客の顔だけだ。
東海道を共に走る弟共々この日のダイヤはほぼ壊滅。なんとか通常運行まで持って行ったのは随分と後のことで、払い戻しが幾らになったかなどと考えるだけで頭が痛くなる。
常に無いほど青い顔をしながらも、己と共に走ろうとする弟を仮眠室に放り込んできたのはつい先ほどの事だ。東海のラインは自分がカバーできるし、関西は神戸が延長して様子を見てくれると昨夜のうちに山陽の言質を取った。首都圏はよほどの事がなければ京浜東北辺りが湘南新宿ライン総出でカバーに当たってくれるだろう。
自分も弟も手を入れているとはいえ古い架線を走る故に、どうしても災害を避けられない箇所はいくつもある。雨さえ上がれば復旧できる今回の状況はそれでもマシな方だ。
そう、自分たち鉄道には常に次を考える責任がある。そして自分には、それに加えてJR東海全体を支える責任も存在しているのだから。
「……しっかりしろ、東海道新幹線」
ふるり、とひとつ頭を振れば、湿った前髪が汗ばんだ額にまとわりつく。
何度濡れ鼠になったかなどと覚えてはいない。走りだしたかと思えば雨量計に止められるのを何度も繰り返し、生乾きのまま一日中ずっと過ごしていた。じっとりと重い制服は部屋で干してどうにかなる領域はとうに通り過ぎて、もうクリーニングのお世話になる以外に元通りにする事は不可能だろう。
筋金入りの守銭奴な上に独立独歩の精神豊かな東海道にとって、残念ながら洗濯とは己の手に余る難行だった。
何度か失敗を繰り返した後に、常の笑顔を忘れ去ったかのような真剣な顔をした山陽と無表情の中にも瞳に痛ましげな色を宿した山形に、懇々とJRクリーニングの有用性を説かれる羽目に陥った過去は未だに汚点だ。
しかし東海道とて、別に洗濯自体が出来ないわけではないのだ。その証左にワイシャツや下着や靴下など、扱いが難しくない洗濯物や正絹の手袋は自分で洗う事が出来る。ただし東海道の部屋の洗濯機は未だ昔懐かしい二槽式で、手袋は手洗いだったりするのだが。ちなみにこの洗濯機も多忙な己のせめてもの譲歩で、本人としては一番気が楽なのは洗濯板に粉せっけんの組み合わせだということはたぶん言わない方がいい気がして誰にも告げていない。
……要するに東海道は知識や技術というもの以前に、壊滅的に記号や意匠というものが理解できないのである。電化製品の親切なユーザーズガイドよりも、分厚い取扱説明書を読む方が理解できるちょっと変わった脳内構造の持ち主だ、とも言えるだろう。
『どーして分かりやすくしてある方が理解不能になるかな、おまえさんは』
呆れたように告げる山陽の声が脳内で蘇り、東海道は思わずぎゅっと拳を握った。
この二日間で自分のダイヤが壊滅したということは、すなわち繋がっている山陽にも多大な影響を与えた、という事に他ならない。
アイツにだけは頼りたくないのに、ともう一度吐き出した吐息は溜息に良く似ていて、弱気な己を象徴しているかのようで唇を噛み締める。
会社に与えた損害。乗客に与えた不信感。
拭いきれないそれを返上するには、ただ絶対の責任を以てひたすらに走るしかない。それはこれまでの歴史でそうしてきたようにただ一つの方策なのにも関わらず、いつも東海道は迷いを捨てられなかった。
東海道・山陽新幹線。
その名が示すように、自分たちはずっと共に走ってきた。苦楽を共にし、常に最先端を歩んできた。誓った言葉は今もなお生きていて、彼と共に走る事は既に東海道にとっての『日常』だった。
そしてその日常の中でだんだんと降り積もった想いを自覚したのは、自分たちのあきれるほど長い付き合いの中でもつい最近のことだ。
彼に触れたいと願う心、共に居たいと願う心、彼以外何も要らないと叫ぶ心。……それは、己の責任を放棄したいと願うことにも似ていて、東海道の彼に対する所作を変える事を許さなかった。この感情の欠片でも漏れ出てしまえば、そこから転がり落ちるように彼へと向かう己を抑え切る自信は東海道には存在しなかったからだ。
自分が寄り掛かれば、彼は当然のように支えてくれる事を知っている。
自分が彼に対してそうするように、彼は何の躊躇いも無く東海道の我が儘と甘えを許すだろう。
けれど、それは『東海道新幹線』として。
JR東海を支えるものとして許されるだろうか。
自分には守るべきものがある。走り続ける理由がある。
けれどそれすらも彼は許すから、東海道は己と山陽が共に抱えながらも告げられない想い、それに付随するべき空気に怯えている。
彼と共に居る空気が心地良い事は変わらないのに、触れる彼の手に、暖かさに己を構成している輪郭が崩れてゆくような錯覚を、ただの気の迷いだと捨て去る事が出来ない。
自分が運転見合わせ区域で足止めを食らっている為に、山陽は今夜は東京に戻るのを諦めて新大阪に詰めると連絡があった。
同様に秋田からも東京は東日本の面々で回すから無理はするなと電話で告げられ、仲間の有り難さを痛感する。
自分が無理をする必要は無いのだと、何もかもを抱え込む必要はないのだと諭される度に、我武者羅に必要とされないことを怖いと思ってしまう自分はやはりどこかが歪んでいる。
吐き出す吐息はやはり溜息に似ている。
そっと己を包み込む長い腕と広い胸の温かさを思い出して、東海道はぎゅっと己の腕を抱き締める。震えはきっと、寒さの所為じゃない。
此処には無い腕の温もりの幻影に、折れそうな膝を叱咤して先へと進む。
けれどもその先に待つ彼が居ない事が、今はひどく悲しくてならなかった。
2008.10.12.