ランチタイム
きっかけは、ほんの些細な疑問だった。
本日の日本列島の天気図は、高気圧の勢力が南方の低気圧を押さえつけ、おおむね見事な晴天となった。幸いにして風も微々たるもの、後の杞憂は事故だけだろうと思われる穏やかな昼下がり。
普段ならば誰かしらが地元に戻っていたり、己の統括する在来線のトラブルに奔走していたり、そうでなくともワーカホリック気味の東海道辺りがすこんと食事というルーチンを忘れていたりするので、どうしたって面子を欠きがちになる。
そんなわけで、東京を中心とした高速鉄道メンバーが揃って昼食のテーブルに就く珍しい光景の中、山陽はどうしても己の中で思考をこねくり回すだけでは結論が出ない疑問を前に、むむ、と唸りながら里芋の煮物を口の中に放り込んだ。
東京の社食ということもあって本来の嗜好よりは若干しょっぱい味付けだが、流石にこう入り浸っていると慣れもする。
まあこれはこれでそこそこいけるよな、と何度目か分からない妥協点を見出しながら、それでも脳内を占める疑問符に自然と眉根が寄ってしまう。
「……なに山陽、変な声出して」
顔も変なんだけど、と遠慮の欠片もなく告げる秋田の若干冷やかな眼差しに、慌ててごくりと咀嚼していたものを飲み込む。やや喉に引っかかる粘度の高い口内の物体に難儀しながら、それでもお冷の助けを借りてどうにかこうにか口内を空にして口を開いた。
「や、ちょっと考え事してて。別に妙な事企んでたわけじゃねーよ」
どっかの誰かと違って、とは口にしなかったが、視界の端で上越がその切れ長の瞳をすう、と細めたのが見えて背中に冷や汗が伝う。口元には何時もどおりの正体が読めない頬笑みが浮かんでいるが、その瞳がちっとも笑っていない気がするのは己の気のせいか。
「ふうん、そんなに上の空になるくらい悩んでることがあるんだ?」
「へえ、山陽がそーゆーのって珍しいよね」
どっちかっていうと東海道の領分ぽいけどな、と告げる秋田に、上越が朗らかにやだなあ秋田だって時々そうじゃない、主にカロリー計算で、と爆弾発言を投げかけている。ぶっちゃけ心臓に悪い。
それでなくとも喉元にひやりとするものを突き付けられたような居心地の悪さに、山陽は慌てて此処まで気もそぞろになった疑問を洗いざらい口にする以外に道がない事を悟る。
ちなみに此処までのやり取りの間に東北や山形が口を開く事はもちろん無く、普段ならばこういった場での遣り取りを騒がしいと一喝する東海道も黙々と食事を口に運んでいる。
なんだかんだとこの高速鉄道の王様の育ちは良いらしいので、東海道は食事中に喋ったり騒いだりという事は殆どしない。口やかましくなるとしたら彼の食事が終わった時で、それまでに事態を収拾しなければそれはもう盛大なお小言が待っているに違いない。
「あーもー違くて!……ほら、俺ってばここんとこずっと東京詰めじゃん?」
「ああ、そういえば最近ホワイトボードが珍しく白いなーとは思ってたけど」
ぽん、と手を叩きながら告げる秋田の言葉通り、東京の執務室から出る時には壁のホワイトボードに行き先を書くのが高速鉄道メンバーの習わしだ。そして、山陽はこのメンバーの中でもダントツに名前の横の欄が埋まる率が高い。
ただ、ここのところ東海で本格始動を始めたリニア計画の影響で東海道が東京を空ける事が多く、必然的にその分を山陽が埋める形になった所為で己のホームグラウンドに戻れない日々が続いているのも実情だ。
「こんなに長いことあっちに戻ってないのは久々だからさ、ちょっといろいろと思い悩む事もあるわけよ」
「――ふーん」
微妙に乾いた返事になるのは、前述の台詞はあくまで山陽の主観であって、別方向の当事者である東海道に言わせれば『オマエが数か月溜め込んでいた報告書をさっさと片付けていれば大阪に戻るくらいの時間はあっただろうが!!』ときりきりと眉を吊り上げてくれるに違いないからだ。
若干生温くなっているだろう視線を目の前の同僚に向け、ぽりぽりとたくあんを齧る秋田の表情に同情の文字は全く無い。そっと視線を向けた先では、東海道は未だに静かに食事中だ。彼の目の前の食器が空になるまではこの程度の騒ぎで口を開く事は無いだろうが、その時が山陽の頭上に鉄拳が落ちる時だろう、と秋田と上越は顔を見合せてうんうんと頷き合った。
しかし山陽はそれに気付いているのかいないのか、己の不幸に酔うが如く天井を見上げると、長めの前髪を摘まんで溜息をひとつ落とす。
「こんなに帰れねーとは思って無かったからさあ、髪の毛切り損ねてそのままになってんだよね。びみょーに根元も伸びてるしどーにかしたいんだけど、なんか美容院って行き付け以外のとこって行きづらくね?」
言われてみれば、確かに普段よりも前髪が若干長く、首筋にかかる量も増えている気がしないでもない。身だしなみには気を使う彼だからこそ、些細な変化も許せないものがあるのだろう。なんとなく皆で顔を見合わせ、ぱちりと瞬きをひとつ。
「確かに居心地のいい美容院て見つけるの結構骨折れるよね。技術云々じゃなくて、相性っていうか」
さらり、と艶やかな黒髪を傾げた首に合わせて揺らす上越の台詞に、これまた髪に気を使う性質の秋田も話に乗っかって、あれよあれよと行きつけの美容院や理髪店の話やら、髪の毛のケアの話やらになったりしている。
そこから更に使ってるシャンプーやらトリートメントの話になるにあたって、既に他のメンバーは付いて行くことすら放棄せざるを得ない。不潔なのはどうかと思うが、きちんと洗ってあって身だしなみとして問題ないレベルならばそれで良いのではないのか。
東北は片付いた食器を手にさっさと席を立ってしまい、山形も我関せず、といった様子でそろそろ食事が終わりそうな東海道の湯呑にお茶を注いでやった。いつもならば秋田が真っ先にそういった事に気を配ってくれるのだけれど、一旦こうして話に夢中になった彼の中からそういった事は吹っ飛んでいる。
そっと差し出された湯呑にちらりと視線だけを向けて軽く頭を下げ、綺麗な箸使いで白米を口に運ぶ。背筋を伸ばして咀嚼する回数はやや多めで、小食気味な事も加わって彼の食事は意外とスローペースだ。無論仕事絡みで急いでいる時はその限りでは無いが、だからこそ滅多に取れないこういった時間を彼なりに楽しんでいるのかも知れない。
好き放題にハネたり絡まったりする緩いウェーブがかかった髪質の長野は興味があるのか真剣に他の三人の話に聞き入っているが、正直山形もこの話題に興味は無い。何せ今の髪型自体が多少伸びても撫でつけてしまえば分からない、という適当な理由で維持されているのだから余計である。
己の分の茶を飲み干すと、既に姿の無い東北に倣って食器を手に席を立つ。ちらり、と視線を向けた東海道は、どうやらまだ食事の最中のようだ。
先に淹れた茶が温くなってしまっただろうか、と少し申し訳なくも思ったが、このままでは彼の逆鱗に他の三人が触れる時も近い。どうしようもなくなったら宥めれば良かろうと結論を出し、山形はそっとテーブルを離れた。
そうして、残されたのは話に花を咲かせる三人とそれを聞くこどもが一人。
そこから忘れ去られたように一人食事を続ける東海道の存在など、四人の同僚たちは覚えてはいてもきっと意識の中にはないのだろう。律儀に推奨されている数十回の咀嚼を行った口内の白米を嚥下し、丁度いい温度に温んだ茶を口に含んで、東海道はほう、と息を吐き出した。実はそこそこ猫舌気味なので、熱いものは熱いうちに、という山形の気遣いもある意味無用であったのだが。
温くなったとはいえ十分に熱を持ったそれをこれまたちびちびと啜りながら、東海道はぼんやりと目の前の騒がしい連中を見つめる。
自分には理解不能な単語やら用語やらが飛び交っているが、果たしてこれは止めるべきなのだろうか。そっと見遣った時計の針は昼休憩終了時刻の15分前を告げており、そろそろ執務室に戻った方がいいとは思うのだけれど。
『……まあ、たまにはこんな日があってもいいか』
5分前になったら問答無用で終了させる事を心に決めて、三人の喋り声をBGMにしながら東海道はゆっくりと食後の茶を啜る。たまにはこうしてゆっくりと食事を取るのも悪くない、それが気の置けない仲間とならば余計にだ。
それでなくとも高速鉄道の日常は忙しない。その中に置いて行きそうになる大切なものを、こうして取り戻そうとしているのかも知れない。
自然と緩む口元に自覚のないまま、ぼうっと食後のひとときを楽しんでいた東海道だったが、平穏というのは破られるためにあるものだと突き付けられたのは一瞬の後。
「――んだから、確かめてみればいーじゃんかよ!」
「……っ!?!!」
降ってきた声と共にぐい、と横から頭を引かれ、予想だにしなかった方向からのそれに抗うどころか声を上げるのも忘れて呆然とする東海道の頭をするりと長い腕が絡め取る。
嗅ぎ慣れた同僚のかすかなコロンの香りに硬直してしまった東海道を知ってか知らずか、腕の主に髪の中に鼻先を埋められる、という暴挙に出られるにあたって、更に東海道の困惑は加速する。赤くなるべきなのか青くなるべきなのか判別を付けられなかった自律神経の混乱を知らしめるように、その顔色はむしろ真っ白に近かった。
しかしその行動の張本人はそんな相手の事は全く考慮しなかったらしく、少し乱れた東海道の髪を緩く梳きながら、先ほどまで話をしていた秋田と上越に向き直り、勝ち誇ったようにきっぱりと告げた。
「こうすりゃシャンプーの銘柄くらい判別付くぜ?おまえらも試してみろって」
「ええ、ちょ、山陽……っ」
「それは……いくらなんでも、ねえ…?」
何が起こったのかさっぱり分からない東海道は山陽の腕の中で凍りついたように固まったままだし、ヒートアップした話題に我を忘れていた秋田と上越も、あまりの状況のヤバさに口元が引き攣っている。
現在の客観的に見た構図。
東海道の頭を抱き込んだ山陽が、その頭に顔を埋めた挙句に丁寧にその髪を梳いてやっている。無論抱き込んだ腕は外れては居ない。
これで東海道の顔色がもう少し良かったらいちゃついている状態ととれなくもないが、そう取るには彼の真っ白な顔色と硬直した四肢があまりに痛々しい。早くこの状況のマズさに気付いて山陽……!と願う二人の思いも空しく、停滞した空気を破ったのは幼子の何気ない言動だった。
「わあ、本当にとーかいどー先輩の髪はちょっとさくらの香りがします!」
「だろ?ほらみろ秋田に上越、いくら東海道だからって今時洗髪に石鹸はねーっての」
ちょい、と背伸びして東海道の首筋に顔を埋めた長野の無邪気な言葉に、それ見たことかと乗っかる山陽が、今の二人には心底恐ろしい。
ああ、ちょっと、東海道が膝の上で思いっきり拳握ってるんだけど……!
そこからの行動の素早さは、互いに互いを褒めてやりたいほどだった、と後に秋田と上越は語る。
東海道から離れた長野を浚うように上越が抱え、取りまとめた三人分の食器を秋田が神業的早さで返却口に押し込み、ダッシュでその場を後にする。
振り返ってはいけない、少なくとも長野にこの後起こり得るだろう惨劇を見せたら教育上あまりによろしく無い。
ばたん、と食堂のドアが閉じるのと。
昼休憩の終わりを告げる間の抜けたチャイムが鳴り響くのと。
何か鈍器で殴りつけるような盛大な音と悲鳴、それに続く怒号が閉めたドアから漏れ聞こえるのはほぼ同時の事だった。
その後、食堂の壁にべたべたと『食事中は静かに』という標語を貼る不機嫌そうな東海道と、それを右頬を盛大に腫らせて粛々と手伝う山陽の姿が見られたという。
「たまに仏心など出すものではないと骨身に染みたぞバカ山陽」
「いや、それは悪かったって。ホントに他意はなかったんだって」
「……それはそれでムカつくんだが」
「へ?何か言った?」
「なんでもない!……ほら、画鋲寄こせ」
「はいはい、仰せのままに」
本日晴天、運行は良好。
まあこの程度の些細な諍いも日常のうちだと、背後の山陽に見えないように東海道は小さく笑みを零した。
2008.12.23.
上官たちの食事風景と見せかけてシャンプーに纏わるエトセトラ。